セーブとリロード

 彼が夢の中で流し続けたすべての涙は、無駄ではない。いつの日か彼は幸せな世界を造り出すのかもしれない。

 そして、そんな彼の昼夜の活躍を記録管理しつつ、応援する者がいる。

 

 『頑張れよ、カンデ。』

 と、その者、橋本は呟く。

 

 仮想世界で、昼のカンデは飛沫屋。水流の物理計算を行うパーティクルエンジンを精霊の加護というパラメーターを通じ調整する。作られたパラメーターはセーブされ、仮想世界内の追加コンテンツとなる。仮想世界内でパラメーターを調整しさまざまなコンテンツを作成し、ユーザーの期待に応える仕事は、この世紀末の世界ではもはや珍しいものではない。

 それでもカンデは特別の存在だ。世紀末に、親を知らず孤児院に育った5才児の彼は、不幸な事件により失った視力を回復する見込みも、利き腕が戻る見込みもなくなった後、研究機関を兼ねた病院の仲介により、仮想世界の恒久滞在試験者エターナル・フルダイバーとなった。仮想フルダイブ世界の運営会社は、ダイブしている世界が仮のものであることをカンデには伝えない方針だ。彼は仮想世界をフルダイブし続けた数年で感性を育て、彼なりの造形を行う。彼がパーティクルエンジンを使いこなし造っている水流の立体コンテンツの数々は、既に一流のエンジニアリングの域にある。

 

 橋本は、入社早々に、カンデが仮想フルダイブ世界で生きていけるよう自律的教育用AIが行う順応教育の運営担当者となって以来、カンデを見てきた。

 就学前の児童に、仮想ゲーム世界への片道切符となる、エターナル・フルダイブを行うことには、当の仮想ゲーム世界の運営会社の社内からも異論があった。人権団体などからは、今尚、運営に対し、非倫理的だ、という声が寄せられている。人権団体のエバンジェリストは、『今の世の技術の粋を尽くせば、彼の失った視力も、失った利き腕を取り戻すことは可能です。』と、訴え続けている。

 残念ながら、世紀末の世界で技術の枠を尽くした治療を享受できるのは、一部のお金持ちだけ。人権団体も巨額の寄付が集まるといった幸運事が無い限り、本気で彼のような立場の者を救おうとはしない。

 

 そして、彼の置かれた状況を知る人々の中には、彼の生き方こそが次の世紀の希望なのだとみなす人もいる。

 世紀末の地球。世界中の人たちが、環境保全の取り組みを前より熱心に進めるようになっている。それでも前世紀より積み重なった農地や河川や地下水の汚染はなお多く残る。気候変動と温暖化により砂漠化も進んでしまっている。

 そうした中、世界人口は100億人に達してしまっている。

 今の世界は共有地の悲劇だ、と揶揄する人もいるが、次の世紀の人々のために、今生きる人々は浪費を控え、分かち合い、どこかを我慢していきなけれぱならない。

 

 橋本は、一介のサーバー管理者に過ぎない。サーバーの運営ログを見て、なにかサーバーに問題が起きた時にはマニュアル通りの対応を行う。高度な技術で作られた仮想フルダイブ世界のサーバーの中身の事は、彼にはさっぱり分からない。彼がもらう月々の給料は、まぁ、生きていくことはできるといった水準にしかない。それでも、仕事あがりの人々が仮想フルダイブ世界にログインし娯楽としてゲームを楽しむためのサーバーのお守役を、橋本は続けている。

 ただ、冗長性を持ち自律稼働をするAIを内包したサーバーは、対応が必要となるトラブルを滅多に起こさない。そのため、橋本には、待機する間に運営会社が契約している電子図書館の本を読むことが許されていた。コスト削減のためか、その電子図書館で読めるのは、著作権フリーとなっている作品ばかり。

 それで橋本は構わなかった。彼は、フルダイブ機器に横たわった現実世界のカンデの細く小さな身体の写真を見て以来、思想書のような作品を好んで読むようになっている。

 前世紀の思想家は、「次の世紀に生きる人々は、ごく少数のエリートを除いて、おもちゃじみたものしか与えられない。」といったシニカルな預言をしていた。

 悪化した世紀末の地球環境の中、特別の富を持たない多くの人々の娯楽である仮想世界ゲームは、それこそおもちゃじみたものなのかもしれない。それでも人々はその世界を楽しみ、希望を託す。

 半世紀近く前の思想家は、「世界保健機構が各国政府に対応を求めたゲーム依存症は、今世紀の新たな南北問題、貧富の格差問題である。」と述べている。

 橋本が管理しているアクセスログには、過半数のゲーマーが途上国からログインしていることが記録されている。仮想フルダイブ世界の運営会社の収益源は、ガチャの課金収入と広告収入。大多数のゲーマーは豊かではなく、ユーザーからの課金収入は多くはない。依存症じみた人々を含め、大半が豊かではないゲーマーへの広告収入も限られている。運営会社の財務状況はけっこうカツカツだよ、と橋本は同僚から聞いている。

 

 そんな中、カンデの件は、運営会社にとってはちょっとした成功事例となっている。現実世界の彼は、ごく少量の完全栄養食で生きながらえている。彼が生み出している造形物は十分な水準に達しており、原価は低い。費用対効果に見合いそう、とのことだ。

 そして、運営会社のマーケッターは、並行して仮想フルダイブサーバーのリロード機能を活用し、もう一つの実験を行っている。実験の命題は、仮想フルダイブ世界のことしか知らない彼の行為が、固有のオリジナリティあるストーリーをマルチエンディングAIに与えることができるのか、となっている。

 実験を企画したのはマーケッターとフルダイブ機器の研究者、それを実装したのはAIエンジニア。橋本の役割は、カンデの行動を記録したログをただ気長に管理することのみ。それでも橋本は、繰り返される仮想世界にピュアな生きるカンデを応援している。サーバー上のAIエンジンによって提供されるその世界が、見方によってはおもちゃじみたストーリーの世界であるとしても、そこが彼の生きる世界だ。

 

 5歳の頃、孤児院での彼は話し好きだったという。カンクロウとあだ名されていたという彼を、橋本は見たことはない。ただ、橋本はカンクロウだった頃の彼と共通する点がひとつだけある。橋本も父母を知らず、孤児院で育っていた。

 自宅の安アパートの一室とサーバールームを往復するのが、橋本の生活のだいたいのところ。そんな橋本は、20歳以上は年下の彼を、仮想世界に生きるヒーローとして応援している。橋本にはできない生き方だ。

 

 仮想世界のヒーローとなるべく必死に生きる彼に、橋本はただ一つだけ贈り物をすることができている。

仮想世界内での彼の活動ログの業務レポートに、橋本は、彼は味覚や嗅覚の刺激が必要なのではないかと、コメントを書いた。大脳生理学を知る研究者は、そのコメントを受け入れ、研究費で仮想世界内での彼の選択に応じ、彼の舌に味覚を与え、彼の鼻に嗅覚を与える装置を導入してくれたのだった。そこから、彼は仮想世界内で大精霊ティアを生み出し、彼の活躍は加速している。

 

 今日のログには、大精霊ティアの加護を受けたカンデが、遂に、彼の2人の姉の命を救ったというストーリーが記録されていた。

 

 「かっこいいぜ、兄弟。」

 と、橋本は呟き、いつものコーヒーを一口、飲む。


 その味は、仮想フルダイブ世界のカンデが朝のコーヒーを飲む時に、彼の舌に向かってスプレーされるミストと苦味と同じ。その香りは、蒸散したミストが彼の鼻が向かう香りと同じなのだった。

 

 橋本は世紀末の世界を生き、カンデは次の世界に残る仮想フルダイブ世界を生きていく。

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精霊マリンの加護を賜りし、飛沫屋(しぶきや)カンデ 十夜永ソフィア零 @e-a-st

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