第2話 お見舞い

「リザ。もうすぐ着くよ」


 パリから高速鉄道TGVで三時間かかった終着駅に降りた瞬間、晩夏の夜に独特の涼しい風がプラットホームを沿うように吹いてきて、重い荷物を持って火照ったわたしの頰を撫ぜた。エントランスの古びた巨大な時計はもう九時過ぎを指していた。日が沈んだ後の光の余韻は消え失せようとしていた。

「ねえ、面会間に合うの?」とわたしが焦り紛れにパパに訊く。

「微妙だな。まずい」とパパが全然まずそうじゃない顔で言う。

 駅前のロータリーで「乗車待ち」のサインをしながら待つこと数分、わたしはこれから自分がどのように振る舞えばいいのか分からずにいた。ママに会ったら、意識するより前に泣いてしまいそうだった。

 闇の中から浮かび上がるようにタクシーのヘッドライトが見え、わたしはようやくサインをしていた腕を下ろす。スーツケースをトランクに入れて助手席に座る。運転席のパパがアルゴスで自動運転端末にママの病院の位置情報を投げると、ピロン、と電子音がした。合成音声が出発を告げ、わたしたちを乗せたタクシーが重々しく夜へと走り出す。

 

 蛍光灯がゆらりとリノリウムの床に反射する、その上のベッドに、ママは小さく横たわっていた。

「ママ、寝てる?」

「——リザ?」

 半年ぶりのママだ。前会ったときよりも見るからに痩せ細っていて、でも右耳には前と変わらない銀色のイヤリングが鈍く光っていて、それが余計に顔色の悪さを強調していた。

 泣きそうなのを必死でこらえる。泣くのは、子どもの証拠だ。

「遅かったじゃない。パパは?」

「……えっと、家、にいる」

 わたしがとっさにそう言うと、ママが驚いたような怒ったような顔で言う。

「ちょっとまさか一人で来たの? 何考えてるのよ、こんなときに危ないじゃない。テロだって増えてるのよ」

「ねえ、それより、ママは」

「大丈夫よ」とママは即答したけれど、わたしにはどうしてもそんな風に見えなかった。

 

 ママの持病が悪化して入院することになったのは半年前のことだった。入院すると聞かされた日の夜は、泣いて泣いて泣き疲れて、いつの間にか朝になっていた。

 心配でたまらなかった。ママは治るの? 死んじゃうの? とおばあちゃんに抱き付いたけど、確かなことは何も分からなかった。離婚したパパが気付けばいなくなっていたように、ママもわたしのところからいなくなって、いつか本当に独りぼっちになっちゃうような気がして、本当に怖かった。

 そうしているうちにママの入院が長引くことになった。わたしは六年ぶりにパパと暮らすことになり、今日、パリからこの街に来たのだった。

 

 話したいことは数え切れないほどあるはずなのに、そのどれも、言葉にするには遠過ぎて、わたしにはできそうになかった。そんなわたしを見たママが言う。

「秋休みになれば、一度家に帰れるから」

「うん。——もう遅いから帰る」

「タクシー呼ぶから待ちなさい」

「……じゃあ、お願い」


 わたしがママに会っていたごく短い間、パパはずっと病室の外で待っていた。

 やっぱり怒ってたか、と言うパパを、会えばよかったのに、過去のことなんて気にしなければいいのに、という目で睨む。それに気付いたパパは独り言のようにつぶやく。

 ママはもう、変わっちゃったんだ——と。

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