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 飛行機と列車の長旅を終えてアパートに着くと、雪はまた一段と荒々しくなっていた。視界を激しく遮る大雪の中、やっとの思いで部屋に飛び込むと、スーツケースを玄関に放置してまずストーブを入れる。

 雪花はコートを着たまま、素早くケトルで湯を沸かす。部屋はすぐには温かくならないから、一刻も早くあつあつのカフェオレを作りたかった。

 手袋を嵌めたまま湯船に湯を張り、粉末を入れたマグカップにケトルの湯を注ぐ。頭から足の爪先まで冷えきった体に、カフェオレの甘さと熱がじんと沁みた。ベッドに座って味わいながら飲んでしまうと、強張り続けた両肩からようやっと力が抜ける。

 目覚まし時計の針は夜中の零時を過ぎている。携帯電話を開くと、五回もの着信が入っていた。一番新しい履歴は十五分前だ。

 雪花はやれやれと思いながら、自宅の電話番号にかけ直す。夜中にもかかわらず、相手はたった二回のコールで出た。

「お母さん。あたし、雪花だよ。出られなくてごめんね。空港に着いてから、ばたばたしちゃって。今、無事アパートに着いたよ」

 電話の向こうの母はやはり、眠らずに雪花からの着信を待っていたらしい。案の定、五回も電話に出なかったことを真っ先に怒られた。

「ごめんね、本当に。こっちに着いたらやっぱり雪がひどくて、着陸も一時間くらい遅れちゃったの。乗り継ぎの特急もだいぶ遅れてて、最終には乗れたけどなかなか動かなくて、アパート帰るまでにかなりかかっちゃった。……晩ご飯? 食べたよ、空港で。うん、あったかいもの食べたよ。今? カフェオレ飲んだとこ。温度? 帰ってきてすぐはそりゃ寒かったけど、今はストーブも効いてきたし、ちゃんと着込んでるし大丈夫だよ。これからお風呂に入る。連絡遅くなってごめんね。移動が結構気忙しくて、携帯を全然見てなかったの。……ううん、違うよ。そんなんじゃないよ。安心して、お母さん。もう大丈夫。ちゃんと部屋に着いたし、玄関も窓もちゃんと鍵閉めてるから」

 心配が限界を超えたせいで感情が収まらない母は、涙ぐみながら同じ言葉ばかり繰り返す。決して嫌そうな気配を出してはならないと、雪花はひたすら根気強く応じた。

「電話が遅くなって本当にごめんね。でも、無事にちゃんと部屋に帰ったから。結構遅れたけど、飛行機も電車もちゃんと動いたし。帰り道、滑ったり転んだりもしてないよ。安心してお母さん。お父さんやお姉ちゃん、お兄ちゃんたちにもそう伝えて。大丈夫だよ、もう部屋もあったかいから。これからお風呂で芯まであったまって、電気毛布で寝るから。心配してくれてありがとう」

 何度も同じような会話を繰り返して、母はやっと落ち着いてくれた。だが、なおも話し足りないらしく、電話を切るタイミングが一向に見つけられない。雪花が内心気を揉んでいると、起き出してきた父が間に入ってくれ、三十分近い長電話はようやく終わった。

 父がもし現れなければ、あと何分ぐらい続いていただろう。父の機転に感謝しつつも、母に対する後ろめたさがちくちくと刺さる。

 雪花は携帯電話をベッドに放ると、湯船の湯加減を見に行った。ローズのバスエッセンスを入れ、服を全部脱ぎ捨ててしまうと、湯気の立つ湯船にゆったりと全身を沈める。

 寒さでかちかちになった血管や神経が、少し熱めの湯で解れていく感覚に脳までとろける。白濁した湯から立ち上るバラの香りが鼻腔をくすぐり、一人の場所に戻ってきた安堵が夢見心地みたく広がった。

 雪花はむくんだ足や強張った腕が湯から出ぬよう気にしつつ、丹念にマッサージを施しながら思いを巡らせる。

 母は悪くない。その心配は無理からぬものだ。頭ではそう理解しているのに、それでも疎ましく思ってしまう理由はやはり、血縁の一言に尽きるのだろうか。

 いや、違う。血の繋がりなど関係ない。たとえどんな間柄だったとしても、母は雪花を実の娘のように大切にしてくれている。

 悪いのは雪花のほうだ。全ての非は、母ではなく雪花にある。要は雪花の気持ち次第で、全てはプラスにもマイナスにも動くのだ。そこまで分かっているのに、苦い感情はどうしたって消えない。その頑固さに、我ながらほとほと呆れてしまう。

 熱い湯で勢いよく顔を濡らす。下ろした髪が湯の中でゆらゆらと揺れ、顎を浸して小さく水泡を立てると、まるで映画に出てくる幽霊になった気がした。

 雪花は上半身を反らして両手を底に突くと、耳のぎりぎりまで後頭部を浸しながら天井を仰ぐ。星屑みたいな黒染みが浮かぶそれを眺めていたら、時の流れからたった一人だけ弾き出されたような錯覚に陥った。

 ふいに瞼が熱くなる。湯気のせいかと思ったが、それは違うと数秒後に気が付いた。濃くも静かな衝動が思惟を揺らし、雪花はおよそ一年ぶりにひくひくと小さな涙を流した。



 冬期休暇が明けて授業が始まり、二年次の授業と試験が全て終わるまで、驚くほどあっという間に時は過ぎた。試験が終わると、大学へ行く用事は基本的になくなる。そして今度は、一ヶ月以上にわたる春期休暇に突入した。

 大学生になって驚いたのは、有り余るほどのゆとりが与えられることだ。夏休みも春休みも中高生より二週間は多く、学期中も時間割の組み方によっては平日でも休みを作れる。雪花は理系の学科であるため、授業や課題の数も多いほうだが、そこまで忙しい気はしていない。暇な時間をやたらと与えられるより、細々とでもやることが入っているほうが性に合うからだ。

 二年次最後の試験を終えると、雪花は早々に教室棟を後にした。ちょうど昼食時だったが、ラウンジや食堂で友人を探すことはせず、そのまま帰途に着くつもりでいた。

 しかし、教室棟を出てすぐの道を歩いていた時、

「ゆっきー!」

 雪花の姿を見つけるなり、希実は嬉しげな笑顔で駆け寄ってきた。この地で生まれ育った希実は俊足で、連日の雪で凍結している道でも怯むことなく闊歩する。雪の少ない土地で育った雪花はそれを見る度、よく転ばないものだと心の隅でいたく感嘆していた。

「ゆっきー、今終わり?」

「うん。ドイツ語の試験だったの」

 大学でできた友人と、地元の友人とで違うところを挙げるとすれば、雪花のことをあだ名で呼ぶかどうかだろう。今まで「雪ちゃん」や「雪花」と呼ばれて育ってきたが、この地に来て初めて「ゆっきー」と呼ばれるようになった。最初こそ慣れなかったものの、二年も経った今となっては、あだ名で呼ばれないほうが違和感を覚える。

 希実は雪花の横に並び、トートバックをぶらぶらと振りながら、

「あたしもチャイ語が無事に終わったとこ。ねえゆっきー、食堂でご飯食べていかない? お腹空いたし、今日で二年の授業は全部終わりじゃん。他の子にも声かけてあるの。一緒に行こうよ」

「ごめん、のんちゃん。あたし、パス。実は二時からバイトなんだ」

「えっ、バイト? 一月から始めたっていう、運河近くのパン屋さんの?」

「正確には運河のちょっと外れだけど、そう。今年の授業が全部終わったから、入れてもらったんだ」

「ええっ。それ、大変じゃない? 実家に帰る暇あるの?」

「帰らないよ、実家には。去年の春休みもずっとこっちにいたじゃん。春休みは基本バイト。といっても、星見の集まりには参加できるよ。よかったらまた誘って」

 雪花は昼食に誘ってくれた礼を再度言って、食堂と正門への分かれ道で希実と別れた。友人たちとお昼を楽しむ時間はあるが、楽しみすぎて長居すると遅刻するかもしれない。

 大学からバイト先のパン屋までは、直線距離で徒歩二十分はかかる。昼間は大学から出ている無料バスがないから、最寄り駅まで緩やかな坂道を歩かなければならない。歩道の雪は路肩に寄せられているが、路面が凍結しているところもあるので、それなりに注意して歩かないと痛い目に遭う。

 ここは想像以上に雪が多い。さすが北国と言うべきか、程度の差はあれど気付けばいつでも雪が舞っており、路肩に壁みたく寄せられた根雪は春過ぎまで溶けない。

 この地で初めて冬を迎えた去年は、毎日が雪と共にある生活にひたすら度肝を抜かれた。だが二年目を迎えた今では、雪道を歩く足取りもなかなか様になってきた。油断するとすぐ滑って転んでしまうので、冬場に外を歩く時はいつでもどこでも気は抜けないが。

 雪花がアルバイトしているパン屋は、店名を『千年雪』という。駅前を流れる運河の少し外れにある、木目調の外観をした手作りパン専門店だ。そこは海外での修行経験もある主人が五年前に開いた小さな店で、売り子の妻と二人三脚で切り盛りしている。何でも、開店以来ずっとアルバイトは雇わずにいたが、今冬に第一子を産んだ妻を気遣った主人が初めて募集をかけたらしい。

 小雪がはらはらと舞い散る中、雪花は勤務開始の二十分前に『千年雪』に着いた。

「こんにちは。お疲れさまです」

 小さな車庫ぐらいの規模の店で、レジ番をしながら赤ん坊を抱いている奈穂子が、来客を告げるベルの音にぱっと明るい笑顔を向けた。

「あら、雪花ちゃん。こんにちは」

「こんにちは、奈穂子さん。すぐ着替えてきますね」

 雪花は奥にある小部屋に入り、荷物を置いて髪を一つに括ると、店名の入った緑のエプロンを着ける。

 奈穂子はレジの隣にベビーカーを寄せて、腕の中で眠る赤ん坊の背中を軽く叩いていた。

「主人には会った?」

「はい、厨房にいらっしゃいました。挨拶したら、よろしくとだけ言われて」

「相変わらず無愛想な人ね」

 奈穂子は困った顔で小さく笑い、抱いた我が子にすぐ目を戻す。

 店内に客の姿はなく、低く流れるクラシックが沈黙に色を添えている。雪花は陳列されたパンの種類と数を確認すると、奈穂子の隣に立っていつでも客を迎えられる体勢を取る。

「雪花ちゃん、大学は今日で終わり?」

「はい。おかげさまで無事、二年生を終えることができました」

「それは何より。思ったより簡単だったじゃない。今年は単位がやばいって言ってたけど」

「やばかったのは本当ですよ。でも、必死に食い下がったおかげで何とかいけました。たとえC判定でも単位は単位、Dで不合格じゃなければいいんですから」

「そうね。その考え方、好きよ。わたしも若い頃はそうだったわ」

 奈穂子はくすくすと笑いながら、眠る我が子をそっとベビーカーに移そうとする。しかし次の瞬間、身動ぎを敏感に感じ取った赤子が小さくむずがった。雪花は思わず吹き出すが、奈穂子はやれやれとため息をつく。

「困ったものよ。ベッドなりベビーカーなり、抱くのをやめて寝かそうとすると、すぐ起きてぐずっちゃうの」

「きっとママのお腕が一番安心するんでしょうね。ベッドに寝かされると、離れていっちゃうと思って嫌なんですよ」

 赤子は奈穂子が抱き直すと、一瞬でまた深い眠りへ落ちていく。

「可愛いですね、舞雪ちゃん。ほっぺたぷにぷにで」

「でしょう? 主人なんてね、世界一のほっぺだってべた褒めするのよ。もう笑っちゃう」

「へえ、意外ですね。店長に親ばかなんてイメージ、全然ない」

「外面だけはいいのよ。あ、でもこんなこと言ったら怒られちゃう。主人には内緒ね」

 奈穂子は悪戯っぽく舌を出して笑う。雪花もつい、ふふと笑った。

「年明けに生まれたから、もう一ヶ月とちょっとですか。早いですね」

「そうね。おかげで年末年始はてんてこ舞いだったわ。でも、無事に生まれてくれてよかった。ほら、わたしって高齢出産だから、周りも結構心配してくれてたのよ。初めてのお産だったし」

 店には時折、一人か二人の客が入ってきては出ていった。どの客もパンなりサンドイッチなりを、必ず三個以上は買っていってくれる。『千年雪』はこぢんまりとした店だが固定客が結構いて、少しずつだが口コミで客数も増えているようだ。

「千年雪は今日も完売ですか?」

「おかげさまで、十二時には全部売れちゃった」

「さすがですね。でも、結構持ったほうじゃないですか? 土日だと確実に売り切れてる時間帯ですよね」

「そうね。今日は比較的ゆっくり売れていったわ。でも、わたしから言わせれば物好きねって感じだけど。だって、パン屋でロールケーキを買う図って何だか滑稽じゃない? ケーキ屋でもないのに、ロールケーキがあるって」

「プリンもありますしね」

「プリンはまだ分からないでもないわ。でも、ロールケーキはどうなのって思うの。最初に主人から聞いた時、パン屋でロールケーキを出して売れるのかなって首を傾げたものよ。でも意外や意外、今じゃうちの看板商品。それにロールケーキだけじゃなくて、パンもちゃんと一緒に売れていくからほっとしてる」

「美味しいですもんね、千年雪。あのふわとろ感が絶妙で、癖になって。お客さんにも評判だし、十時に出してすぐなくなっちゃう日もありますし」

 店内に客が一人もいない時は、こうやって奈穂子とお喋りに花を咲かせている。しかし、客が一人でもいる時は、お互いに無駄話は決してしない。

 雪花はレジの他に、パンの陳列も担当している。『千年雪』では基本的に激しい肉体労働はなく、温かい空気と柔らかいパンの香りに包まれながら、仕事というより手伝いのような感覚で働かせてもらっていた。

 雪花が焼きたてのクロワッサンとミルクパンを棚に並べている時、眠る舞雪をようやっとベビーカーに移すことに成功した奈穂子は、レジの空いたスペースで商品のポップを描いていた。

「雪花ちゃん、春休みは地元に帰らないって本当? 二月と三月は多めに入れてくれて大丈夫って、主人から聞いたんだけど」

「はい。去年も春休みはずっとこっちにいたんです。だから今年もそうしようと思って」

「そうなの? そりゃあ、うちは大助かりだけど。でも大丈夫? ご家族は心配してるんじゃない? たまにはみんな、雪花ちゃんの元気な顔が見たいかもよ」

「あはは。母や上の兄なんかは、よくそう言って電話してきますね。二人とも、なかなか末っ子離れができないみたいで」

 母という単語を口にした時、胸が唐突にずきりと痛んだのを、雪花はさらりと笑って無視した。

「せっかく地元以外の土地にいるんです。大学生の四年間なんてきっとあっという間だから、せいぜいたっぷり謳歌しなきゃと思って。地元の友達とは今も連絡取り合ってるし、母や上の兄は単に寂しいだけだから、そこまで気にすることないかなって」

「へえ。愛されてるのね、雪花ちゃん」

 奈穂子が零した何気ない賛辞が、雪花の心を短くも鋭い針で一瞬抉る。奈穂子はポスターカラーを片手に、ベビーカーで眠る舞雪を時折気にしながら、

「雪花ちゃんって何人家族?」

「六人です。父と母と、きょうだいは兄が二人と姉が一人。あたしは末っ子なんです。だからどうしても温室育ちというか、とことん甘やかされて育ってしまって」

「なるほど。自立したいのね、雪花ちゃんは」

「いつまでも甘えてるわけにはいきませんから」

 雪花はパンを棚に並び終えると、今度は綺麗に洗ったトレイやトングを、清潔な布巾で丁寧に拭いていく。食品を扱う仕事なので、商品も備品も雪花自身も、徹底した衛生管理が欠かせないのだ。

 奈穂子はポスターカラーで文字を装飾しながら、

「でも、何でまた進学先をここに? わざわざこんな北の果てまで来なくても、大学なら他にもいっぱいあったでしょうに。雪花ちゃんの地元は大都会だから尚更」

「高校の修学旅行でここに来て、この町に一目惚れしちゃったんです。いいなあ、いつか住んでみたいなって。調べてみたら、行きたい学科のある国立大があると知って、じゃあ受けてみようかなって。雪国暮らしにも興味あったし、好きな町だし、一石二鳥じゃないですか」

「でも可愛がられて育ったんじゃ、こんな僻地での一人暮らし、ご家族は反対したんじゃない?」

「それはもう、結構な修羅場でした。ここの大学を受けて、卒業後は一人暮らしするって言ったら、特に母と上の兄が大反対って大騒ぎ。父と姉と下の兄も驚いてはいましたけど、そこまで反対じゃなかったみたいで、最後には味方に回ってくれました」

「相当心配だったのね、お母様と上のお兄さん。説得も大変だったでしょう」

「かなり。受験先は絶対ここって決めたのが高二の夏で、それから一年ぐらいは家の中が修羅場でしたね。特に母とは冷戦状態が長く続いて、半年以上も口を利かなかったり。成人式の関係で、ついこの間まで帰ってたんですけど、いる間中、母も上の兄もずっと、春休みは戻ってこいとか、地元で就職しろとかうるさくて」

「まあ。でもお母様のお気持ち、分かる気がするわ。こんな可愛いお嬢さんを、遠い北の大地で一人暮らしさせるなんて、わたしも考えただけで卒倒しちゃう」

「だからだと思います、部屋探しとかも、ものすごく熱心で。オートロックじゃなきゃだめだ、駅近で人通りの多い場所がいい、女子専用の学生マンションじゃないと嫌だとか、希望というか条件を山ほど提示されて。探し物の得意な姉が、母の希望が全部入った今の部屋を見つけてくれたからよかったけど」

 雪花は奈穂子から渡された新しいポップを、ショコラマフィンの棚へ貼りに行く。店内のポップは全て奈穂子の手描きで、レジや他の仕事は雪花に任せても、ポップ制作だけは日々熱心に続けている。彼女の描くポップはパステルを基調としていて、添えられたイラストも愛嬌があってなかなか可愛い。

「ここに住んでみて驚いたでしょう? いろいろと。特に雪、冬の厳しさ」

「はい。それはもう、想像以上でした」

「本州に比べて春は遅いし、夏は短くて冬ばかりが長い。しかも冬になると、雪は毎日メートル単位で降り積もる」

「本当に。ある程度の予備知識は勉強してきたつもりだけど、実際に過ごしてみると、そんなのまるで役に立たないって実感しました。本州育ちの身からしたら、夏は涼しいどころか寒いくらいで、冬は寒いっていうより冷たすぎて痛いみたいな。特に最初の年の冬は何回か、マジで凍え死ぬんじゃって思いました」

 時刻が夕方に差し掛かると、それまで途切れ途切れだった客足が徐々に増えてきた。『千年雪』は六時半に閉まるので、その前の滑り込みが結構多いのだ。

 閉店間際になって、それまでおとなしかった舞雪が、火が点いたように泣き出した。どうやらお腹が空いていたらしく、母乳を与えるために奈穂子が奥へ下がり、雪花は店じまいの作業とレジの締切りを全て一人でこなす。

 棚のパンのほとんどは閉店までに売り切れ、残ったものはお裾分けとしてもらって帰るのが恒例だ。売れ残りを好まない店長は、毎朝その日の売上げを想定しながらパンを作り、追加分も客足や売れ筋の傾向を見極めてから焼いている。

 口数が極端に少ない店長から、今日のお裾分けのパンが入った袋をもらう。雪花が帰り支度をして店を出る時、舞雪を抱いた奈穂子が見送りに出てきてくれた。腹が満たされた舞雪はご機嫌で、おとなしく奈穂子の腕に収まっている。

「舞雪ちゃん、おはよう。よく眠れたかな? 本当に可愛いですね」

 雪花が舞雪の薄い髪を撫でると、きょとんとした顔の娘に奈穂子が「よかったでちゅねえ」と話しかける。雪花は思わず吹き出してしまった。

「見ていて飽きないですね」

「そうね。もう本当、愛しくてしょうがないの」

 奈穂子はもじもじと動く舞雪を抱き直すと、

「わたしね、今すごく実感してるの。母になると、女ってこうも変わるものなのかって」

「やっぱり何か違うんですか? 今までと」

「明らかに違うわね。守るものができたから」

 雪花がそっと伸ばした人差し指を、舞雪の小さすぎる掌がきゅっと握る。その様を見て笑いながら、奈穂子は眩しい喜びを滲ませて語った。

「結婚もね、守るものができるという面では似ているの。独身の頃にはなかった、新たな家庭というものが加わるわけだから。でも、それと子供とは全然重みが違う」

「重み……ですか?」

「そう、重み。わたし、舞雪を産んで心から思ったの。何が何でもこの子を守り抜こう。舞雪を守るためなら何でもする。たとえ自分の命を擲ってでも、この子だけは絶対に守ってみせる……生まれたてのこの子を見た瞬間、そんな気持ちが自分でも驚くぐらいぱっと芽生えてね。その時じんわりと、ああ、わたし母親になったんだなって実感したの」

 奈穂子は舞雪の頬につんと触れ、朗らかな幸福に溢れた瞳で語る。しかし雪花はその言葉を受け止めて、人知れず心臓が数秒止まったような感覚に襲われた。

「妊娠が分かった時にも思ったんだけど、生まれたての舞雪を初めて抱っこした時により強く思ったの。この子がわたしを母親にしてくれた。わたしはこの子を、何があっても守り抜くって。この子がいるから死ねない。でも、この子のためなら死ねる。どっちの気持ちも不思議と強くあるの。矛盾してるでしょう? 死んでもいいと思いながら、やっぱり死ねないなんて。でもきっと、それが母親ってものなのよ」

 そう言って、奈穂子は隣に立つ夫に笑いかける。店長はやや険しい仏頂面をしているが、決して機嫌が悪いわけではないのは雪花にも分かった。

 雪花は父と母を交互に見やる舞雪の頭をそっと撫でて、

「素敵なお話ですね。羨ましいな。それにしても、舞雪ちゃんって可愛い名前ですよね。字もすごく綺麗で」

 雪花の言葉に、奈穂子の表情が喜びでさらに柔らかくなる。

「主人がつけたのよ。この子が生まれた日、深夜だったんだけど、ものすごく静かに粉雪が舞っていたんですって。それがいつになく綺麗で、この名前を思いついたって。ねえ、あなた?」

 奈穂子が声をかけると、店長はふいと顔を逸らして押し黙る。そしてくるりと背を向け、

「杉原さん。夜道、気を付けて帰りなさい」

 そうぼそりと呟いて、奥の厨房に消えていった。その背を見送る奈穂子は堪えきれずに吹き出して、

「照れちゃって、もう。でもね、わたしも思うの。本当にいい名前よね。字画もいいし、響きもいいし、言うことなし。それに雪花ちゃんともお揃いね」

「お揃い?」

「ほら、雪の字繋がりで」

 舞雪は奈穂子にしっかり抱かれ、時折短く声を発してはもぞもぞと身動ぎする。その薔薇色の頬をつつく雪花に、

「ねえ、雪花ちゃんの名付け親はお父様? お母様?」

 不意打ちを食らい、雪花は一瞬あからさまに絶句しかける。だがすぐに笑顔で繕うと、

「母だと聞いてます。冬に咲く花になぞらえた名前だって」

「そう。とても素敵なセンスをお持ちのお母様ね」

 奈穂子は華やいだ笑顔で褒めると、腕の中でちょこちょこと動く我が子に「ねえ?」と同意を求める。雪花もにこやかに笑ってはいたが、その先はどうにも続けられそうにない。

 雪花はもらったパンの礼を奈穂子にも告げると、閉店の札が下がった『千年雪』を後にした。

 まだ夕方と呼べる時間帯なのに、外はすっかり夜そのものだ。等間隔で灯る街灯がなければ、雪と泥で汚れた足元が暗すぎてよく見えない。

 『千年雪』からアパートまでは、駅のある方角へ歩いて十分ほどかかる。住宅や小さな店が建ち並ぶ路地を抜け、市街地でもある駅や運河が見えてくるにつれ、行き交う人の数もどんどん増えていった。空には牡丹雪が舞っているが、傘を差すほど激しくはない。しゃりしゃりと響くブーツの靴音を脳の片隅で捉えながら、深夜頃には吹雪になっているだろうかと想像してみる。

 雪花は家路を急ぎながら、見送ってくれた奈穂子の笑顔を思い出す。

 奈穂子はきっと、十二月が誕生日の末娘に雪花と名付けた母と、地方大学への進学を猛反対した母は同一人物だと思っているはずだ。実は違うと打ち明けたら、彼女はどんな顔をするだろう。

 母の腕にしっかりと抱かれた、舞雪の無防備な顔が脳裏に浮かぶ。記憶としては全くないけれど、雪花にもかつてそんな時期があったのだ。そう思うと喉に苦味がこみ上げて、ぶつけてもいない胸がひりひりと痛む。

 帰り際に交わした奈穂子との会話も忘れられない。彼女と話していて、雪花が真っ先に浮かべたのは亡き母のことだった。彼女も産まれたばかりの雪花を見た時、奈穂子と同じような思いに駆られたりしたのだろうか。

 名付け親でもある実の母が、父とともに亡くなって十八年になる。その頃たったの二歳だった雪花は、今や成人式を迎えるまでに成長した。しかし、十八年前に命を落とした両親がそれを目にすることは永遠にない。

 母になった幸せを語る奈穂子を見た後、雪花の脳裏では殺された両親のことばかりが巡っている。

 何の前触れもなく追突され、車に乗りながら体ごと潰された時、二人はまず何と思っただろう。子供を遺したまま逝けないと、最後まで思いながら力尽きたのか。それとも、一秒の猶予も与えられないまま息絶えてしまったか。

 それらは全て、今となっては考えても詮無いことだ。そうと分かっていても、雪花は深く思わずにはいられなかった。

 アパートに帰るなりバスタブに湯を張り、雪花は冷蔵庫にある材料で適当な夕食を作る。チャーハンと溶き卵の澄まし汁は、育ての母が教えてくれたレシピだ。二十分程度で作れてしまうので、食事が遅くなった時や手抜きをしたい時に重宝している。

 冷めないうちに平らげてしまうと、デザートに『千年雪』でもらったパンを食べた。バイトへ行く度に何かしらもらうので、最近はおやつや朝食に困らないのがありがたい。

 自分しかいない空間で長く過ごしていると、虚しさに襲われることが度々ある。誰にも邪魔されない時間に気が緩んだ途端、普段は封じ込めている本音が暴れ出してくるからだ。

 この地へ来ることも、一人で暮らすことも自分で決めたことなのに、なぜこんなにも胸が歪にひび割れるのか。

 大学一年生の頃は、毎晩のように泣いて暮らしていた。二年生になった今は、感情をある程度やり過ごす術を覚えたので、そこまでひどく気持ちが塞ぐこともなくなった。それがあるのとないのとでは、日々の過ごし方がまるで違うものになる。そんなことに気付くのにも一年かかった。

 春休みの間は、『千年雪』のアルバイトを定期的に入れている。実家で暮らす母には、帰省してほしいと再三言われているが、それをかわすためにもバイトに勤しむ必要があった。実際何かしら動いているほうが気分転換になるし、授業がある時のような生活リズムが保てるので一石二鳥だ。.

 雪花はたっぷり淹れた紅茶とハニーマフィンを味わうと、重い腰を上げて浴室に湯加減を見に行く。今日はゆっくりと本を読みながら湯船に浸かりたい気分だった。



 高等部を卒業したら地方の大学に進学する。学費をなるべく抑えたいから、国公立大学だけに賭ける。受験先は、地元の同級生と被る可能性が低い遠方にする。卒業後の就職先に困らないよう、手に職がつく国家試験受験資格が取れる学科を選ぶ。もし受験に失敗しても浪人はせずに、どんな形態でもいいからとにかく働いて、勤務地にかかわらず家を出て一人暮らしをする。

 雪花が進路についてのビジョンを、そこまで明確に固めたのは高等部一年の冬だった。それまでにも進路希望調査や三者面談は何度かあったが、まだ考え中と言ってずっとはぐらかしていた。

 十六歳になる年の春、雪花は予定どおり中等部から高等部へ進学した。

 一年次は中等部三年のクラスから持ち上がりだったので、教室内の顔ぶれが劇的に変わることはなかった。しかし二年次からは文系と理系にコースが分かれ、その中でさらに国公立大志望の特進クラス、私大受験がメインの進学クラス、専門学校志望の専門クラスと枝分かれしたため、馴染みきったクラスメイトたちともばらばらになった。

 元々から成績を上位に保っていたおかげで、雪花は難なく理系コース特進クラスに進級できた。そしてゴールデンウィーク明けに行われた二年次最初の三者面談で、担任教諭と両親に初めて進路の展望を明かしたのだった。

 そこに至るまでの出来事は、今でも鮮やかに覚えている。

 高校生になった雪花は、当たり前に訪れる毎日にひどく疲れきっていた。なぜと問われると困ってしまうが、いつも神経を細く細くすり減らして過ごしていた気がする。

 いつどこでも、誰といる時でも、脳の奥で鋭い糸が一本、ぴんと張り詰めている感覚が消えなかった。楽しくて笑っているのに、奇妙な違和感がいつまでも拭えない。嬉しくて気分が高揚していても、薄闇のような翳が常にまとわりつく。杞憂だとやり過ごそうとすればするほど、それは色濃く重いしこりとなって膿んでいった。

 悲しい出来事がなくても何だか虚しくて、不満はないはずなのに心が乾いている。それを言葉にできたなら、どれだけ楽になれただろう。だが口にした瞬間、きっと激しく後悔する。そんな得体の知れない確信が、しこりをさらに肥大化させていく始末だった。

 全てのきっかけとなったのは、中学三年の冬に起きたあの出来事だ。

 歩き慣れた夜道を一人で行っていた時、拳銃を持った数人の男にいきなり襲われた。絶体絶命の危機に落ちた雪花を、間一髪のところで現れた少年が、襲撃者を全員撃ち殺すという方法で救ってくれた。そして名も告げずに立ち去った、命の恩人でもあるその彼と後日、ほんの些細な偶然から再会を果たした。

 それが彼、藤澤亮と雪花の出会いだった。突如降りかかってきた途轍もない恐怖が、見たこともない闇で生きる彼を連れてきた。神の悪戯とも言うべき亮との出会いが、雪花のそれまでとこれからを一変させた。

 自らを暗殺者と名乗り、実に手慣れた仕草で銃を扱い、殺人さえ躊躇なくやってのけた彼に、雪花はずっと隠し続けていた秘密を初めて打ち明けた。

 心許した家族や友人にも言えなかった思いを、会って間もない亮はぶっきらぼうにしながらも、その痛みまで汲むように受け止めてくれた。そして亮も大切な秘密を一つ、雪花にだけ明かしてくれたのだ。

 まるで奇蹟のようなひとときだった。あの時抱いた感情はきっと一生忘れられない。こんなにも激しくて穏やかな救いがあることを、雪花はそれまで少しも知らなかった。

 しかし願いは叶わず、それから後に雪花が亮と再びまみえることはなかった。彼は次兄と尋人と同じぐらいの年頃であるが、殺人を請け負うプロとして生計を立てている。雪花とは生きる世界がまるで違うと、出会った時から既に分かりきっていた。

 亮と出会った後、雪花は以前よりも軽くなった心持ちで、しかし笑顔の絶えない自分を演じる癖は、やはり簡単には抜けなかった。周囲の人々は、雪花の微細すぎる変化には気付いていなかっただろう。だが雪花からすれば、亮と出会う前と後とでは、全てが明らかに違っていた。

 亮に抱いた感情が初恋だったと気付いたのは、それから少し時間が経ってからだった。だが自覚した瞬間、それは二度と叶わぬ夢だということにも気付いた。そして冬が終わり進級の春が訪れる頃、叶わなかった初恋の感傷が亮への消えない思慕となり、それがいつしか雪花を緩やかに、だが頑なに縛っていった。

 心を触れ合わせた瞬間を灯火のように抱いて、綺麗なまま守り続けたいという願いはもはや固執だ。そんな思いを燻らせながらも、しばらくは波風のない日々だった。

 だが、やっと高等部にも慣れてきた頃、雪花はある迷いにひどく悩まされるようになっていた。

 一つは、今までにはなかった矛盾が雪花の中に生まれたことだ。いつも笑顔を絶やさず溌剌としていることが、気付けば負担でしかなくなっていた。それは日に日に膨れ上がり、どこから手をつけていいか分からないほど、負のスパイラルは捩れに捩れていた。

 もう一つは、亮への消えない思いだ。たった二回会っただけで、しかも初対面の時には命の危険すら味わったというのに、雪花は彼のことがどうしても忘れられなかった。

 緊迫した日々が終わりを告げてからも、いつだって亮のことばかり考えていた。彼にもう一度会いたい気持ちは募り続け、だがどうしたって会えるわけがない現実が、やたらと悲しくて寂しくて仕方がなかった。

 亮に会いたい。会ってもう一度話がしたい。そう強く願うと同時に、雪花はその消息もずっと案じていた。亮は今、生きているだろうか。誰にも知られぬうちに、もしも斃れてしまっていたら。

 暗殺者という存在を、雪花は映画や小説の中でしか知らない。だが、実際にそれを生業としている人間に出会うと、決して別次元の話ではないのだと思うようになった。

 亮は己について、人を殺すことが仕事だと言った。そんな危険で過酷な世界で生きているなら、逆に誰かに命を狙われたり、殺されてしまうことだってあり得るだろう。その可能性を想像するだけで、雪花は今も全身に震えが走って眠れなくなる。

 なぜ無理に笑おうとするのだろう。なぜいつだって明るく、平気なふりばかりしてしまうのだろう。雪花が抱える本音はきっと、亮にしか分かってもらえない。本当はもっと他の誰かにも話せたらと思うのに、彼以外に打ち明ける自分をとても想像できなかった。

 他人に心を触れられる痛みと喜びを知って、本音を隠し続けることのつらさも知った。だからこそ雪花は、平凡な日常を笑顔で生きる自分にこだわり、親しい友達や家族にでもある一線は頑なに引き続けた。そういった混沌を抱えていて、亮と出会う前の自分に戻れるはずもない。まるで毎日が偽りに侵され、感覚が徐々に死んでいくようだった。

 そして、雪花の未来を決める決定的な転機が、ある日の夜にさりげなく訪れた。

 それは高等部一年の初春、家族と夕食を囲んでいた時だった。その頃、雪花は三者面談を控えており、食卓でも自然と進路や将来の話になった。当時家には両親の他に尋人がいて、佐知子は仕事でおらず、健人は結婚して既に転居していた。

 母は雪花の進路について、高一だから具体的な話はまだ早いと言いつつも、進学と就職のいずれにしろ、場所は県内で自宅通いというのが絶対条件だと何度も繰り返した。雪花の兄姉たちは皆、地元で名門と謳われるK大学に通っていた四年間、ずっと自宅で暮らしていた。彼らと同じく勉強が得意だった雪花は、継続的な努力を怠らなければ、そのK大学の合格圏に入れる可能性が充分にあった。

 具体的な進学先にはさほどこだわらない母が、県内で自宅通いは譲れないと話す理由は、偏に末娘をひどく案じているからだ。下宿だと生活の全ての責任を自分で負わねばならず、万が一病気や事故、怪我に見舞われたらと思うと、離れた地に一人で住まわせるなど、考えるだけで恐ろしいと何度も言った。そう言う母の脳裏には間違いなく、以前暴漢に怪我を負わされた、あの出来事がよぎっていたはずだ。

 感情が徐々に昂ぶり、誰も口を挟めぬ勢いで末娘の将来についてまくし立てる母を、雪花は不思議と苛立ちを感じることなく、どこか達観した心地で見ていた。母の心配は無理からぬものと思いながらも、そこまで懸念する姿をとても奇妙にさえ感じていた。

 その理由は明白だ。雪花と母の間に、親子としての血縁はない。雪花は、母と呼んでいる人の姉が産んだ子供だ。その人は、雪花が物心つく前に死んでしまった。だから雪花には今、本当の意味で母と呼べる人がこの世にいない。

 それは父も同じだ。雪花が父と呼んでいる人は、母の妹の夫だ。彼らは叔母夫婦であり養父母でもあるが、実の両親とイコールになる存在ではない。

 それなのになぜ、母は雪花をそこまで案じるのだろう。自ら腹を痛めて産んだ子でもないのに、そこまで心配する必要があるだろうか。親なら子を気にかけるのは当然という義務感を、心からの情にすり替えているだけではないか。この夫婦にとっての実子は、雪花からすれば従姉に当たる佐知子だけであるというのに。

 そう思った刹那、雪花の胸で何かが粉々に瓦解した。それはあまりにも生々しい感触で心に散らばる、泥臭く濁った醜悪ながらくただった。

 決して気付いてはいけないことだった。深く思い詰めすぎるあまり、一番近しい家族さえも他人のように扱い始める己に愕然とした。そして同時に、もうこの家にはいられないと強く思った。

 今の自分は周囲が見えなくなっている。このまま家族の傍にいると、いつか律しようのない感情が暴走するだろう。それはきっと、杞憂では片付けきれない未来だ。そうなったら取り返しがつかなくなる。

 悩んだ末に、雪花は一大決心をした。家族や友人たちと地理的にも、心理的にも離れたところで一人になって、時間をかけて自分と向き合ったほうがいい。そうしなければ、自分もそうだが他人もきっと守れなくなる。

 そう決めた後の行動は早かった。いろいろと調べてみた末、雪花は地元から遠く離れた北の地にある国立大学を第一志望にした。

 最初は遠方ならどこでもよかった。だがそのうち、どうせ下宿するなら、同級生が誰一人として受けなさそうな大学にしようと思いついた。そうして候補先を絞っていったら、自然と本州を飛び出して最北の地に辿り着いた。

 専攻は、就職や将来の人生を見据えた上で、管理栄養士の国家試験受験資格が得られる食物栄養学にした。幸い理系科目も料理も嫌いではないので、指針は案外すんなりと定められた。

 具体的な意志を固めてしまうと、そこから先は全くぶれなかった。雪花は三者面談で、母や担任教諭に初めて、遠方にある国立大学を受けると宣言した。

 末っ子の雪花を特に可愛がっていた母と健人は、それを聞くなり家中がひっくり返る勢いで猛反対した。特に母の動揺ぶりは思っていたより激しく、母と娘で荒々しい舌戦を繰り広げるというよりは、気が重くなるような冷戦の日々を過ごすこととなった。

 自立して見聞を広げたいと語ったら、比較的物分かりのいい父と、今時らしいさばけた感覚を持つ佐知子と尋人は、すんなりと雪花の味方になってくれた。そして父と佐知子、尋人と雪花の四人がかりで母と健人を説き伏せ、受験と下宿の許可をもらうまでにそれから一年もの時間を費やした。

 そして雪花は、全国模試でずっとB判定だった第一志望の国立大学に無事合格し、高等部卒業後は晴れてN谷市での一人暮らしが決まった。

 進学先の大学に学生寮がなかったため、駅まで歩いて十分の女子大生専用アパートに住むことになった。雪花は卒業式が終わってすぐに運転免許を取ってしまうと、三月初旬には地元から新天地へと引っ越した。

 人生初の一人暮らしは、最初こそ戸惑いや失敗もいくらかあったが、慣れてしまえば実に気楽なものだ。ただ、生まれ育った本州とこの地の寒暖差は想像以上で、最初の一年は季節の変わり目によく体調を崩した。特に冬は絶望しかねないほどの極寒ぶりで、連日の豪雪は何度見ても未だに言葉を失くしてしまう。

 気候面だけに絞って言うなら、比較的温暖と言われる地元が恋しくなることもある。それさえ除けば下宿生活にさして問題はなく、割と順風満帆な大学生活を謳歌していた。

 雪花が進学した国立大学は、現地のN谷市内では勿論だが、全国的にもそれなりに名の知れた総合大学だ。全部で合わせて四つの学部があり、雪花は健康科学部食物栄養学科に籍を置いている。

 入学式ですぐに友達ができ、半年も経つ頃には学部を問わず人間関係の輪が広がっていた。大学生活の醍醐味でもあるサークルは、オリエンテーションが終わる頃に星空見物同好会、通称星見に入部した。その名のとおり、星空鑑賞を主な活動している、活動規模も部員数もごくごく小さなサークルだ。

 最初は暇潰し程度と思っていた星見は、雪花が予想していた以上に居心地のよい集まりだった。メンバーは十二人で、在籍する学科も年齢もバラエティーに富んでいる。人間関係は良くも悪くも大雑把で、上辺だけの付き合いでは決してないが、かといって過剰に干渉し合うこともない。そんな絶妙な関係性を、雪花はいたく気に入っていた。

 肝心の活動内容は、市内にあるプラネタリウムへ出掛けたり、誰かが用意した車で山や川や公園に行き、レジャーシートに寝転がって星を眺めたり、長期休暇ごとに二泊三日の旅行へ行ったりというものだ。どれも大学生らしい気ままさと遊び心に満ちていて、特に月一回の頻度で開かれる飲み会が、雪花には最高の息抜きになっていた。雪花は新入生歓迎会で酒を覚え、以降は開催される飲み会のどれもに出席し、兄姉譲りの酒豪ぶりを発揮している。

 そうやって大学生活が一年も過ぎた頃には、雪花はすっかり北国での生活に馴染んでいた。そして新天地に馴染めば馴染むほど、長期休暇に入っても何かと理由をつけて帰省しなくなった。

 実家や故郷を嫌いになったわけではない。だが、勝手知ったる人たちが住む地に帰ると、決まって心が不穏にざわめくのだ。かつて、ほんの僅かな交流の中で亮が溶かしてくれたしこりが、故郷の地を踏んだ途端、当時とはまるで違う色と形で破裂する時を待っているような恐れを覚える。そんな澱みと向き合いたくなくて、雪花は大学一年の盆と正月は、短期バイトに勤しんで実家には帰らなかった。

 新たな環境に馴染みきると同時に、痛烈なほど思い知ったことがある。一人になったからといって、長年抱いてきた葛藤やしこりが消えることはない。むしろ一人になってからのほうが、その重さや痛みをひしひしと感じていた。大学生になり、見知らぬ土地で下宿を始めて、人間関係も以前よりぐっと広がった。だが、やるせなさは未だ深いままで、一人の空間にいると余計それが身に沁みる。

 そんな夜に雪花が思い出すのは、故郷の家族や友人たちよりも、たった二回だけ顔を合わせた、もう二度と会えない亮のことだった。

 亮に会いたい。会って話がしたい。そして何よりも、無事な姿が見たい。

 出口のない物思いに沈んでいると、衝動にも似た願いが胸を焼く。たった一度、神の気紛れと分かりきった奇跡の再来を、あれから年単位の月日が流れてからも雪花は願い続けている。途方もないその思いが、がんじがらめになった心を解き放つ唯一の救いだと、今も信じてやまないほどに。

 誰からも守られ、可愛がられた少女時代は終わり、二十歳の誕生日と成人式も無事に過ぎた。あと二年となった残りの大学生活、このまま悶々としながら終わってしまうのかと、諦めにも似た境地で暮らす春休みが雪花を呑み込もうとしている。

 雪国の春は遠い。そして凝ったままの雪花の心が綻ぶ日は、春よりも恐ろしく遠い彼方の根雪に埋もれ、触れることさえできそうになかった。

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