第4話 BS2SM
わたしは普段、大学に勤めながら脳科学の研究や学生への指導をしています。脳を研究しているのだから脳のことは何でも知っているのかというとそんなことはありません。実のところ、この分野にはまだまだたくさんの謎があるのです。
わたしたちは日々、様々なことを脳内に記憶していますよね。その記憶には主に三種類があります。それぞれ、感覚記憶、短期記憶、長期記憶という名前が付いています。
感覚記憶は「とりあえずの箱」。あなたが見たもの、聞いたこと、嗅いだ香りはすべて、まずそこに投げ込まれます。しかし感覚記憶は一秒以内にすべて消えてしまいます。ぜんぶを取っておく必要はありませんからね。
だから必要なものだけ、短期記憶——「作業箱」に移しておきます。そして、大切な思い出や忘れちゃいけない大事なことは、何回も思い出すでしょう? それらはやがて長期記憶として固定されます。
では記憶は脳内でどのような「姿」をしているのでしょうか。どんな物質が記憶を保持しているのでしょうか。この「記憶の物理的実態」、つまり
脳には何百億ものニューロンがあります。末端にはシナプスと呼ばれる突起があり、次のニューロンへと伝達物質をリレーしています。次のニューロンのシナプスは、その次のニューロンに、そして次の次のニューロンに……というように。
さて、二〇三〇年代の研究によって記憶痕跡の根本的な正体は脳内の海馬にあるタンパク質BS2SMであることが判明しています。
BS2SMは海馬の中でシナプスを取り巻くように並んで配置している紐状のタンパク質で、一つあたり九個の小さなパーツからできています。それぞれのパーツには形状の異なる二種類があり、周りのシナプスの伝達物質に応じて形を切り替えるというスイッチのような性質を持ちます。
このスイッチの「オン」と「オフ」の織り成す複雑なパターンが大量に連なり、ニューロンからの刺激を受けて変化することで、生物の記憶を表現していると考えられているのです。まるで、「0」と「1」のバイナリですべてをエンコードするノイマン型コンピュータのように。
ですが、それがどのように読み取られて書き込まれるのか、記憶を表現する言語は何なのか、といった問題は、いまだに大きな謎としてわたしたちの前に立ちはだかっています。
クリップはそこで終わっていた。クララは終始楽しそうな目をしていた。本当に同い年なのだろうか、と疑ってしまう。
「全員が生まれたときから脳を持っているのに、分からないことのかたまりで、今どんどん新しいことが分かり始めてるんだよ。神秘的だと思わない? わたしは、そういうのが好き」
「すごいね、クララ……」
「リザは何かないの? 好きなもの」
「わたし? わたしは、うーん……。
物語を読むのが、好きかもしれない。ちょっとだけ。ママの家、たくさん本が置いてあったの。『星の王子さま』も『海底二万マイル』もそこで読んだし、絵本もいっぱい。……今もフランス語の授業でお話を読むのは楽しいな」
「そうか。すごくいいね。わたしも本を読むのは大好きだよ」
「えへへ、嬉しいな」
気付けば視野がホーム画面に戻り、時刻とともに最新版のニュースが表示される。ドイツ・フランクフルト郊外で自爆テロ、容疑者含め七人死亡。シリア・首都ダマスカス陥落から一ヶ月、現地の最新状況は。米エリコット大統領、有志連合による掃討作戦の増員を決定、過激派支配地域での攻撃加速へ——。
先生が言っていた。最近、またテロが増えている。世界がだんだん変になっているって。
「ねえ、クララ。この町でも、テロ起きちゃうの?」
クララは怪訝な目をした。
「逆に訊くけど、リザがテロリストだったとして、こんな田舎町を狙うことにメリットを感じる?」
「うーん、そう言われると確かに……あ、いや、ごめん」
「別に。何もないよね、この町」と、クララは笑った。
今日の一日で、このクララという女の子に、わたしはほとんど恋心に近い憧れを抱いてしまった。今まで会ったどんな子よりも賢くて、やさしくて、かわいくて。
確かにこの町は、都会みたいな喧騒とは無縁だ。世界がどんどん変わっていってもタイムカプセルのように切り離されているような、小さな町だ。
「でも、クララがいたよ」
彼女の瞳に自分が映るのをどきどきして見ながら、わたしはそう言った。
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