第7話 犬掛城の戦い

 久留里城は、平将門の三男頼胤が築城したという伝説もあるが定かではない。


 上総武田氏の祖となった武田信長が康正元年(1455年)に上総国守護代に任ぜられ、翌康正2年(1456年)に築城したといわれるのが史実に基づく最初の築城である。 戦国時代には、武田氏が戦乱や内紛により弱体化した機に乗じて里見氏がこれを抑えた(里見成義がここを開城させたとも、里見義堯が武田一族であった前城主武田真勝に城を譲らせたともいう)。



 天文4年(1535年)里見義堯はこの地を本拠とし、改めて古久留里城(上の城)の下に新たに現在の城地に久留里城を築いた(ただし、年代に異説あり)。永禄7年(1564年)、北条軍の上総侵攻により城は一時陥落した。その後、再び里見氏が奪還した。


 天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐の際に、里見義康は私戦を禁じた惣無事令違反により、秀吉の不興を買い安房一国の領有はゆるされたが、上総の所領を没収された。この年に徳川家康が関東に入封し久留里城には松平(大須賀)忠政が3万石を与えられ入城した。忠政は城下町整備に尽力し後の基盤が出来上がった。


 その後、江戸時代には久留里藩の藩庁となった。慶長6年(1601年)松平(大須賀)忠政が関ヶ原の戦いの功により3万石加増の上、遠江国横須賀城に転封となった。代わって土屋忠直が2万石で入城した。土屋氏は延宝7年(1679年)改易となり廃藩、一時廃城となった。寛保2年(1742年)上野国沼田城より譜代大名の黒田直純が3万石で入城し再び立藩した。黒田氏は明治維新まで居城し、明治5年(1872年)廃城令により久留里城の歴史は終わった。


 昭和30年(1955年)に城郭跡地の国有地を借り受けて城山公園に整備を行った。昭和54年(1979年)には模擬天守が土壇の天守台脇にRC構造にて建造された。江戸末期に実際に建っていたものは、現存する当時の文献や、礎石の配列状況からして2層2階であったと推定されているが、再建された天守は浜松城模擬天守をモデルとした2層3階であり、実際に建っていたものとは大幅に異なる。模擬天守内は展示物は全国に現存する天守閣のパネル展示くらいで、展望台として利用されている。


 和正はブルーデルタでタイムスリップした。

 犬掛いぬかけの戦いは、天文3年(1534年)里見氏第4代当主の里見義豊と里見義堯の従兄弟同士の間で起こった里見氏の内紛によるもの。この両者の間で戦いが行われたのが「犬掛」で、里見義堯が里見義豊を破り勝利した。 里見氏同士の骨肉の争いを演じたと言われている。


 里見家第4代当主であった里見義豊は、里見氏第3代当主の父里見義通が亡くなった後に家督を継ぎ、稲村城に入城。 里見義通の弟で、里見義豊の叔父である里見実堯とその息子里見義堯は、金谷城へ入城。


 上総進出を狙う小田原城の北条氏綱は、当主の里見義豊を排除するべく、里見実堯と実堯の側近正木通綱に接近。 この接近に危機感を抱いた里見義豊が、叔父の里見実堯と側近の正木通綱を稲村城に呼び出し誅殺したことから戦いが開かれた。


 父、里見実堯を殺害された息子の里見義堯と同じく稲村城で殺害された正木通綱の息子、正木時茂・時忠が連合して敵である義豊を討つべく決起。 造海城に籠城し北条氏綱に援軍を求め、北条氏綱も要請に応じて造海城に援軍を派遣。 里見義堯・正木兄弟・北条の連合軍と里見義豊軍が激突したのが「犬掛」の地であり、この「犬掛の戦い」で里見義豊は討死。 これにより里見義堯は里見家第5代当主になった。


 

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