第8話 出会いの・・・容 3
あーちゃんはその日、彼女の母親に連れられて、僕の祖母が入院する病院の、祖母の向かいの病室にやって来た。
当時は知る由もなかったことだけれど、今思えばその病棟は癌患者病棟だったと想像できる。それもどちらかというと抗がん剤治療を行う重症患者ばかりの病室が並んでいたと思われる。
大きな旅行カバンを持った母親と一緒に病室に入って行った彼女は、母親が何やら看護婦さんと簡単なやり取りをして、看護婦さんが病室から出て行った後、いきなり母親に
僕は開け放たれたその病室の見える廊下から、何故かその様子を伺っていた。多分同い年くらいの女の子が泣いているのを見て、単純に興味本位か、若しくはただぼんやり眺めていたに過ぎなかったのだろう。
そんな僕に気付いたあーちゃんの母親は、僕の方に笑顔を向けて、会釈のように少し頭を傾けてから、あーちゃんに向き直り、「ほら、小さい子に笑われちゃうよ」とあーちゃんを
あーちゃんの母親から見ると、僕はあーちゃんより年下の小さい男の子に見えたのかもしれないし、実際に僕は同い年の子と比べると、当時は身体がひと回り小さかった。それは生まれ月に因るものが大きいかもしれない。小学校低学年くらいまでの半年~一年はかなりの差になるはずだ。同じ5歳でも4月生まれと2月生まれでは身体の成長にはそれなりに。
しかし小さいと言われて、僕は別にどうこう思った訳ではない。唯そう言われたあーちゃんは僕にチラッと視線を向けて、その後母親を見上げるようにしながら、ピタッと泣くのを止めた。
あーちゃんの母親は、そんな彼女を自分のお腹辺りにぎゅっと抱き寄せて、その髪をなでてあげながら、もう片方の手で僕に手招きをしてあーちゃんの病室に入ってくるように促した。
僕は黙って促されるままに病室のあーちゃんが腰かけるベッドの前まで行き、あーちゃんとあーちゃんの母親を見上げるようにしてそこに佇む。
「こんにちは、ぼく。この子は○○あけみ。『あーちゃん』って呼んでね。ぼくのお名前を、おばさんとあーちゃんに教えてくれるかな?」
その優しそうな母親に僕は答える。
「さゆう、うえしたさゆう。5さい」
「あら、じゃあ、あーちゃんと同い年かな、それとも一つ下かしら?さゆうくん、お誕生日は?さゆうくんのおたんじょうび、わかる?」
「にがつじゅうさんにち」
「え、じゃあ、あーちゃんと同い年ね。おばさんさっき小さい子って言っちゃってごめんなさいね。でも、これからしばらく、よろしくね。はい、あけみもあいさつしなさい」
あーちゃんは既に泣き止んではいるのだが、まだ母親にしがみ付いたまま、僕の方をジッと見詰めるだけだった。
僕が黙って右手を差し出すと、あーちゃんは一瞬惑うような仕草を見せてから母親を見上げ、母親に目で促されて、彼女も手を差し出し、僕等は握手をした。
その時、今度は背後から僕の母親の声がした。
「コラ、さゆうっ。あなたまた、そんなよそ様のところでっ。すみません、勝手におじゃましちゃって」
「いえ、私がさゆうくんをお呼びしちゃったんです。こちらこそ勝手なことして申し訳ございません・・・。あ、私、本日から向かいの病室でお世話になります、○○明美の母でございます。今後とも宜しくお願い致します」
「ああ、そうでしたか、てっきりまたうちのさゆうが、ご迷惑をお掛けしたんじゃないかって、ほほほほ・・・」
母親たちがひと通りの挨拶を交わしている間、あーちゃんと僕はすっかり蚊帳の外で忘れ去られた存在になってしまい、特に喋ることも無いので、僕はいつものようにポケットからコインのキーホルダーを取り出して、あーちゃんに見せる。
「このコインにおねがいごとをして、木にうめこむと、ねがいがかなうんだよ」
「そうなの?ふしぎだねぇ。どこで買ったの?」
「売ってないんだよ、外国にいかないとダメなんだ。ぼくは外国にいったおじさんからもらったんだ」
「いいなぁ、あたしもほしいなぁ」
「じゃあ、こんどおじさんに会ったら、もう一つちょうだいっていってみるよ」
「うんっ」
その会話はそれ以上続かず、また暫く黙っていると、あーちゃんは唐突に「おそとが見たい」と言い出した。
僕は廊下で立ち話を続けている二人の母親の元へ行き、自分の母親に問いかける。
「おそと、行ってきていい?えっと、あーちゃんがおそと行きたいって」
二人の母親は顔を見合わせてから、今度はあーちゃんの母親が僕の方を見てこう言った。
「じゃあさゆうくん、明美を連れて行ってあげてくれるかな?でも、一時間で先生が来るから、三十分で戻って来れる?」
「わかった」
僕はそう答えると、ベッドで待つあーちゃんのところへ戻り、それからあーちゃんの手を引いて、病室を出た。
そして、僕のいつもの池で、二人で鯉を眺めていたという訳だ。
それから暫くして、僕の祖母は病院でそのまま息を引き取った。その暫くが、一週間だったのか、十日だったのか、一か月だったのかは覚えていない。
その間、やはり何度か祖母のお見舞いに病院へは行ったのだけれど、向かいの病室の扉は閉まったままで、あーちゃんに会うことは無かった。
ただ、祖母が亡くなった日、僕の母親が何故か僕を連れて、扉の閉まった向かいの病室を訪れ、その扉をノックした。
「はい」
あーちゃんの母親の声がして扉が開くと、母親はあーちゃんの母親に会釈をしてから、僕に「さようならのご挨拶をしてきなさい」と言った。
ベッドに歩み寄ると、そこにはニット帽を被った、そして弱々しく微笑むあーちゃんが横たわっていた。
「さゆうくん・・・」
あーちゃんは僕の名前を口にしたが、それ以上は話すことがないのか、それとも声を出すのも辛いのか、何も言わない。
僕は慌てて自分のポケットからコインのキーホルダーを取り出して、「これ、あげる」と言った。
弱々しく差し出されたあーちゃんの掌にそれを握らせて、僕はあーちゃんに向かって何かを話したような気がするのだけれど、何を話したのかは覚えていない。
「さゆう、ご挨拶はちゃんと出来た?行きますよ」
母親の声に呼ばれて、僕はあーちゃんに「じゃあ、バイバイ」と言うと、あーちゃんは小さく口を動かしたが、何と言ったのかは聞き取れなかった。
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