第6話 現象
その日の五時間目は美術で、ぺリン先生がレオナルド・ダ・ヴィンチの変人エピソードをひたすら語るだけという変わった授業だった。フィレンツェで男が首吊りの刑に処せられたとき、その吊るされた男をレオナルドは興味深そうにつぶさにスケッチし、しかも彼の着ていた服の特徴まで鏡文字でびっしりメモしていた、というグロいエピソードの途中に、クララがこそこそ声で話しかけてきた。
「ねえ、退屈だからレオナルドの息の話でもしようか」
「息?」
「そう——レオナルドが吸った息と同じ空気を、わたしたちは吸ったことがあるのか、という話」
「そんなの、吸ったことないんじゃないの?」
「そうかな? まず地球の大気の総重量はおよそ五掛ける十の十八乗キログラム」
彼女は暗算を繰り返した末に(ぜんぜん分からなかった)、「……つまり、わたしたちがこの瞬間吸った空気の分子のうちでも、だいたい二千万個はレオナルドも吸ったもの、ということになる」と宣言した。
「え、そんなに⁉︎」
「割合でいうとごくごくわずかだけどね」
「へぇ……」
わたしは何となく、レオナルドが吸って吐いた空気が、六百年間旅をし続けてきたさまを思い浮かべてみた。レオナルド・ダ・ヴィンチにも日常生活があったんだろうな、と想像した。ご飯を食べたとき、友だちと遊んだとき、夜寝ているとき。
「空気だけじゃない。レオナルドの飲んだ水も、その体も、それどころかこの世界のすべては、宇宙の中にある限られた物質を使い回して循環してる。地球ができる前から、リザやわたしの体を作ってる物質は宇宙のどこかにあったんだよ」
そこまで一息でまくし立てたクララは、いつになく悲しげな顔になった。
「でも、さ。わたしたちも結局、そういう宇宙の大きな循環の一つに過ぎないんだよ。
百三十八億年くらいの宇宙の歴史の中で、ふっと現れた意識が、一瞬でふっと消えていく。他の物質を取り入れたり、要らないものを吐き出したりしながら、徐々に衰えて、いなくなる。空の雲とかと一緒だ。わたしたちって、ただのそういう『現象』なんだ、きっと……」
「どど、どういうこと……?」
「ねえ、リザ。
今わたしが『ねえ、リザ』って言った後と、言う前とでは、わたしを作ってる物質はちょっと違うんだ。わたしが呼吸をして、体の中のものを少し入れ替えてしまったから。こんな風にして、一年も経てばわたしは完全な別人だ。じゃあわたしって、何なんだろうね……」
「す、すごいことを考えてるんだね」
「……」
「自分が一年前の自分と同じかどうかなんて、考えたこともなかったよ。でも、何だろう、材料が変わっても、わたしはずっと、わたしだよ。記憶だって残ってる」
「その記憶は所詮、タンパク質BS2SMのかたまりだ。そうでしょう? 大切な思い出を作る物質さえ、いつかの自分が食べたものからできたのだったら? それって、ほんとうに自分なのかな? もはや、わたしがわたしだって証明してくれるものなんて世界にひとつもないんだ……。わたしたちが生きている世界は、そんな悲しい世界なんだよ……」
「……」
この子、こんなことを考えているんだ。
そういえば、わたしといるとき以外のクララはいつも独りだ。わたし以外と話しているところだって、マックスに怒ったのを除けば見たことがない。
きっとクララはたくさんのことを知っている。だからこそ、いろいろ周りが見えちゃって、抱え切れないほどの孤独を感じているんじゃないかな。足りない頭でそう考える。
クララはいつもわたしと一緒にいてくれる。
でも、わたしは彼女の中の巨大過ぎる空白を癒やす何かに、なれているのだろうか。
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