第3話 クララ

 九月になり、わたしは転校先の小さな小学校に通い始めた。初めて見る教室も、視界が名前の分からないクラスメイトで溢れているというのも、わたしをむやみに不安にさせた。

 緊張しながら席に座り、膝に置いた重いバッグのファスナーを開けたときだった。

 あっ、と気付いたときにはもう遅く、どしゃんという音が教室に響く。あろうことか中身をぜんぶ床に落としてしまったのだ。

 教室中の目がこっちを向く。思わずわたしは床を向く。

「ばっかじゃねえのぉあいつぅ」

 と、男子のおちゃらけた声が前から聞こえてくる。周りの数人がくすくすと笑い声を上げる。

 耳たぶがみるみる熱くなっていくのを感じた。す、すみません——どうしていいか分からずに、反射的にそう言って中身を拾おうとすると、いきなりわたしの隣の席に座っていた子が立ち上がった。

「黙れマクシム」

 よく通る低い声が、有無を言わさぬ勢いでそれだけ言い放った。教室中が静かになる。

 さっきの男子は、わたしに向けられていた教室中の視線が今度は自分に向けられているのを察したらしく、恥ずかしそうに前を向き直った。だんだんと、ボリュームを上げるように教室に雑談の声が戻っていく。

 あまりに一瞬のことだった。やばい、めちゃくちゃかっこいい、どんな子なんだろう……と思って隣を見たわたしは、あつに取られてしまった。

 そこにいたのは、絵本から飛び出してきたと見紛うほどにきれいな、女の子だった。

 肩まで伸ばした栗色の髪の毛が、窓の外から吹く秋風に揺れている。前を見据えるグリーンの瞳はどこまでも澄んでいて、それでも、決して揺れ動かない力強さを秘めていた。窓の外の木々の隙間から教室に漏れ出して差す日の光が、彼女のその瞳をいっそう輝かせているのに、わたしは気付けばれていた。

  

「あ、あの、初めまして」昼休みに、校舎の外のベンチで本を読んでいた彼女に話しかけた。

「ん——?」と、彼女は顔をゆっくりと上げる。まるで彼女の周りで進んでいる別の世界から、こちらに引き戻されたようだった。

 本の表紙がちらっと見えてぎょっとする。分子神経生物学、と書いてある——絶対小学生向けじゃない。

「読書中にごめん」

「きみは隣の席の転校してきた子か」

「うん、リザ・コリンヌ・ダレンスバーグです。さっきは本当にありがとう。よろしくね」

「わたしはクララ・ネージュ。こちらこそよろしく。さっきの野生の獣みたいなアホはマクシム・デュポンね。この学年にマクシムっていう男子は四人いるけど、彼のことは『アホマックス』で通じる。留年三回目なのに教科書破ったり授業中にアルゴスでゲームしてたり、とにかくアホだから関わらないほうがいい。というか関わっちゃダメ。さっきみたいなときはとにかく無視するといいよ」

「わ、分かった」

「ダレンスバーグ……」と言って、クララがこちらを検分するような目をする。「もしかして——まさか、ミレーユ・ダレンスバーグさんの親戚?」

「あ」

 言うべきか迷ったけど、言うことにした。

「えと、わたしのお母さん」

「ふうん……」

 クララは冷静っぽいけど、今は明らかに興奮していた。「脳科学研究の世界的権威」で「脳神経端末アルゴス開発チームのリーダー」の「若き偉大な女性研究者」というのが、わたしのママの——ミレーユ・ダレンスバーグ博士の——肩書きだった。

「すごいよね」とクララは恍惚した表情でつぶやく。

「……ありがと」

 そういう風に褒められると、わたしはいつも複雑な気持ちに陥ってしまう。ママは本当にすごいのだろうけれど、いろいろなことを思い出してうまく喜べない自分もいた。

 わたしは「クララもそういうの好きなの?」と、彼女の読んでいた本を指差して訊く。

「まあね」と彼女は微笑んで、突然動画クリップを共有してきた。視野の真ん中の何もない空中に、サムネイルがポップアップする。大脳の後頭部、視覚野に接続されたアルゴスが映し出す拡張現実だ。一緒に観よう、ということらしい。

 そのサムネイルには見覚えがあった。六年くらい前のママの大学での講演動画だ。え、これ内容理解できるの? と訊く間もないままクララが手を触れて再生する。

 アルゴス開発チームリーダーのミレーユ・ダレンスバーグです。聞き慣れたママの声が、聴覚野に届き始める。

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