第20話 キラキラと・・・昇華して往く、悲しみ 3

「話、終わったの?」

 そう言いながら戻ってきた雅也に、僕はそれには答えずに、訊き返す。

「なぁ雅也、人は変わるのか?」

「なんだい?藪から棒に。何かあった?それとも酔っぱらった?」

「いや、良いんだ。気にすんな、何でもない」

「そうか」

 雅也はそう言うとカウンターの中に居た従業員に「お勘定お願いします」と声を掛けた。

「もう出るのか?」

 由紀とのことがあり、僕は後ろ髪引かれる思いがあることは否めない。不謹慎だろうか?

「『もう』、って君、三時間も居るよ、俺達」

 カウンター内の壁掛け時計に目を遣ると、既に十一時を回っていた。

「そっか、そんなに居たのか・・・。分かった、帰ろう・・・」


 店を出ると、雅也は黙って先に歩き出す。

「何処か行くのか?」

「うん、ちょっと寄るところがあるんだ。付いてきて」

 歩きながら、どうやら駅の方向に向かっているらしいことに気付いた。

「駅に行くのか?」

「うん」

「誰かの迎えか?」

「いいや、取りに行く」

「?何を?」

 雅也はそれには答えずに、唯黙って歩みを進める。僕もそれに従った。

 駅に着くと、雅也は券売所でも改札でもなく、駅構内はずれのコインロッカー前まで来ると、コートのポケットからロッカーのキーらしきものを取り出して、ロッカーの一つに差し込んでそれを回す。

 ロッカーの扉が開かれ、その中に封筒が二つあるのが見えた。

 雅也はその二つの封筒を取り出すと、まず先にそのうちの一つを僕に手渡す。

「これって・・・」

 少しゴツゴツしたものが入っているその封筒が、あのコインのキーホルダーであることは直ぐに解かった。

「うん、そうだよ。それと、これも」

 そう言ってもう一つの封筒を差し出しながら、雅也は「渡そうかどうか、迷ったんだけど」とも言い足した。

 それは薄い封筒で、おそらく中には便箋は一枚しか入っていないくらいの軽い封筒だった。

「明美ちゃんが俺宛に書いてた手紙の中に、君宛のそれも入っていて・・・渡す、渡さないは俺に任せるって・・・」

 僕は渡されたその封筒を見詰める。そして、その封筒を握った手は震えている。

「ここで読む、読まないは君に任せるよ・・・。勿論、当たり前だけど、俺は内容は知らない・・・。でも明美ちゃんのことだから・・・」

 今ここで開封したい気持ちと、明美の最後の言葉を目にした時の動揺で自分がどうなってしまうか分からない不安感に、僕は自分の気持ちを正確に表現することが出来ない。

「・・・・」

 言葉も出ず、指先さえも動かすことが出来ない。

 聞こえる筈もない腕時計の秒針の進む音が、頭の中で鳴り響いているように感じるのだが、実際の時間の永さがまるで感知できない。数十秒なのか、数分なのか、恐らくはほんの短い時間なのだろうが、ずっと前から、そしてこれからもずっと、この居心地の悪い時間と空間に捕らわれたままな気がする。

 不意に騒がしくなった周辺の気配に我に返った。電車が到着し、改札から人々が流れ出して来たらしい。

 僕は黙ったまま雅也に目だけで合図を送ると、雅也も「うん」と頷いて見せた。

 まだ震えの止まらない指で封を切り、中の一枚きりの便箋を取り出す。三つ折りのその便箋をゆっくり開くと、見覚えのある懐かしい筆跡が目に飛び込んでくる。

 分かってはいたさ、胸が戦慄わななき、眉間は熱を帯び、身体は重力を見失うのだ。そうなることは、分かってはいたのさ。

 それでも霞んだ視界で、一文字一文を解きほぐすように読み進める。短い文章の最後に書かれた『さよなら』の文字に辿り着くまで、何度も読み返し、『さよなら』の文字が目には入ってはいても、読まないように、何度も戻って手前までを読み返す。



「さゆうくんへ


 さゆうくん、私は、今、とてもあなたのことを想っています。


 でも何故か、明日、目が覚めると、私はあなたのことを忘れてしまっているの、きっと。


 何か、大事なことがあることは分かるのだけれど、それが何か、思い出せません。


 さゆうくんのことが、大好きです。それだけは分かるの。


 あなたのことを忘れていくことが、辛いです。そして、今、思い出そうとして、


 上手く思い出すことの出来ないこの時間が、もっと辛いです。


 こんなに好きな気持ちがあるのに、あなたのことを思い出せない・・・


 私だけが、あなたのことを忘れていくなんて、不公平だと思いませんか?

 (ここ、笑ってもらえると、ちょっと嬉しい、かも)


 だから、公平に、平等に、あなたも、私のことを、忘れてください・・・


 可笑しな文章だと、笑って下さい。


 大好きだったよ。


 でも、さよなら。


       明美」



 

 僕は僕のかたちが音もなく壊れていく奇妙な感覚に襲われながら、明美の手紙を雅也に突き出すように手渡した。

「良いのかい?読んでも」

 僕は雅也とは目を合わさず、明後日の方向に顔を背けたままで頷く。

 半年前、涙はもう枯れた筈だった。枯れたと思っていた。

 半年が経ち、地元に帰省して、そして今初めて、明美がもう居ないことを実感したのだ、恐らく・・・。

 胸が苦しい。

 これが悲しみというものなのか。

 喪失感。

 絶望。

 憤怒。

 そんな簡単な言葉では言い表せない。何一つ当て嵌らない。

 息が出来ない。

 僕はフラフラと駅構内から抜け出し、駅からバスロータリーへと続く歩道橋の真ん中で立ち止まる。

 涙の滴で街のネオンは乱反射してキラキラ輝いて見えるのだけれど、それはまるで砕け散って霧散していく氷の欠片の様に儚くて冷たい。

 夕方に降った雨のせいか、限りなく透明に近い空気の中で、光の欠片は昇華して、やけに神々しい月の光に吸い込まれていく様だった。

 分かっていたんだ。今の今まで、明美はここに居た。そして、今初めて、僕が現実に向き合った瞬間に、明美は本当に消えていこうとしている。それは止めることも出来ないし、捕まえることも出来ない。唯々、涙を流しながら、立ち尽くし、見届けることしか出来ない。

 次第に乾いていく涙を感じながら、僕は月を眺める。

 明美、君は行ってしまうのか。

 明美、僕は忘れてしまうのか。

 明美が羽ばたいたのか。

 僕が手放したのか。

 明美の瞳には何が映っていたのだろうか。

 僕の視界は、今は霞んでよく見えないよ。

 君は限りなく透明だったんだね。

 僕の色って何色に見えていたの。

 本当は、まだそこに居るんだろう?

 そうか・・・居ないんだね・・・分かるよ・・・。

 もうそこには、居ないんだね・・・。


 背後から人の近付く気配がして、やがて足音が聞こえた。そして、その足音がすぐ後ろで止む。

 僕は振り返り、そこに立つ雅也に向かって訊ねる。

「どこでどう間違ったんだろう?」

「間違ってないさ」

「そうなのか?」

「間違ってもいないし、誰のせいでもないよ」

「そうか・・・」

 暫く黙った雅也が、再び口を開く。

「キーちゃんのことだけど、いいか、少し話して?」

 僕は頷く。

「ああ、俺も話したいと思ってた」

「そっか」


 二人が自ら命を絶った後、警察は当初、北沢による無理心中も疑った。

 雅也は絶対にそれは無いと確信していたと言う。

 それでも警察としては、仕事としてその捜査も行わざるを得ず、それに乗っかるようにしてマスコミが騒いでいたらしい。

「あの時さ、左右、君が帰って来ていたら、話が全く違う方向に持って行かれるんじゃないかと思って、それで『帰って来るな』って言ったんだ・・・。明美ちゃんが自ら命を絶ったのは明らかだし、キーちゃんはそれに付き合ったんだと思ってる。後追い、って言うのかな・・・」

 北沢による無理心中?それは僕も考えもしなかった。

 北沢のことは好きではなかったけれど、いや寧ろ嫌いだったと言っても過言ではないけれど、だからといって彼に何か恨みがある訳でもなければ、憎む理由もない。反対に彼からしてみれば、僕に対してそういった感情があったかもしれないことは想像に難くない。

 しかし、例えそうだとしても、北沢が自ら無理心中を起こす奴とは思っていないし、もし仮にそんな奴であったとしたら、僕よりも雅也が許さなかったに違いない。

「俺、キーちゃんとも色々思い出あるけどさ、結局好きにはなれなかったけど、嫌いじゃなかったんだ。分かるかい?」

「ああ」

 言いたいこと、思っていることは多分、雅也も僕も同じ様なことなのだと思う。それを伝える為の言葉が上手く見つからないのも同じなのだ。

 途切れてしまった会話はそれ以上は続きそうにない。それでもこれ以上話す必要もないと思えた。

 だから、今度は僕から切り出した。

「北沢は、良い奴だった。嫌いだったけど・・・」

 雅也は少し唇を歪める様にして笑うような仕草をして見せて、

「そう、キーちゃんは良い奴だった。正論しか言わない詰まんない奴だったけど、良い奴だった」

 そう言った後、今度は唇を噛み締めるようにして、「最後まで正論を突き通せよ・・・」そう呟いた。

「ああ、そうだな。でも多分、それがアイツの正義だったと思うんだ、多分」

「そうだね、多分・・・」

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