第18話 キラキラと・・・昇華して往く、悲しみ 1

 時間は前にしか進まない。そしてまた、夏がやって来て、秋になり冬が来た。

 冬の終わりをそろそろ感じ始める頃、僕は約一年ぶりに地元に戻っていた。

 雅也と連れ立って訪れたカフェバーで、僕等はカウンターの一番奥で二人、随分と水っぽくなったジム・ビームのロックを飲みながら、お互いに話の核心部分を避けるように、つまらない話を延々と二時間も続けていた。

 僕が苦痛と思っているのと同じで、多分雅也もそう感じているに違いなかったが、どうしてもお互いに話の核心部分に触れることが出来ない。出てくる言葉は「前を向いて行かなくちゃ」とか「忘れよう」とか「考えたって仕方ない」、そんなおよそそ真実味の無いものばかりで、何一つとして本気で思ってもいないし、自分にも相手にも響きはしない。

 薄暗い店の奥のボックス席では、十人くらいの男女のグループが騒いでいたが、僕にはそのグループが何の集まりなのかは分からなかった。

 雅也が手洗いに行き、戻って来るとこう言った。

「あいつら、六組の連中だったよ」

「は?」

「だからさ、同学年の隣のクラスの六組だよ。一緒に飲まないかって、誘われた」

「・・・俺はいいや・・・知らないし・・・。雅也は行きたきゃ、行けばいい。俺はここで飲んでる」

 雅也は少し考えてから、「んじゃ、俺もここにいる。断って来るわ」、そう言って再び席を立った。

 ほんの暫くして戻った雅也が、再び問いかける。

「左右、君は由紀ちゃん、脇坂由紀、知ってるよね?」

 僕は一瞬ドキッとしはしたものの、思ったほどのリアクションにはならなかった。

「ああ、知ってる」

 僕が知っていることは良いとして、何故雅也が由紀のことを知っているかの方が気になったが、よく考えると、そういえば雅也の顔の広さは折り紙付きだった。

「そう言えば、左右って由紀ちゃんと同じ小学校、中学校だったんでしょ。そりゃ、知ってるよね。こっちに来て少し一緒に飲みたいって言ってるんだけど、良いかな?」

「別に好きにすれば良いさ」

 もっと心臓がバクバクするかと思った。しかし、今はそんな気分でもない。

 雅也がボックス席の方に向かって手を挙げて、こちらに手招きをする。

「こんばんは。隣、良いかな?」

 そう言って僕の左隣の空いたカウンター席にやって来た由紀は、やけに神妙な顔つきで

 椅子に腰かける。

「ああ、こんばんは。来てたんだ?」

「うん、来てた。・・・大変、だったね・・・大丈夫?」

「あ、うん。まぁ、でも、仕方ない、かな」

 由紀が何をどこまで知っているのかは分からない。多分、田舎の噂話程度なのだろうと思う。

 実際には誰も真相は知らないのだ。僕だって、雅也だって、恐らくは明美や北沢の親族すら、本当のことは誰にも分からない。真実はあの二人が持って行ってしまった。

 雅也は「俺、外すわ」と言い、カウンターを離れていった。何に気を遣っているのか、その時は分からなかったが、兎に角、カウンターに由紀と二人になってしまった。

「ごめんね、あっち、騒がしかったでしょ?植下君たちが来てるの知ってたんだけど・・・

 声掛け辛くて・・・」

「いや、騒がしい方が気が紛れて良かったよ。それより、雅也と知り合いだったんだ?」

「うん、そう」

「まさか、君も従姉弟とかじゃ・・・?」

 あまり笑えない冗談だったが、由紀は真顔で「違うよ」と答える。

「一年生の時同じクラスだったの。ほら、雅也君ってあんなキャラクターじゃない。誰だって知り合いだと思うよ」

 初めは由紀が僕等を見付けて、半年前の事件の真相を興味本位で聞きたがっているのかと警戒したが、彼女の様子はそのようなものではなさそうだった。

 僕はホッとしていた。



 夏の終わり、独り暮らしの学生アパートの留守番電話に、雅也からの伝言メッセージが入っていた。

「すぐ、電話してくれ。大変なことになった」

 嫌な予感がした。否、嫌な予感しかしなかった。

 僕は慌てて雅也の自宅のダイヤルボタンを叩く。

 居れば良いけど・・・三コール目で直ぐに電話に出た雅也は、こちらの声も聞かずに、せきを切った様に話し始める。

「左右か?明美ちゃん、死んじゃった。キーちゃんも。落ち着けよ、嘘、冗談じゃないんだ。本当なんだ。落ち着けよ」

「・・・・・」

 絶句するしかなかった。

「おい、左右、大丈夫か?聞こえてるか?なぁ、おい、左右・・・」

 聞こえている。雅也の声は聞こえているのだが、雅也が何を喋っているかはよく理解できない。

「なぁ、左右ってば、返事してくれよ」

 今朝の短いニュースで見たのだ。地元の街で十代の大学生男女二人が自家用車で練炭自殺を図って亡くなったニュースを。

 そしてそれが直ぐに僕の脳裏で繋がったのだ。

 聞くのが怖かった。しかし聞かない訳にはいかない。

「・・・ひょっとして、それって、ニュースになってた・・・」

「そっか、ニュース見たのか。名前、出てなかったろう・・・でも、それだよ・・・」

「なんで・・・」

 再び絶句する僕に、雅也はこう言った。

「言い難いけど、帰って来るなよ、暫くは・・・」

「?」

「おかしなマスコミ連中がうろついてて、ちょっとした騒ぎになってる。左右、君が巻き込まれる」

「そんなこと言ってる場合か。明日すぐ航空券手配するよ」

「いや、でも・・・帰って来ても、もう明美ちゃんは居ないんだ・・・。俺も言おうか迷ったんだ。でもやっぱり伝えることにした・・・。落ち着いてから、ゆっくり話そう」

「・・・でも・・・。でも何で自殺なんか・・・」

「左右、君のせいじゃないよ。明美ちゃんが亡くなったのは、君のせいじゃない。キーちゃんも関係ない。そこは勘違いしないで欲しい。勿論俺もそんなこと思ってないし、俺は多分一番知ってるから、君と明美ちゃんのこと」

「・・・・」

 胸が苦しいのだが、涙が出る訳ではない。

 無性に大声を上げて叫びたい衝動に駆られるのだが、それも出来ない。そんな芝居じみたことはやるべきじゃない、そんな風に冷めた感覚が何処かにある。

 雅也が心配してくれているのは分かる。そして、僕が帰ることで騒ぎを更に大きくし、周りにも今以上に迷惑をかけてしまう、それを危惧しているのも分かる。

 もう居なくなってしまった彼女に、僕が帰ったところで何もしてあげられない。それも分かる。

 彼女の死に顔を見て、僕は泣き崩れるだろうか?抑々直視できるのか?

 では帰らなかったらどうなる?僕は後悔しないか?

 後悔って、どんな後悔をするのだろうか?自分の信義に対してなのか、それとも後になって他人からの誹謗中傷が怖いのか、それとも・・・

 考えても結論は出ない。

「落ち着いたか?」

「・・・ああ」

 心の何処かで、嘘や冗談だったら僕は烈火のごとく怒り狂ったかもしれないが、その方がまだマシだとも思った。しかし、そんなことはなかった。

「じゃあ、少し話そう」

「ああ・・・」

 雅也はゆっくりと話し始める。

「一週間前にな、明美ちゃん、俺のところに来て『今までありがとう』って、言うんだ。不思議なこと言うなぁって思って、『どうしたの?』って聞いたんだけど、その時は何も教えてくれなかった。確かに少し危なっかしいっていうか、不安っていうか、俺もその時気付けばよかったんだけど、あんまり詮索するのもどうかなって思って・・・。そのうち話したくなったら、いつもみたいに相談しに来るんだろうくらいに思っちゃってさ・・・。そういう意味では気付けなかった俺のせいかもしれない・・・」

 言葉を切った雅也は、受話器の向こうで泣いているようだった。僕は黙ってその先を待つしかない。

「・・・悪い・・・左右、君はアルツハイマーって知ってるか?若年性アルツハイマー」

 再び話し始めた雅也の言葉に、僕は驚いた。まさか・・・

「知ってるけど・・・まさか・・・」

「そうなんだ、俺も昨日、うちの母親から聞かされたんだけど・・・明美ちゃん本人には勿論知らせてなかったらしいけど、本人は薄々勘付いていたみたいでさ・・・俺も知ってればさ、もっと・・・」

 僕はその言葉の衝撃に打ちのめされて、相槌の声さえ出せない。

「そりゃあ俺にも分からないよ、アルツハイマーって言われても、老人がなるものだって思ってたし、若年性アルツハイマーがどんな症状なのかも知らないし、例え明美ちゃんがそうだと知っていたとしても、何が出来たか分からない。でもさ・・・」

 僕はもう考えることを止めていた。

「明美ちゃんはさ、結局、自ら逝くことを選んだんだけどさ、キーちゃんもそれに付き合っちゃったんだ・・・。そう考えると、俺は無理だったと思う・・・でも、何でキーちゃんは止めることが出来なかったのか、そう思ったりもする・・・。分からないよ、俺には・・・今日は一日中考えてたんだけど・・・。なぁ、左右、君ならどうだ?止められたか?なんで最後はキーちゃんだった?いや、悪い。君のせいじゃない、それはさっきも言ったけど、君のせいじゃない・・・。明美ちゃんはさ、楽しみにしてたんだ、君が秋休みに帰って来るのを・・・。夏は無理だけど、秋に帰るって君が言ってたのを・・・本当に楽しみにしてたんだ・・・」

 電話口から雅也がむせび泣きながら、必死に声を絞り出しているのが分かる。

「分かった。雅也、もういいよ。分かったから、俺は今回帰るのは止めておくよ。今度帰ったら、ゆっくり話そう」

「・・・うん。そうだね・・・」

「じゃ、切るぜ・・・」

 僕は受話器を置いて、胸ポケットから取り出した煙草に火を点けた。

 一服吸い込んで煙を吐き出すのと同時に、両方の目から涙が溢れてくる。

 何故だろう?悲しい気分とは違う、感情のたかぶりも感じない。唯々、涙が溢れて来て止まらないのだ。悲しみも怒りも、先ほど感じた息苦しさも、何もないのに、涙は溢れ、それを止める術さえ見付らない。

 そして、いつしか涙は枯れた。

 それ以降、一滴の涙も流すことは無くなった。半年の間に数回、雅也と電話で話すことはあったけれど、お互いに泣きもしないし、悲しみはあったにせよ、特に感情的、感傷的になることも無く、互いの近況を語り、思い出話をした。

 永いようで短く、短いようで永い半年が過ぎ、僕は帰郷した。


 実家では母親が「水上さん、残念だったね。水上さんって、あの鈴木さん、えーっと、おばあちゃんの入院先で一緒だった、鈴木明美ちゃんだったっけ?」と言うくらいで、特に僕等のことは知らない様子だった。僕もそれ以上話す心算も無く、「そうだね」と答えるだけで、それ以上その話題になることは無かった。

 唯妹だけは少しばかり噂を聞いていたのか、「お兄ちゃん、大丈夫?」と意味深長な気遣いをしてきたが、僕は敢て「何が?」とうそぶいて見せた。

「そっか。なら良いんだ・・・。そっか・・・」

 妹もそれ以上は何も言わなかった。

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