1-4

 無我夢中という名の全力疾走は唐突に終わった。ようやく少年が立ち止まった時、二人は小さな児童公園前の細い路地にいた。

 雪花の人生の中で、最も速く走った瞬間だった。体育祭の徒競走や、遅刻ぎりぎりの朝だって、あれ以上の本気を出したことはない。少年が手を離した瞬間、雪花はへなへなと地面に座り込んだ。心臓が飛び出そうなほどどくどくと鳴って、肌も髪もしっとりと汗に濡れ、呼吸すらまともにできそうにない。

「……で、いったい何」

 少年は不機嫌そのものの声だった。しかし雪花は呼吸を整えることに必死で、すぐに返事ができなかった。ぜいぜいと肩を震わせていたら、ほんの少しだけ気遣いを含んだ響きで彼が言った。

「おい、大丈夫か」

「ははっ、ごめん……。あんなに走ったの、マラソン大会以来だったから、つい」

 首筋に張りついた髪を払い、なおも肩を上下させる雪花を、少年は心底驚いた顔で見下ろした。

「あれぐらいで疲れたの? 軟弱だなあ」

「だってあなた、すごく速いんだもん。あたし、ついてくので精一杯。何度こけそうになったか。あは、あはは」

 ようやく鎮まってきた鼓動に胸を撫で下ろしながら、雪花は何でもない風に笑ってみせる。やや困り顔で沈黙した彼は雪花の手を掴み、くいと引っ張って立たせてくれた。

「ありがとう」

「別に」

 そう言うなり、彼はぷいと視線を逸らしてしまう。

 そこは街中の喧騒から外れた閑静な場所だった。この地で生まれ育った雪花でも来たことがない路地裏で、古びた住宅や小さなアパートが建ち並び、すぐ横に狭い児童公園がある。暮れなずむその周囲には、人っ子一人としていなかった。

 少年は毛先が跳ねた茶髪に、茶色のブルゾンに褪せたジーンズを合わせている。そしてやはり、見知らぬ男たちにいきなり襲われた夜、危ないところを助けてくれた彼と同じ顔だった。暗闇の中で垣間見たその顔は、今は不機嫌そのものである。

「撒いたぞ」

「え?」

「あんたが撒けって言うから、追っかけてきてた奴らを撒いたぞ。いいの? 後で怒られるんじゃないか?」

 不機嫌そのものの言葉を、雪花は気遣いだと受け取った。

「あはは、ありがとう。ごめんね、巻き込んじゃって」

「全くだ。話せるようになったみたいだから訊くけど、いったい何?」

 少年は責めるように問う。その響きに一瞬怯んだが、雪花はわざと明るい声を出した。

「だってせっかく会えたんだし、お礼も言いたかったし、いろいろ話したかったんだもん。今日を逃すと、今度はいつ会えるか分からないでしょう?」

「俺は会う気なんて、最初からなかったけどな」

 冷たく撥ね退けられ、雪花はうっと言葉に詰まる。しかしめげずに笑いかけて、

「ねえあなた、名前は? あたしは杉原雪花。あの時助けてくれて、本当にありがとう」

「……別に、礼を言われるようなことはしてない。たまたま通りかかっただけで」

「でも、あなたが助けてくれなかったら、あたしきっと殺されてたわ。あの人たち、あたしに銃を突きつけてきたの。ものすごく怖かった。でも、あなたが助けてくれたから、あたし無事だったの。擦り傷程度で済んだのよ。ねえ、名前何ていうの? もしかしてここら辺に住んでるの?」

 無愛想な態度を無視して質問を重ねる雪花に、少年はひどく冷めた眼差しを投げる。

「お前、何でそんなこと訊くんだ」

「え、だって……」

 拒絶の響きに雪花がたじろぐと、少年は温度の感じられない声音を返した。

「陽向の人間に名乗る名なんてない」

「陽向……?」

「それにあんた、俺が怖くないのか?」

「え?」

 少年はブルゾンの裾を少し上げて、腰に装着したものを垣間見せた。ウェストポーチのような飾りに隠されたそれが、薄い夕陽を受けて微かに黒光りする。その正体を一瞬で見抜いて、雪花は継ぐべき言葉を見失った。

「俺はこれを使ってあんたを助け、あんたを襲おうとした奴らを殺した。この意味が分かるか?」

 雪花は硬直したまま、どう返せばいいか分からずに黙り込む。

「だろう? だからお前は陽向の人間だっていうんだ」

 少年はブルゾンの裾を戻し、雪花を鋭く睨んで言い放つ。

「俺は暗殺者だ。人殺しを請け負って、その金で日々生活している。これの扱いなんて、俺にとっては御飯事みたいなもんだ」

 先程一瞬だけ見せたものを指で叩くと、彼は拒絶の刃を躊躇なく雪花に振り下ろした。

「お前は闇なんて見たこともないだろう。知ることだってないはずだ。だけど俺は違う。闇で生きて、闇を歩き続ける。お前と話すことなんてないし、名を教える気もない。何も知らない陽向の人間は、何も知らずに陽向で一生生きていけばいいんだよ」

 彼が浴びせた言葉は、雪花には文字どおり刃だった。鋭く尖った長い刀身が、遠慮など微塵も宿さず胸を抉る。痛烈な衝撃がごぼりと溢れ返り、心の最奥のさらに深くに隠していた膿まで貫通した。見えない切っ先が、かちかちに凝ったそれを惜しげもなく掻き回し、忘却の彼方に埋めていた苦悩をありありと呼び覚ます。

 それは雪花にとって、紛れもない崩壊だった。

「……違う」

 そのまま去ろうとしていた少年が、ほろほろと涙する雪花を見てぎょっと強張る。

「違う……。そんなこと、言わないで」

 雪花はわななく唇を必死に動かした。

「何も知らないなんて……そんなこと、言わないで。知らないかもしれないけど……分かってないかもしれないけど……。でも、本当に何も知らないわけじゃない。言わないだけ。……言わないだけだよ。いつも笑ってるわけじゃない。いつもにこにこしてるけど、本当は……本当は、そんなんじゃないの」

 そう言うのが精一杯だった。

「笑ってるけど……知らないふりとかしてるけど、何も知らないだろとか、言わないで。そんな風に決めつけて、突き放したりしないで」

 雪花は堪えきれずに崩れ落ちた。震える両手で顔を覆い、声を引き攣らせて泣く。

 少年が激しくうろたえている。彼を困らせたいわけでも、引き止めるための嘘泣きでもない。ただ彼の言葉に抉られすぎて、雪花はどうしても涙を止められなかった。

 少年は困惑極まってうろたえるばかりだったが、やがて諦め顔で深々と息をつくと、雪花の右手を掴んでそのまま歩き出す。彼は雪花を連れて児童公園に入ると、ブランコの前で立ち止まり、その肩を両手で押さえて無理やり座らせた。

 雪花は驚いて顔を上げる。その時、見下ろしてくる少年と視線が交錯した。彼は難しい顔で離れると、膝上ぐらいの高さの柵の、雪花とは斜め向かいに軽く腰を置く。

 少年は渋面のまま雪花と目を合わせないが、去っていくこともしなかった。収まりかけていた涙が再び溢れ、雪花は両手で顔を覆ってまた泣いた。少年はちらりと視線を投げてきたが、何かを口にするでもなく、ただ黙って柵に腰掛けている。

 どれだけの時間、泣き続けたか分からない。雪花はようやっと落ち着きを取り戻し、真っ赤に泣き腫らした目を擦りながら小さく頭を下げた。

「……ごめんなさい」

「何が」

 少し離れた斜め向かいから届いた声音には、先程とは打って変わって棘がなかった。

「いきなり泣いたりして、その……びっくり、したでしょ?」

「別に。ただ、俺が泣かせたんだってことは分かった」

「そんな……ご、ごめん」

 少年は意外にも怒っていなかった。あまりに淀みなく言われ、今度は雪花のほうがうろたえる。

「俺にしてみれば他意のない、ただの何気ない言葉でも、言われた本人にとっては結構な痛手になることもある。一応知識としてはあるつもりだったけど、実際に遭遇してみないと分からないもんだな。傷ついたよな、あんた。ごめん」

「え、いや、その」

「だから聞くよ、話」

「え……」

「言えよ、言いたかったこと、言おうとしてたこと。今度は何も言わずに、ちゃんと聞くから」

 それは彼なりの誠意だった。少年はそれ以上何も言わず、雪花が口を開くのをただ待っている。

 己の一番柔いところを他人に明かす。そんな状況に陥ったのは初めてで、雪花は長いこと考え込んでしまった。しかし勇気を振り絞って、ぽつりぽつりと言葉を声に乗せてみる。

「あたし……ね。親、いないんだ」

 雪花は赤茶色の錆がついたブランコの鎖を、指だけで小さく握り締める。

「死んじゃったの。あたしが物心つく前……二歳の頃に。今あたしを育ててくれてるのは、親戚のお家なの。従姉のお姉ちゃんのお家。あたしは三人兄妹で、上に二人お兄ちゃんがいるんだけど」

 言葉が一瞬、図らずも途切れてしまう。続きを口にするのに、想像以上の勇気がいった。

「死んじゃった、んだ。あたしを産んでくれた、本当のパパとママ。あたしが今よりうんと小さくて、何も分からなかった時に、車の事故で二人とも死んじゃった。でもね、本当はあたし、知ってるんだ。二人は事故で死んだんじゃない……って。殺されたんだ、悪い人に」

 少年がちらりと寄越した視線に、雪花は応えられなかった。

「あたし、聞いちゃったの。小六の時の法事で、今のお父さんとお母さんが話してたこと。あたしの本当のパパとママ、悪い人に逆恨みされて、車で激突されて殺されたんだって。あたしのパパ、刑事さんだったんだ。今の健兄ちゃんと一緒。パパとママを殺した人は、前にパパが捕まえた人だったの」

 今より遠い日の記憶が、滲みみたく静かに広がる。

 家に来ていた親戚が皆帰り、先程までの賑やかさが嘘みたいなリビングで、父と母が食卓で声を落として話していた。その会話を、冷蔵庫のサイダーが飲みたくて二階の自室から下りてきた雪花は、ドアノブを握る手前でたまたま耳にしてしまったのだ。

「お母さん言ってた、あの子たちが可哀想だって。特に雪花は、この先自分の親が何で死んだのか知らずに、悲しみだけを抱いて生きていくのが哀れでならないって。お父さん、二人を殺した人が今ものうのうと生きてるのが許せないって。二人とも静かに怒って、つらそうに話してた」

 あの時の二人の会話を知っているのは雪花だけだ。佐知子や健人、尋人は自室に戻っていて、一階には自分と両親以外にいなかった。

「あたしね、ちゃんと教えてもらってたの。十歳の終わりに家族から、お前には本当の両親がいるんだよって。その人たちは不幸な事故で死んでしまったんだって。それまでのあたしは、今一緒に暮らしてる人たちが本当の家族だと信じて疑わなかったから、知らされた時はびっくりして、受け止めるのに時間がかかった」

「ショックだったわけだ」

 それまで何も言わずに聞き入っていた彼が、初めて相槌のように呟いた。

「うん……」

「その時、詳細を知りたいとは思わなかったの?」

「怖かったんだ、詳しく知ってしまうのが。知ってしまうと、今一緒に暮らしてる人たちが、他人に見えてしまいそうで。健兄ちゃん、尋兄ちゃんとは血が繋がってる。でも、お姉ちゃんとお父さん、お母さんとは親戚ってだけで、実の家族ってわけじゃない。それが自分的にかなりショックで、それ以上知るのが怖かったんだ。だから、与えられた情報だけで満足しようとした。今の家族にあたしは十分可愛がってもらって、愛されてる。それでいい、それだけで幸せなんだって」

 小学生だった雪花は、ひたすらそう念じることで己の心を守っていた。しかし、気を緩めれば一気に崩れてしまいそうなそれは、そんな情報だけで満足するわけがなかった。だが、そこを堪えなければ何かが終わる気がした。そうなったら、もう取り戻せない。そんな漠然とした危機感を、雪花はずっと抱えて暮らしてきた。

「あの時のお父さんとお母さんの会話には、本当にびっくりした。パパとママの死が事故じゃなかったなんて、寝耳に水もいいとこで。初めてパパとママの話を聞いた十歳の時より、真相を知った十二の時のほうが何倍も、何十倍もショックだった」

 遠い昔と化したあの日の衝撃は、今思い出しても胸が疼く。雪花にとって、一生消えない傷痕の一つだ。

「図書館に行って、新聞を調べたの。パパとママが事故に遭った時期の記事を。そしたら案外簡単に見つかった。自分を逮捕した警察官に逆恨みして復讐……出所後すぐにレンタカーを借りて警察官夫妻を襲撃……襲われた警察官とその妻は、病院に搬送されるも間もなく死亡……襲撃犯は重傷だが命に別状はなく、意識が回復した後に殺人容疑で逮捕……亡くなった警察官夫妻には十五歳の長男と五歳の次男、二歳の長女がいた……。読んですぐに分かった。ああ、これはパパとママのことだ……って。だって、当て嵌まりすぎてるんだもん。びっくりしたよ。あの時読んだ新聞記事、コピーして今も持ってる。覚えちゃうぐらい、何度も読んだ」

 風の音しかない沈黙の後、彼が先に口を開いた。

「……そいつが憎い?」

 淡々とした口調とは裏腹に、その問いには気遣いの響きが薄く滲んでいた。

「分かんないなあ。憎いっていうのがどういう気持ちなのか、実はあんまりよく分かってないの。変な話でしょ? 腹立たしいとか憎いとか、思えたらすごく楽なんだろうな。でも正直言うと、どう思ったらいいのか分からない。パパとママを殺した悪い人なのに、憎いですかって訊かれたら首傾げちゃうし、じゃあ許せますかって訊かれても頷けないし。本当、自分でもよく分からない。あたしがパパとママのことを覚えてないせいかもしれない。すごく小さい頃にいなくなっちゃったから、写真見てもどんな人だったか、どんな声をしてたかとか、もう思い出せないんだ。おかしいよね、こんなの。産んでもらって、優しくしてもらって……確かに、愛してもらったはずなのに」

「憎めない……んだ?」

 雪花は小さく頷いた。

「憎み方が分からない。怒り方とか悲しみ方とか、どう受け止めたらいいとか、いまいち分からないんだ。新聞記事を見つけた時、泣くかと思ったけど泣かなかった。泣き方が分からなかった。ショックなのは確かなんだけど、どう言ったらいいのかな。驚いたし、ショックだったし、何より戸惑った……っていうの? 自分がそれまで真実だと思ってたことを、覆されちゃったわけだから」

 ふふと雪花は微笑んでみせたが、彼は押し黙ったまま笑わなかった。

「でもね、思うんだ。どう思ったらいいのか分からないとか、憎めない、悲しめないとかそういうの……そういう自分が何だか悲しい。憎んじゃえばいいのに、悲しいって泣けばいいのに、それがうまくできない自分が、本当は一番悲しいんだ」

 二本の鎖で支えられたブランコが、鈍く耳障りな軋み方で小さく揺れる。

「……それ、今まで誰かに言ったりした?」

「言ってない。今まで一度も、誰にも言ったことない……よ」

「……どうして」

 責めるのではなく、労わるように彼は問う。それは泣きたくなるぐらい優しい声をしていた。

「言いたくなかったの。誰にも、知られたくなかった。今の家族……お父さんもお母さんも、お姉ちゃんもお兄ちゃんたちも、みんなあたしを愛してくれてる。あたしが傷つかないように、悲しまないように、パパとママはただの事故で死んだって嘘までついて。その気持ちを、裏切りたくなかった。……そう思ったら、もう誰にも言えなかった」

 ずきずきと疼く胸の痛みは、開いた傷口が空気に触れたからだ。見て見ぬふりをし続けただけで、本当はずっと前から知っていた痛みだ。

「もし誰かに言っちゃったら、あたしの中にある何かが、今度こそ壊れちゃうような気がしたの。ずっとひた隠しにして、誰にも知られないように、気付かれないようにって細心の注意を払ってた。誰かに触れられたら……大袈裟かもしれないけど、あたしの中にあるものが……世界が終わるような気がしたんだ」

 大袈裟だと評されそうな言葉を、彼は少しも笑わなかった。ただ一度だけ神妙に頷いて、

「プライド……だったんだ」

 雪花ははっとした。そして、そう呟いてくれた彼の優しさに熱い涙がまた浮かんだ。

「ずっと、守ってきたんだな」

「……うん。誰にも知られたくなかった。気付かれたくなかった。あたしは常に明るい笑顔で、世の中の苦労や痛みも何も知らない平和な子、無邪気で人懐っこくて、悲しみとは無縁で……そんな子だって周りには思っていてほしかった。本当のあたしなんて、本当の気持ちなんて……たとえ大事な家族や友達にでも知られたくなかった。世間知らずな阿呆の子って言われてもいい。あたしにできることは、それしか思いつかなかったんだ」

 まるで心が衝撃を埋めようとするように、ブランコの鎖を握る指が微かに震えた。

「俺はいつも殺す側にいるからさ」

 ふいに声が近くなった気がして顔を上げると、いつの間にか少年は雪花の正面にいた。相変わらず柵に軽く腰掛けて、彼は空を仰ぐようにしながら、

「殺した人間の世界とか、考えたことなかったなあ。殺した奴にも過去はあって、悲しむ人間や育てた家族がいるとかさ」

 雪花は脳裏に浮かんだ疑問を、勇気を出してそのまま彼にぶつけてみた。

「あなたはどうして、暗殺者をしているの?」

 ストレートすぎる雪花を咎めることなく、彼は実に淡々と答えを返す。

「それが自分の運命だから」

「運命?」

「生きる道と言ってもいい。俺には生まれた時からこの道しかなかった。ガキの頃から暗殺者になるための訓練を積んで、小学生の頃にはもう仕事をしていた。他の生き方とか道なんて、考えたこともなかったな」

 俺にはそれしかないからと、少年は最後に小さく付け足した。

「……あなたはそれでいいの?」

「いいよ。別に今まで疑問を抱いたことないし、自分の腕にも自信を持ってる。相当の覚悟がなきゃ、この世界でプロとして食っていけない」

「そうじゃなくて」

 雪花に言葉を遮られ、それまで無表情に近かった少年の頬が僅かに動いた。

「そうじゃなくて、あなたはそれでいいの? それは本当にあなたが選んだ道なの? 他の誰かから命令された道じゃないの? あなたが自分から、心から選んだことじゃないでしょう?」

 必死に言い募る雪花を見て、少年が虚を衝かれた目で言葉を呑む。

「だってここは日本だよ。戦争もしてない、世界でも珍しいくらい平和な国だよ。なのに、生まれた時から人殺しになることを決められて、子供の時から人を殺してたなんて……。そんなのってない。そんなのってないよ」

 たまらず泣き出した雪花に、彼はぎょっとうろたえた。

「ちょ、ちょっと待て! 何でまた泣くんだ」

「だって」

「俺、また気に障ること言った? これでもさっきより、かなり気を配ってたつもりなんだけど。何だ? 何がいけなかったんだ?」

「だってそんなの、悲しいよ。だってそれは、あなたの意志じゃないでしょう? 人殺しがしたくて生まれてくる子なんていないよ。生まれてきた子の道を、他人が決めていいはずないよ。それはとても……とても、悲しいことだよ」

 彼にとっては、よほど思いがけない言葉だったらしい。しばらく唖然としていた彼はそのうち、困惑するのも疲れたといった顔で尋ねてきた。

「……なあ、どうして俺のことでお前が泣くの?」

「あなたが泣かないからよ」

「え?」

「あなたが泣かないから。悲しいって言わないから。そんなつらいこと、何でもないみたいに平然と言うから。あたしはそれが悲しくて、つらいから泣いてるの」

 雪花は歯を食い縛って嗚咽を堪える。喉を震わせながら泣く雪花を見つめたまま、彼はそれきり何も言わなくなった。

 長い長い沈黙の後、彼は音もなく雪花の前に立つ。その指で雪花の両目から涙を掬うと、びしょびしょに濡れた片頬を包むように触れた。

 まるで時が止まったかのような錯覚に陥る。雪花は息を詰めていたが、やがてゆっくりと目を閉じて、彼の掌に己のそれをぎこちなく重ねた。雪花の感触に応えるように、彼の掌がよりぴったりと頬に添う。

「あんたはさ……俺が怖くないの?」

「怖くないよ。だって、あなたは優しい人だもの」

「どうしてそう思う?」

「あなたはあたしを助けてくれた。本当に怖い人なら、そんなことしないわ」

「俺は怖い奴だよ。銃を持ってるし、人殺しを仕事にしてる。昔も今もこれからもずっと、俺は人を殺し続ける。今まで殺した奴の数なんて、数えたこともないくらい」

「それでも、あなたは優しい人だよ。だって、あたしの話を聞いてくれた。あたしの言葉を受け止めてくれた。あなたは優しい人だよ。とてもとても、優しい人だよ」

 雪花は片頬を包む少年に手を重ねたまま、その目を見上げてにこりと笑った。彼は何も言わずに雪花を見下ろしていたが、やがて口元を柔らかに綻ばせて微笑を返す。

 思いがけない仕草に雪花が思わず赤面すると、彼はそっと手を離して隣のブランコに座る。雪花はなかなか赤みが引かない頬を俯けて、

「ほ……本当はね、知られたくないと思ってた。ずっとずっと、誰にも気付かれたくない、隠していたいって。でもね、何て言うのかな……今はちょっと違うの。わんわん泣いて、誰にも言えなかったことを誰かに話して……絶対傷つく、嫌な気持ちになるって思ってたけど、そうじゃないの。何だかその……大袈裟かもしれないけど、心が洗われたような……救われたような気持ちなの」

 隣のブランコで軽く体を揺らしていた彼が、少し驚いた顔で息を止めたのが分かった。

「ごめんね。変なこと言って」

「……いや」

 そう小さく返した少年の頬が、横目で窺うとほんの少しだけ赤い。

「……不思議だね。ずっと言いたくなかったのに、誰かに聞いてもらうだけで、こんなにも気持ちが楽になるなんて」

「うん」

「あたし、本当は気付いてほしかったのかな。自分をちゃんと見てくれる誰かに聞いてほしいって、どこかでずっと思っていたのかな」

「……分かるよ、そういうの」

 彼はまっすぐ前を見据えたまま、

「分かるよ。そういう気持ちも、あるんだっていうこと」

 二人の間から自然に言葉がなくなる。その静寂は、とても心地良い温もりを宿していた。

「ねえ。……訊いてもいい?」

「何」

「名前、何ていうの?」

「……アキラ」

「アキラ?」

「フジサワアキラ。フジサワは植物の藤に、難しいほうの澤っていう字。アキラは」

 アキラはブランコに座ったまま、落ちていた細く短い小枝を拾う。そして砂地に大きく字を書いた。雪花は腰をぐっと屈めて、彼が書いた〝亮〟という字をまじまじと見つめる。

「これが俺の本名。藤澤亮」

「本名?」

「普段は別の名前で暮らしてる。日々使う公的あるいは私的な名義も、仕事上の名前も全部、これとは違う偽名」

「その名前は、何ていうの?」

「それを教えたら、本名を教えた意味ないだろ」

 亮はさもおかしそうにぷっと吹き出す。それは年相応の無邪気な笑顔だった。

「教えたのはあんたが二人目。この名前は、俺の育ての親とあんた以外、誰も知らない」

「そうなの?」

「ああ。他に知られたくないし、教えるつもりもない。だから、これからもずっと隠したままだ。でも、あんたならいいよ。だって誰にも言わないだろ?」

 そう言って、亮は雪花に笑いかけた。

「うん! 誰にも言わない。秘密ね」

「ああ、俺たちだけの秘密だ」

 雪花は嬉しさのあまり、ついにまにまとしてしまう。亮はそんな雪花を柔らかに見ていたが、ふと疑問が浮かんだように真顔に戻って、

「なあ。あんたの名前、何か珍しいよな。どんな字書くの?」

「笑わないでよ? 雪の花って書くんだ。花は草冠に化けるって書く、普通の花」

「雪の花? てことは、冬生まれ?」

「そうなの、十二月なんだ」

「随分と風流な字を当てるんだな。ていうか、そもそも雪の季節に花なんか咲くの?」

「咲くんだよ。スノードロップっていう花。こういうやつなの」

 雪花は携帯電話を出すと、ボタンを操作してスノードロップの画像を亮に見せた。

「へえ、冬に花なんて咲くんだ。てっきり植物は全部枯れてくイメージだったけど」

「あたしも、名前の由来を聞くまで全然知らなかったんだ。あたしを産んでくれたママが、この花が好きだったんだって。それであたしが十二月に生まれたから、雪の中に咲くこの花のように、可愛い子になるようにってつけてくれたんだって、健兄ちゃんが教えてくれたの」

 亮はよほど興味深かったのか、画面の中のスノードロップをしばらくじっと見ている。

「サイトから取ってきたの。名前の由来を聞くと、その花がどんなのか見たくなるじゃない? だから」

「なるほど。だからこんなに可愛く育ったわけか」

「え」

「だってそうだろ? あんた、結構可愛いじゃん。まさにその名のとおりって感じ」

 それは世辞や虚飾も全くない、実に素直な褒め言葉だった。

「うん? どうしたの?」

 突然耳まで真っ赤になって口ごもる雪花を、亮は不思議そうに見つめ返す。

「あ、いや、その……。褒めてくれて、ありがと」

「別に。俺は思ったことをそのまま言っただけだよ」

 亮はブランコからぴょんと立つと、軽く声を上げながら大きく背伸びをする。

「さて、陽も暮れてきたことだし、帰りますか」

 亮はきょとんとする雪花の手を取ると、そのまま公園をすたすたと出ていった。こちらを全く気にしない結構な早足に、雪花は来た時と同じように何度も転びそうになる。それでも繋いだ手に力をこめて、転ばないよう必死についていった。

「早く帰らないと家族が心配するよ。それに、さっき撒いたボディーガードも慌てふためいて、今頃は大捜索網が敷かれてるかもしれないし。そうなると俺は捕まっちまうなあ。さっさとトンズラしないと」

 亮は明るく笑いながら、雪花の手を引いて颯爽と歩く。先程までいた児童公園が遠ざかり、それまでスローモーションに思えていた世界が、嘘みたいにめまぐるしく動き出した。

「また会えるよね?」

 足早に前を行く亮の表情が、ぴたりと止まったのが顔を見ずとも分かった。

「またいつか会えるよね? だってまだ話し足りないもの。話したいこと、訊いてほしいこと、いっぱいあるもん」

 急に無言になった亮に不安を感じ、雪花はまくし立てるように言葉を重ねた。

「今日だけなんて言わないよね? また今度会えるよね?」

 人気のない路地を抜けて、家路を急ぐ人々が溢れる大通りに出た。亮はそれまで握っていた雪花の手を離し、

「もう俺に会わないほうがいいよ」

「どうして」

「俺とあんたとでは、住む世界が違うから」

「そんなことないよ」

「いいや、そうなんだ。俺はあんたをこの道に巻き込む気はない。俺たちはもう二度と会うことはないし、それぞれの生きる道が交わることもない」

「そんな」

 そう言い切る亮の眼差しは、雪花の瞳が唐突に潤んでも揺らがない。彼はもう決めてしまったのだ。その眼光の強さだけで、雪花にはそれがよく伝わってきた。

「あたしはもう一度、亮に会いたい」

 雪花は泣きそうになるのを必死に堪える。彼を困らせたいわけではない。しかし、それでも言わずにはおれなかった。

「また会って、話がしたい。たくさんたくさん、亮と話したいよ」

「だめだよ、雪花」

 その表情を見て、雪花ははっと息を呑んだ。

「雪花は俺を人だと言ってくれた。どうしたって泣けない俺の代わりに、悲しいと言って泣いてくれた。俺はもう、それだけでいい。それだけもらったら、もう充分なんだ」

 亮はもう一度雪花の手を両手で強く握ると、これまでにない明るさで破顔した。

「さよなら、雪花」

 亮は身を翻し、前へ前へと歩いていく。名前を呼んだその次、最後に呟いた言葉は雪花にしか聞こえなかった。

 行き交う人混みに亮の姿が紛れ、たちまち見えなくなっていく。

「亮……。亮!」

 完全に見えなくなるその前に、亮が片手をすっと挙げる。それきり彼の姿は遠くに消え、代わりに嫌になるほどの喧騒が鼓膜を満たした。

 雪花はしばらくその場から動けなかった。追いかけようとしたが、両足が頑として動かない。追いかけてはいけないと、考えるよりも先に本能が察していた。

 こみ上げる感情を掻き抱いて、雪花は夕暮れが深まる大通りで一人涙に耐えていた。



 家に帰ると、両親がひどく心配した面持ちで迎えてくれた。佐知子から連絡をもらったらしい母に、危ないことをしてはいけないと涙ながらに説教された。父もそこまで言葉にしなかったが、母と同じかそれ以上の思いで待ってくれていたのは、顔を見ただけですぐに分かった。

 両親にいても立ってもいられないほどの心配をかけるのは、雪花としても本意ではない。雪花は玄関で靴を脱ぐ前に、心臓に悪い思いをさせたことをまず詫びる。そして無邪気にまとわりついてくるマルチーズのリーベを抱き、着替えのために一旦自室へ引き上げた。

 携帯電話に佐知子から着信が入っていたので、雪花は自室のベッドに座って掛け直した。護衛を撒いたことについて、両親以上に怒られると覚悟していたが、意外にも佐知子は小言だけで片付けてしまった。

 雪花が亮と会っていた同じ頃、もしかしたら佐知子にも仕事で何かあったのかもしれない。普段の勝気な姉からは想像しにくい、明らかに覇気のない物言いと声音だったので、雪花のほうが逆に心配になったぐらいだ。藪蛇になってもいけないと思い、直接言うことはしなかったが。

 制服からルームウェアに着替えた雪花は、夕食に呼ばれるまでの間、ベッドの上でリーベと遊んだ。リーベは雪花に構ってもらえるのが大層嬉しいらしく、ちぎれんばかりに尻尾を振りながらひたすら動き回る。

 雪花はそれを小さく笑って見ていたが、やがてリーベを床に下ろし、机の引き出しから一枚の写真を取りに行く。そしてベッドに戻り、壁を背凭れにして両膝を抱え、時間をかけてそれに見入った。

 この写真を見るといつも、嬉しいような泣きたいような感情が満ちる。

 これは、育ての母でもある叔母が作ったアルバムにあったものだ。中学校に入ってすぐの頃、雪花はその一枚だけを内緒で抜き取って自室に持ち帰った。いつもは鍵つきの引き出しにしまっているが、時々こうして一人の時間に眺めていたりする。

 雪花によく似た面差しの母が、まだ乳児の自分を抱いている。母の左には父と十五歳の健人が並び、右には五歳の尋人がくっついている。父と健人は白い歯が覗く快活な笑顔で、尋人は赤ん坊の雪花の頬にちょんと触れながら、母は慈愛そのもののふっくらとした微笑で、それぞれ写真に収まっている。そして、母にしっかりと抱かれた雪花は頬をにんまりと綻ばせ、カメラではなく母に目線を送っていた。

 実の両親の顔を、雪花は写真でしか知らない。声も仕草も覚えていないし、抱き締められた感触も残っていない。だがこの写真を見た時だけは、普段はどうしても思い出せない彼らの何かが、薄ぼんやりとでも浮かんでくる気がするのだ。

 形として覚えていなくても、愛されて育った記憶が脳にちゃんと残っている。そう思える瞬間があることは、雪花にとって僅かな救いだ。その感傷は甘く優しい家族の証である反面、心をちくちくと刺す悲しみも実は宿しているとしても。

 今まで誰にも言ったことはなかった。知られないように、気付かれないように、細心の注意を払ってきた。本音を絶対に見抜かれたくなくて、いつも無邪気で明るい雪花を演じてきた。そこに時折見え隠れする感情に、ひたすら厚い蓋をし続けながら。

 砕け散った心の破片は、涙だけでは到底流しきれなかった。破片を掻き集めて握る手を、そっと包み込んでくれる手がなければ、もう一度しゃんと立つことなど、できるはずもないほどに。

 あの手の温もりが忘れられない。時折見せてくれた笑顔が焼きついて消えない。誰かの温もりを愛しいと思ったのは初めてだ。誰かの笑顔を、こんなにも恋しく思ったことも今までなかった。

「亮……」

 隠し続けていた秘密に、互いの手を重ねた。他の誰も知らない、二人だけの秘密だ。互いの心の中だけで生き続ける、甘くて痛い二人の証。きっとこれからも、変わることはないだろう。

「亮……会いたいよ」

 叶うなら、もう一度亮に会いたい。でも、それは二度とありえないと雪花はちゃんと知っていた。だから亮は最後に告げたのだ、「どうか幸せに」と。

 雪花は膝小僧に額を埋める。泣きたいわけではない。ただ、胸が今にも裂けそうだった。

 ぬいぐるみでの一人遊びに飽きたリーベが、雪花の足の指を前足で何度か軽く踏んだ。顔を上げると、リーベがちょこんとお座りして舌を出す。

 雪花は半泣きのように頬を歪めた。

「だめだよ、リーベ。たとえあんたでも、教えてあげない」

 頭を撫でてやると、リーベはさも嬉しげに擦り寄ってくる。その愛くるしい仕草に吹き出した瞬間、抑えようと努めていたものが一欠片、雪花の中で微かに弾けた。

 そんなつもりはなかったのに、雪花は仰向けになったリーベの腹を撫でながら、瞼を熱くする涙に少しだけ頬を濡らした。



 亮と再会した三日後、事態は急速だが穏やかに収束を迎えた。

 連日遅い帰宅で疲れきった顔の佐知子が、雪花につけていた護衛を今日から外すと言ってきた。万事滞りなく解決したからというのが、佐知子が話してくれたただ一つの理由だ。

 佐知子は、もう二度と雪花が怖い思いをすることはないと断言した。その言葉で全てを打ち切られたので、雪花がそこに至る経緯を知る機会はついになかった。

 佐知子がきっぱりと言い切ったのだから大丈夫だろうと思いつつ、随分と唐突で一方的だという印象がどうしても拭えない。しばらく思い悩んだが、雪花は結局それ以上の事情を問い質すことはしなかった。内部進学が決まっている呑気な中学生と違って、社会人の健人と佐知子は見るからに多忙すぎたからだ。

 佐知子の宣言どおり護衛はいなくなり、雪花に日常が完全に戻ってきた。腕や膝の傷は薄く痕が残ったものの完璧に癒え、家族の誰もあの夜の出来事を口にしなかったので、命の危険に晒された記憶も、まるで他人事のように遠く思えてくるほどだ。

 それでも、ずっと褪せずに残ったものがある。非合法な環境に身を置く少年――藤澤亮との出会いは、雪花の中でささやかに灯り続けた。まるで正反対の世界を生きる彼と、ありきたりな日々を送る自分が一瞬でも交錯するなんて、思い返してみても俄かには信じがたい。だが間一髪で救われたことも、彼が暗殺を生業にしていることも、雪花は驚くぐらいすんなりと受け入れていた。

 もしかしたら、全ては夢だったのではないか。そんな思いに耽ることも時々あるが、その度に亮の掌の温もりが頬や手に蘇る。そして同時に生まれる細い痛みに、何もかも夢ではなかったと改めて気付かされるのだ。

 他人に心を受け止めてもらうことが、こんなにも嬉しくて悲しいものとは知らなかった。熱いのにどこかほろ苦く、我がことなのに扱い方がよく分からない感情。

 日常が平穏を取り戻した後も、雪花が亮を思わない日はなかった。学校に通っていても、家でリーベと遊んでいても、ふとした瞬間にいつも亮のことを考えてしまう。

 どれだけ焦がれても二度目はない。それならば、せめて忘れたくないと雪花は思った。亮と会ったこと。優しい言葉をもらったこと。その温もりに心が溶けたこと。分け合った秘密とともに胸にしまって、今はどこにいるとも知れない亮の幸せを祈っていたい。

 二度と会えないのはつらいけれど、雪花の知らない世界のどこかで、今日も彼が生きてくれていたら。

 抱え込んだ痛みと秘密を連れて、これからを生きていこうと心に決めた。その覚悟だけで、雪花にはもう充分だった。



 ふと視線を感じた気がして、雪花は足を止めた。後方を振り返ってみたが、誰もがせかせかと行き交う歩道に、雪花の心に引っ掛かる何かは全く存在しない。

 見てすぐに分かるような不審者も、物々しい事故や事件も起きていない。周囲に広がるのは普段とほぼ同じ様相をした、ただの黄昏時の市街地の風景だ。

 それでも一瞬、雪花は誰かの視線を感じた気がした。邪念や悪意に満ちたものではない。ただ純粋に温かい誰かの眼差しを、すぐ側から何となく感じたように思ったのだ。

 お喋りの止まらない下校途中の道すがら、唐突に立ち止まって背後を見ている雪花を訝しんで、紗弥香や舞子、美希の三人も揃って立ち止まる。

「雪花、どうしたの?」

「何かあった?」

「誰か知り合いでもいたの?」

 友人たちに問われ、雪花は慌てて我を取り戻す。そして笑って首を横に振ると、

「ううん、何でもない」

「そうー? 突然立ち止まるんだもん、何事かと思ったじゃん」

「ごめん。本当に何でもないの」

 雪花は笑顔で繕ってみせたが、歩き出すとまたすぐに背後を振り返ってしまう。そんな雪花を、友人たちは互いの顔を見合わせて不思議がった。その視線を受けた雪花は少し躊躇うが、苦笑とともに思いきって打ち明けてみることにする。

「……ううん、違うの。本当はね、誰かの視線を感じた気がしたんだ」

「ええーっ」

 三人が声を合わせて仰天する。

「違うの。変な意味じゃないよ。ただ、そこに知ってる人がいたような気がして」

「知ってる人?」

「誰? あっ、まさか男? ねえねえ、男なんでしょ!」

 興奮した紗弥香が雪花の肩を抱き、「このこのっ」とぐいぐい揺さぶってくる。雪花はけらけらと笑いながら抵抗した。

「ちょっとやめてよー、痛いってば」

「ねえねえ、誰なの? 雪花ってば、好きな人とかいたっけ?」

「お兄ちゃん以外に初恋したことありませんって、前訊いた時言ってたじゃん」

「隅に置けないなあ、こいつめっ」

 三人に頬やら腹やらを次々に小突かれ、雪花は笑いながら身をよじる。そしてようやく自由になった体で、もう一度だけ後ろを振り返った。

 そこにはやはり何もない。あるとすれば、建ち並ぶビルと行き交う車、足早に歩く人々と暮れなずむ空だけだ。亮の姿はどこにも見えない。

 いるわけがない。いなくて当たり前なのだ。

 分かっていたけれど、やはり寂しかった。もしかしたら思いがけず、どこかでまた会えるかもしれないと期待していたからだ。ずっと前の日の夕刻、雑踏の中からたまたま見つけ出せた時のように。

「会いたい人がいるの。もう二度と会えないのは分かってる。でも視線を感じた気がしたから、もしかしたらまた会えるかなって思ったんだけど、やっぱり気のせいだったみたい」

 努めて自然な響きでそう語ると、雪花は友人たちに溌剌と笑ってみせた。よほど意外な言葉だったのか、三人とも見事に面食らっている。

「さあさあ、行こ行こっ。ドーナツ百円キャンペーン、今日までなんだから!」

 雪花は翳を振り払う無邪気さで笑い、友人たちを急かして駅方面を目指す。四人の女子中学生はまたお喋りの花を咲かせながら、橙に染まる街を楽しげに闊歩していた。

 しばらくはきっと、この街のどこかに亮がいないだろうかと、無意識のうちに探す日々が続くだろう。だけど雪花は、それほど落ち込んではいなかった。離れていても、もう二度と顔を合わせることがなくても、繋がっていると思える絆が二人にはあるからだ。

 大丈夫だよ。あなたの上にも、太陽はちゃんと存在してる。だからどうか、生きていて。

 雪花は心の中にいる亮にそっと語りかけた。声として発さずとも、きっと届くと信じている。それだけで、雪花にはもう充分だった。

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