第5話 サンデイ・ナイトメア

 暑かった夏は徐々に去っていき、いつしか街路樹の葉も紅く染まり始めていた。

 その朝もわたしは八時にパパと家を出て、車で学校に向かう。パパはわたしを学校で降ろして働いている新聞社に向かう。これが二人のルーティンになっていた。

 そして、今日はママが帰ってくる日だ。そのせいか運転席のパパは朝からどことなく落ち着かない。朝は台所で延々とコーヒー豆を挽いていたし(使う分だけ挽かないと鮮度が落ちるはずなんだけど)、今も運転席に座りながら、どこかぼぉっとしている(お願いだから自動運転だからって寝ないでほしい)。

 ママとパパの仲はそこまで悪いわけじゃない。どちらかというとパパはママに会いたがらないけれど、でもきっと恥ずかしがってるだけだ。

「パパ、今ってどんな記事書いてるんだっけ?」とわたしが訊くと、パパは今まで寝てたかのようにびくっとしてこっちを向いた。

「うーんと、今は——」そう言ったパパは、いくぶん真面目な顔になる。「再来月に向けて、子どものPTSDが増えているっていう特集記事を書いてるんだ」

「ぴーてぃーえすでぃー?」

「心的外傷後ストレス障害、ともいう。難しい名前だね。……最近、またテロが増えているのは、リザも知ってる?」

「うん。ニュースでよく見るよ。パリにいたときは一ヶ月に一回くらいあったし」

「そうだね……。ベルリンだったりロンドンだったりの都会だと、毎週のようにテロが起きているところもあるんだ。そうすると、どうしても現場に居合わせて酷い場面を見てしまう人が増える。そうでなくとも嫌でもニュースで事件が報道されるだろう。今週は何人死亡、ってね。……まるで気象情報か何かみたいに……。

 特にリザくらいの歳の子は、そういう悲惨な事件に遭うと、心に深い傷を負うことが多いんだ。感情が麻痺してしまったり、突然に事件のことがフラッシュバックしたり。今すぐにでも忘れてしまいたいのにね。

 でも、それを『忘れる』ことは解決にはならないんだ、きっと。忘れていても、突然思い出してしまうこともあるし……。治療するにはその記憶と『向き合う』ことが必要なんだ。とっても難しいことだけどね……」

 パパは大きな溜め息をステアリングに吐いた。やるせなさと、悲しみと、怒りが混ざったような溜め息だった。

 かつて中東の国々は石油で国家を支えていた。と、いつかの歴史の授業でぺリン先生が教えてくれた。大量に輸出された石油が世界中で、車に、飛行機に、ストローに、服に、大量に使われていたのだと。

 教科書で見たあのどろどろの液体がそういう製品に使われることがうまくイメージできないけれど、わたしが生まれる十年ほど前までは、そういう時代があったのだ。パパは話を続ける。

 石油時代は、二〇三〇年ごろから始まった世界的な石油の輸入規制でゆっくりと終わっていった。すると石油に経済を頼っていた国々で治安が悪化し、二〇三五年に南米ベネズエラで、翌年には中東クウェートで革命が起きる。政府軍と反政府勢力との混乱のさなか、中東に一つの巨大な過激派組織が誕生する。ちょうどそのころに開発されたアルゴス上で世界中の若者を巧みに誘い込み、欧米を中心にテロ行為が散発するようになる。

「その成れの果てが、二〇四三年のパリ大規模テロ——日曜日の悪夢サンデイ・ナイトメアだったんだ」

「サンデイ・ナイトメア……」日曜日のパリを狙った、五人の実行犯による自爆テロ。当時四歳の女の子を含む百三十九人が亡くなり、四十一人が重傷を負った。

 あのとき、わたしは二歳だった。

「あれから、ママは変わってしまった……突然離婚すると言い出して、研究所で寝泊まりするほどになって……」

 そんなこと、言われなくても知っている。

「あんなに打ち込んで、いったい何を研究しているんだろうな」

「……」そういえば、そういうことをわたしは何も知らない。

「ごめんな、朝から暗い話になっちゃって。あまり思い出したくない話だったな。……あ、そうだ、ママから昨日メッセージが来てたぞ。『明日のサッカーの試合のチケット取ったから、リザと観に行こう?』だってさ」

「え……⁉︎」え、本当に? 三人で?

「どうする? 行くか?」とパパはいたずらっぽく訊く。

「行くに決まってんじゃん!」

「そうかそうか!」

 パパが一センチほどアクセルを踏み込む。車が上り坂の国道で一気に加速し、夏よりもいくらか高くなった秋の空の向こうに、いつもの学校が見えてくる。

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