1-3

 いったい何が起きたのか。恐怖で硬直した思考が解れたのは、杉原調査事務所に連れていかれてからだった。

 何度も訪れたことのある所長室のソファで、雪花は佐知子に宥められながら傷の手当てを受けた。泣きじゃくって話にならない妹に焦れることなく、佐知子はいつも以上の優しさで根気強く慰めてくれた。

 佐知子は痛々しい雪花の手足に、丁寧な応急処置を施してくれた。両手と両膝にいくつもの擦り傷が走り、特に両膝の傷は裂けた肌から肉が覗いていて、見るのも嫌なぐらいひどかった。地面に全身をぶつけたせいで、あちこちに痣があるのは見ずとも分かる。押し倒された時に打った後頭部には、小さいが痛みの鋭いこぶができていた。健康体が自慢の雪花は、包帯や消毒液の世話になった経験がほぼない。絆創膏や包帯で手当てされた箇所を数えては、あまりの惨めさにしばらく声も発せなかった。

 それからの出来事については、雪花はぼんやりとしか実感がない。

 あの後、佐知子から連絡を受けた健人と尋人が駆けつけてくれて、泣き止んだはずの雪花はまた壊れたように泣いた。大人だけで話をするという佐知子と健人が所長室に残り、雪花は尋人に連れられてタクシーで帰宅した。

 家では、佐知子から話を聞いた両親が顔を青くして待っており、特に母は雪花の傷だらけながらも無事な姿を見た途端、玄関で父に支えられながら泣き崩れた。両親は佐知子から、雪花は暴漢に襲われたと説明されたらしい。

 雪花は空腹に構うことなく、いつもより早くベッドに入ることにした。宿題はいくつか抱えているが、とても机に座って教科書を開くだけの余力がない。

 制服からパジャマに着替える際、雪花は裸身をあえて姿見に映してみる。両太腿や二の腕に形の異なる青痣があり、試しに指で押さえると鈍い痛みがそれぞれ波紋みたく広がった。

 顔が傷つかなかったのは不幸中の幸いだろう。年頃の女子として、顔に傷が残ったら一生立ち直れない。胸や腹にも幸い痣はなかった。カップがワンサイズ大きくなった乳房も無傷だ。もしここに傷ができたら、きっと恋愛とは縁遠い人生を送りたくなるだろう。打ち身が疼く体を少し捻って見たが、背中にも目立った痣はないようで安心した。

 負った痣の一つ一つを確かめて、雪花はようやっとパジャマに袖を通す。しかし、ベッドに入って目を閉じてからが、新たな恐怖の始まりでもあった。

 背筋の奥から凍てた戦慄が吹き荒ぶ。乾いた喉や、平穏を取り戻そうと努める心臓が気持ち悪い。眠ろうとすればするほど、脳裏で鮮明に再生される光景があって、それを思えば思うほど、ねっとりとした怖気に絡めとられる。

 これが恐怖。命を脅かされた時、強制的に生み出される冷感。それは雪花が知る感情の中で、一番陰惨な手触りをしていた。

 もしあの時、誰も助けてくれなかったら。もしあの時、突きつけられた拳銃の引き金が引かれていたら。想像するだけで息ができなくなる。

 なぜこんなことになったのだろう。他の誰でもなく、なぜ自分だったのか。どうしてこんな思いをしなければならないのか。いったい自分が何をしたというのだ。

 出口のない悪夢にひたすら弄ばれるだけで、その日の夜は眠りを知らずに明けていった。



 翌朝、雪花が起きると健人と尋人は既に出掛けていて、リビングには朝食を終えた両親と、身支度を済ませた佐知子がいた。

 ソファで新聞を広げていた佐知子は、制服姿で下りてきた雪花を見るなり、

「今日はまず病院で診てもらうからね。学校にはそれが終わった後、お姉ちゃんが送っていってあげる」

 有無を言わさぬ口調で告げられ、雪花はただ頷くしかなかった。昨日の今日で、雪花の食欲を気遣った母が、朝食にはクロワッサンを用意していてくれた。しかし食欲がまるでない雪花は、一番小さい形のものを一個だけ、時間をかけて咀嚼するのがやっとだった。膝の傷がじゅくじゅくと疼くことばかりに気を取られ、なかなか顔を上げられなくて困る。

 いつもより少し遅い時間に家を出て、雪花は佐知子の運転する車に乗って、彼女の知り合いが勤務している総合病院へ向かう。

 佐知子は片手でハンドルを操りながら、助手席で俯いたままの雪花をちらりと見やり、

「昨夜は寝れた?」

 雪花は力なく頭を振る。

「当然よね。怖い思いさせて、本当にごめん」

「……何で、お姉ちゃんが謝るの?」

「こうなったのはあたしのせいだから。雪花は巻き込まれたのよ、あたしの仕事のごたごたにね。気を付けてたつもりだったけど、全然足りてなかった。まさか家族にまで危害が及ぶなんて。健人にもかなり叱られたわ。当然ね。だから、恨むならあたしを恨みなさい。あんたにはそうする権利がある」

「そんな……お姉ちゃんを恨むだなんて」

「怒っていいのよ。雪花は巻き込まれたんだから。あんたが何をどう言っても、この先どんな思いを抱えても、あたしが全部受け止める」

「やめて。お姉ちゃんは悪くない。あたしは大丈夫だよ。確かにものすごく怖かったし、死んじゃいそうな目に遭って、怪我もしたけど、それでお姉ちゃんを嫌に思うことなんてないよ」

「あんたが無事で本当によかった。もしもの場合だったらって、考えただけでぞっとする。本当にごめんね。でも、二度目は絶対にないから。お姉ちゃんが必ず雪花を守る。約束するわ。あたしがこんなことを言うのもひどいけど、あんたはもう忘れてしまいなさい」

 こざっぱりと告げられた言葉の真意を、雪花は数秒かけて正確に読み取った。

「……それは、昨夜のことにはこれ以上、あたしは首を突っ込むなって意味?」

「そうね」

 佐知子は至極淡々と即答する。

「警察には行かないの? 事情聴取とか、普通はあると思うんだけど。銃声がして、あたしが怪我した以外に、人だって死んでるんだから」

「ないわ。あの後、事件はあたしの部下たちが内々に処理した。警察もこの件には絡んでこない。だから事情聴取も現場検証もないの。勿論これは健人も了承済みよ。というか、無理やり納得させたんだけど」

「……それって、もみ消しだよね? そんなことできるの?」

「できるのっていうか、したのよ、あたしがね。この件はあたしが必ず片を付ける。雪花は勿論、家族の誰にもこれ以上の危険は与えないわ。死ぬほど怖い思いをさせておいて言うことじゃないけど、お姉ちゃんは、雪花には日常に戻ってほしいの」

 神妙に紡がれた言葉はどこか頑なな匂いがして、雪花はそれ以上訊くのをやめてしまった。佐知子は恐らく、雪花がどれだけ問うてみたとしても、必要最低限の事柄以外は語ろうとしないだろう。

 だが、そうやって予防線を張られたほうが、かえって雪花のためかもしれない。佐知子が調査員として何の事件にどう関わり、なぜ雪花にまで危険が及ぶ事態になったのか。その詳細を知ったところで、中学生の雪花にはどうしようもない。一歩間違えば本当に死んでいたのだから、事の経緯や真相を知りたい気持ちは正直ある。だが、知らないほうが幸せという理屈も、世の中にはきっとあるのだと思うことにした。

「それから、雪花にはしばらく護衛をつけるわ」

 考え込んでいた雪花は、隣から突然飛んできた単語を受け止めるのが一拍遅れた。

「護衛? 護衛って」

「その名のとおりよ。事が落ち着くまでの間、あんたにはあたしの部下を二人、護衛としてつけることにしたから。人選は昨夜のうちに済ませておいた。父さんや母さん、健人にも言ってあるわ。本当はあたしが雪花を守ってあげたいけど、四六時中ついてることは叶わないからね。もしまた何か怖い目に遭いそうになったり、変な人を見かけたり、声かけられたりしたら、側にいるそいつらを頼りなさい」

「お姉ちゃん。その護衛っていうのは要するに、サスペンスドラマとかに出てくる、あの」

「そう、分かりやすく言ったらSPね。身辺警護と言ったほうが、より分かるかしら」

「……それって、家を出てから帰るまでずっと? 学校にいる間はどうするの?」

「学校にいる間も付近に待機させるわ。校内まで入らずとも、見守りはできるからね」

「友達といる間は? 登下校とか、遊びとか」

「勿論していいわよ。今までどおりで大丈夫だから、友達付き合いは変わらず大事にしなさい。でも、余計な口は滑らせないこと。寄り道しても構わないけど、家への連絡はこまめに入れて、門限は破らないこと。もしはめを外しすぎて困った時は、いつもみたくあたしに電話しなさい。ちゃんと計らってあげる。まあ、それも癖になったら困りものだから、要は何事もほどほどに」

「……何か、ちょっと拍子抜け。護衛の人がいるんだから寄り道するなとか、しばらく出掛けるなとか、言われるのかと思った」

「普通に過ごすのが一番なのよ。雪花は日常に戻ることを第一に考えなさい。護衛の存在をひけらかすのはだめだけど、いるからといって変に委縮する必要はない。雪花のプライバシーにはちゃんと配慮してある。彼らには雪花の身の安全を守ってもらうの。一刻も早くあんたが日常に戻るためにね。そういうわけで、しばらくは外出中、ずっと見張られてる気分になって嫌だろうけど、解決したら外すから、窮屈でも我慢してちょうだい」

 否とは言えない語調で告げられ、雪花は頷くしかなかった。

「学校には何も言わなくていいから。訊かれても、とぼけて無視しときなさい。面倒な事態になったらお姉ちゃんが出ていくから、昨夜の事件や護衛のことも含めて、誰にも何も言わないこと。足の怪我は……そうね、派手にすっ転んだとでも言っておきなさい」

「誰にも……っていうのは、その」

「言葉どおりよ。友達にも、先生にも。雪花はただ、日常に戻ることだけに専念しなさい。余計なことは考えなくていい。しばらくは息苦しい思いさせるけど、もう二度と雪花を怖い目に遭わせないための措置だから」

「……分かった。お姉ちゃんを信じる」

 雪花がそう呟くと、張り詰めていた佐知子の唇が一瞬だけ緩んだ。雪花は車窓に少し寄りかかり、つい先程聞かされた今後の話を己の中で反芻してみる。

 佐知子の話は全て決定事項だ。きっと両親や兄たちも異論はないのだろう。

 雪花としては、健人も了承したというのが少し意外だった。警察官で重度のシスターコンプレックスの彼が、末妹の命を脅かした輩を許すはずがない。我を忘れて怒り狂っている様が、雪花にはありありと目に浮かぶほどだ。

 だが佐知子は、そんな健人をも納得させた。恐らく昨夜、尋人に雪花を家へ連れ帰るよう命じた後、二人の間で何らかの話し合いがあったのだろう。佐知子が下した判断に、何をもって健人が納得したのか、雪花にはとても想像がつかない。

 昨夜の事件について警察は動かない。だが、佐知子が二名の部下を護衛として手配する。殺人未遂事件の対応としては異質だと、素人目でも明らかに分かるそれらの判断は全て、雪花のために下されたものだ。誰もが雪花の心と今後を案じ、一刻も早く日常に戻れるよう気遣ってくれている。やや強引で無茶な展開ではあるが、今の雪花にできるのは何も言わず、何も訊かずにその厚意に甘えることだけだろう。

 病院でレントゲンを撮った結果、どの骨にも異常はないことが分かった。佐知子の知己だという医師に包帯を巻いてもらい、治癒するまでの消毒方法を教わった後、昼前には車で学校まで送り届けてもらった。

 校門の前で車を止めた佐知子は運転席から、

「雪花、分かってるでしょうけど」

「うん、誰にも何も言わないよ。訊かれても適当に誤魔化すから」

 そう言って、雪花はいつもの無邪気さで笑ってみせた。

「じゃあ行ってくるね。いろいろありがとう、お姉ちゃん」

 雪花は難しい顔をしたままの佐知子に手を振って、疼く膝をやや不器用に動かしながら校舎へ向かう。

「雪花」

 呼ばれて振り返ると、いやに真剣な面持ちをした佐知子がきっぱりと命じた。

「昨夜のことは早く忘れてしまいなさい。余計なことは考えないこと。いいわね」

 一方的にそう告げるなり、佐知子は車を発進させる。雪花は返す言葉も浮かばないまま、走り去る車影が消えるまで校門に立ち尽くしていた。



 一刻も早く忘れて日常に戻れと佐知子は言ったが、その思惑や気遣いとは裏腹に、とても戻れそうにない日々がしばらく続いた。

 人生最大の恐怖から、あっという間に一週間が過ぎた。両膝の見るに耐えない傷も日ごとに癒え、一生消えないのではと思った悪寒も次第に薄らいでいった。あまりに平穏に日々が過ぎていくので、もしかして全て夢だったのではと疑ってしまうぐらいだ。

 きつかったのは最初の三日間だけだった。事件の翌日、病院の後に遅刻していった時は特に胃が痛かった。

 教室の扉を開けるのに思いの外勇気がいったが、いざ開けてみれば、クラスメイトはいつもと同じ明るさで迎えてくれた。遅刻を珍しがられることはあっても、膝の傷を好奇の目で見られることがなかったのにはほっとした。紗弥香や舞子、美希は特に心配してくれたが、昼休みを過ぎれば話題に上ることもなくなった。

 心配や気遣いの言葉はいくつももらったが、からかいや噂の対象にされることは不思議となかった。雪花はそれにほっと胸を撫で下ろしつつも、実はやや拍子抜けしていた。そしてその余韻が消えた頃にやっと、簡単に周囲を疑ってしまえるほど追い詰められていた自分に気付いた。

 不安が一つ解消されたと思ったら、次の試練が時を置かずにやってきた。

 いつもと変わらぬ学校生活を送る裏で、雪花は実のところ一睡もできておらず、以前と比べて食欲も著しく落ちていた。ひどい時は、食事のことを思い浮かべるだけで吐き気に襲われる。睡眠が激しく足りていないせいで、どの授業でもひたすら眠くて仕方がない。

 そのため体調不良を適当に装っては、普段はまず利用しない保健室に行って、体育や美術の授業をさぼったりした。だがその結果、ほんの少し仮眠を摂るつもりが三時間以上も寝てしまい、養護教諭には「まるで死んでいるようだった」とひどく心配された。

 一人で抱え込んでいたから、余計つらかったのかもしれない。佐知子の厳命があろうがなかろうが、信頼に足ると思える人に打ち明けて慰めてもらうことは、しようと思えばいつだってできた。

 しかし雪花はどれほど苦悶しようと、絶対にそれを選ぼうとはしなかった。常に笑顔で神経をぴんと張っていないと、胸の深くで蠢く翳に食い潰されそうで怖かった。

 死に命を掴まれかけた恐怖。骨の髄まで染み込んだ戦慄の余韻。二度目があったらどうしようという恐れ。安心していいと言われても信じきれない疑り深さ。あらゆる全てを負の印象に変えてしまう心の目。どす黒い触手が心臓に絡みつき、神経という神経、血管という血管を蝕んでいく。そんな不穏すぎる何かが棲みついて、下手したら本気で気が狂ってしまいそうだった。

 雪花にとってある種、地獄にも負けない三日間だった。しかし、それを過ぎると少しずつだが眠れるようになり、食欲も徐々に回復の兆しを見せていた。心をひどく攻め立てる恐怖を俯瞰で捉えられるようになり、どうしようもなく不安になった時の対処法も、自ずと分かってくるようになっていった。

 時間の経過には、心の荒波をも鎮める力があるらしい。そう悟れるまでになったのは、事件から六日が過ぎてからだった。あとは手足の傷が完全に治癒し、恐怖の記憶が綺麗さっぱり消えてくれるのを待つのみだ。

 そんな冷静さを取り戻していくにつれ、雪花は二つの事柄にひどく悩むことになった。

 一つは、雪花に四六時中張りついている護衛の存在だ。姉から遣わされたがたいのいい男性二人は、学校にいる時は敷地内が見渡せる場所に待機しているが、登下校時は一定の間隔を保ちながら後をついてくる。登下校を共にする紗弥香や舞子、美希は勿論彼らには露も気付いていない。学校側も、敷地内が見張られているなど知る由もなかった。

 最初のうちは雪花も、守られていると素直に思うことができた。いざという時には逃げ込めると、頼もしくも感じていた。しかし少しの間ではあるが、他人に対して疑心暗鬼になっていたせいで、佐知子がお墨付きで用意してくれた彼らにも、守ると言っても裏切らない保証はないと、あらぬ恐怖を抱く瞬間が何度かあった。そう思ってしまったことに、理由やきっかけは特にない。単に雪花の神経が、何に対してもいつになく過敏になっていただけだ。

 そんな疑念がやっと消えたと思ったら、そう間を置かないうちに、次は四六時中護衛されていることが窮屈になってきた。

 護衛の二人は、雪花から片時も目を離さない。それはつまり、一緒にいる友人たちの顔も彼らの脳にしっかり刻まれ、会話や行き先といった何もかもが筒抜けということだ。その息苦しさは尋常ではなかった。

 プライバシーには配慮してあると佐知子は言っていた。だが雪花からすれば、彼らが佐知子に逐一報告している時点でもう、プライバシーなどあってないようなものだ。佐知子には、護衛の存在は気にするなと再三言われているが、全く気にしないというのは到底無理だ。彼らが背後にいる時点で、どうしたって気になってしまう。

 もう一つは、あの夜出会った少年のことだ。尋人と同年代に見えたあの少年は、不意を突いて現れては、雪花の窮地をさらりと救った。だが、ほんの少し言葉を交わしただけで、彼は闇に溶けるように消えてしまった。それから三日間は自分のことだけで精一杯だったが、よくよく考えてみると奇妙な事柄がいくつもある。

 彼は拳銃を持っていた。持っていただけでなく、それを使って五人もの人間を一瞬で殺した。その手際は実に鮮やかで、あの時雪花は目を瞑って耳を塞いでいたが、彼が人を手に掛けたのは、決して初めてではないと瞬時に悟れた。

 人殺しは犯罪だ。銃を持つことも当然ながら罪だ。あんな危険なものを平然と使いこなし、恐ろしい所業を事もなげにやってのけた、あの少年は何者なのか。

 最初は、彼にそうさせた原因は自分だという罪悪感が、雪花の中で絶えず不吉に渦巻いていた。しかし、あの見事なまでの殺しぶりを思い出すと、それとは別の薄ら寒さが生まれてくる。

 あの夜雪花は杉原調査事務所で、佐知子に窮地を助けてくれた少年のことも話した。彼に命を救われたことは勿論、彼が雪花を助けるために殺人を犯したことも、包み隠さず打ち明けた。しかしそれ以降、その少年についての何かが話題に上ることは全くない。佐知子から改めて訊かれたこともなかった。

 もしかしたら佐知子は、彼の素性を既に突き止めているのかもしれない。もしくは、健人が極秘裏に調べている最中という可能性もある。あれから一週間が経過した後、雪花はそう思い至ったが、佐知子や健人に詳しく尋ねてみることはしなかった。訊いたとしても、きっと答えてはくれまい。そう端から諦めてしまったのだ。

 助けてくれた少年について、雪花は何度も思い巡らせている。

 銃を難なく扱う人は恐ろしい。だが、あの少年を心から怖がっているかと訊かれたら、雪花は小首を傾げるだろう。人殺しは罪深い。しかしあの時彼が現れなければ、雪花は確実に殺されていた。救われたことを感謝する謂れはあっても、その罪を糾弾する気にはどうしてもなれない。初めて顔を合わせたはずなのに、巻き込んで悪かったと言って姿を消した彼に、助けてもらった礼を言いそびれたことを、雪花はずっと後悔している。

 叶うなら彼にもう一度会いたい。そして、あの時言えなかった感謝を直接伝えたい。彼だけが絶対悪ではないはずだから、指名手配や逮捕といった事態になっていなければいいと心から願う。彼の詳しい身元や居場所を知りたかったが、できれば佐知子や健人には辿り着いてほしくないとも思っていた。

 名も知らぬ少年のことを考えれば考えるほど、雪花の感情は見たこともない深みへ引きずり込まれる。

 いくらか眠れるようにはなったが、それが安堵に直結したわけでは決してない。ほんの些細なきっかけから、あの夜味わった恐怖が突如蘇り、寒くもないのに背筋が震えて泣きたくなる時がたくさんある。

 だが雪花は、その話を誰にもしていなかった。事件について話すのを、佐知子に禁じられているからというのもある。それ以前に、家族や友人に本音を語ることが元から苦手なのだ。いたずらに周りを心配させることも、決して雪花の本意ではない。

 急に気持ちが不穏に崩れ、泣きたくてたまらない衝動に襲われたら、雪花は涙に耐えながら、決まって助けてくれた少年のことを考えた。彼は今、どこで何をしているだろう。名前は何といって、どんな暮らしを送っているのか。理由はよく分からないが、彼のことを考えている間はいつも、凝った心がふわりと凪いで戦慄が綺麗に消えるのだ。

 もしかしたら、名も知らぬ彼になら話せるかもしれない。絶体絶命の雪花を難なく救ってくれた彼ならば、胸を不吉に苦しめ続けるこの感情たちを、ひょっとしたら受け止めてくれるのではないか。

 それは歪みみたく不格好に捩れた、雪花の中だけにある夢想だ。叶わぬものと分かった上で、単に気持ちの逃げ場として確保しているにすぎない。だがその片隅で、そうあってほしい、そうであればいいのにと、雪花はいつしか強く願うようになっていた。



 翌週に入っても、雪花には変わらず二人の護衛がついていた。事が落ち着くまでと佐知子は言っていたが、そう簡単に片付くものではなかったらしい。怪我もだいぶましになり、恐怖からもすっかり立ち直った雪花は、ようやっと日常を取り戻しつつあった。

 事件から八日が過ぎた日も、雪花は紗弥香や舞子、美希と下校していた。その日はどこの店にも寄らず、自販機で買ったペットボトルを手に、駅前広場でとめどないお喋りを繰り広げていた。駅を出てすぐのそこは、広場と称するには小規模だが人通りが多く、待ち合わせにもうってつけなので、若者の溜まり場になっている。

 陽がうっすらと傾き始め、雪花が笑い疲れた喉をジュースで潤していた時だ。視界の隅に、何かがほんの一瞬入って消えた。瞬きより短いそれに気付けたのは、もはや奇跡としか言いようがない。

 我を忘れた雪花は慌てて立ち上がり、残りのジュースを勢いよく飲み干すと、

「ごめん、用事を思い出した。先帰るね!」

 お喋りに夢中だった美希たちが唖然とするのも気にせず、雪花は鞄を掴むと人の群れを掻き分けてひたすら走った。そしてやっと見つけた襟首を、飛びつくようにぐいと掴む。

 携帯電話を片手に、無防備な背中を晒していた少年が、不意打ちを食らって仰け反りかける。かろうじて堪えて振り返ったその顔を見て、雪花は思わず満面の笑みを零した。

 ぎょっと息を呑んだ彼は、あの夜雪花を凶行から救った少年その人だった。

「……やっぱり! やっぱり当たってた。あなた、あの夜助けてくれた人でしょう?」

 襟首を掴まれた彼は、驚愕そのものの顔でしばし凍りつく。驚きすぎて言葉もない少年だったが、慌てて我に返ると雪花の手を粗雑に振り解いた。

「広場にいたら、ふいにあなたの姿が見えたから、もしかしたらと思って追いかけてみたんだけど……よかった、間違ってなくて!」

 嬉しさを隠せない雪花とは対照的に、驚きが過ぎ去った少年は実に苦々しい顔になる。それは怒りに近い形相だった。だが、雪花にはその理由がまるで思い当たらない。

「あの夜、せっかく助けてもらったのに、お姉ちゃんが来たからあなたは帰っちゃって、ろくにお礼も言えなかったでしょう? どこの誰かも分からなかったから、会いに行こうにも会えないし。だから」

 そう言い終えた途端、雪花は己の置かれた状況を思い出して後方を振り返る。そして少年の手を掴み、全速力でその場から逃げ出した。少年は勢いに呑まれて唖然としていたが、すぐに非難めいた怒鳴り声をぶつけてくる。

「ちょ、何すんだよ!」

「後ろにいるスーツの人たち、お姉ちゃんがつけてくれた護衛の人なの!」

「はあ? だから何!」

「あの人たち、悪い人じゃないんだけど、ずーっとあたしのこと見てるの。護衛なのは分かってるけど、今は邪魔! だから撒かないと! だってゆっくり話したいのに、見張られたままじゃできないじゃない!」

 雪花が目だけで振り返ると、全身を黒のスーツで固めた護衛の二人が、血相を変えて追ってきている。彼らからすれば想定外の事態だ。追いつかれると、きっとあれこれ詮索されるのは勿論、彼らを遣わした佐知子にも報告が入るだろう。それは絶対に嫌だった。雪花はただ、命を救ってくれた彼と話がしたいだけなのだ。

 考えなしに駆け出したせいか、足の限界はすぐに訪れた。元来の鈍足に慣れない鞭を打ったせいか、雪花のスピードは落ちていく一方だ。見かねたように舌打ちした少年は、雪花が転びかけるのを無視して、すぐ側の角を勢いよく左折した。そして、状況が呑み込めずにおたおたする雪花に、少年は苛立たしげな怒鳴り声を投げつける。

「あいつらを撒きたいんだろう。なら、黙ってついてこい!」

 少年は雪花より遥かに足が速かった。彼は雪花の腕をきつく掴んだまま、ぐいぐいと引っ張って路地裏を突っ走る。雪花はその俊足についていくのがやっとで、自分たちが今どこを走っているのか、また彼がどこへ行こうとしているのか、考える余裕は全くなかった。

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