後編:イミテーションの春
◆
特にこれといった理由はなかったけれど、このまま家で年末のお笑い番組を流し見しながら途方に暮れるよりかは外出した方が幾分かマシだった。
「…………」
ただ、俺とて夜の街に繰り出したところで、せっかくのホワイトクリスマスを一緒に楽しむ友人も彼女もいるわけないし、ましてや妹なんて頭の片隅にもない。
「……結衣」
だから、あくまで今回のぶらり旅の目的は最寄りの書店に寄ること。そして今月新刊が出たラノベを買って家に直帰する。
完膚なきまでに陰キャのクリスマスだけれど、別にクリスマスの日に妹と……いや、一人でラノベを買っちゃいけないルールがあるわけでもない。
無事に今日のヲタ活を終えたら、あとは妹の……墓参りに行くだけだ。商店街から出ているバスで15分もすれば着く。
「いや、違う。結衣は生きてる」
今日は妹の命日だから、せめて俺だけでも手を合わせにいくべきだろう。その方がアイツもきっと喜ぶに違いない。
「だから違うだろ……結衣はまだ生きてるんだよ」
そんな想いを胸に、リビングの暖房が届かず芯から冷え切っている廊下を歩き、ショルダーバッグと薄いジャンパーを羽織る。
この身なりは、かつて妹に「お兄ちゃんその服地味だよ?」と失礼極まりない言葉を投げつけられたファッションだけれど。
「…………」
いくら私服が地味だったとしても、見られて恥ずかしい友達などいない。妹が亡くなってから不登校を貫いている身としては至極当たり前のことだ。
「……結衣」
『どうしたの? お兄ちゃん』
ふと、聞きなじみのある甘ったるい声が鼓膜を撫でるもんだから、勢い余って首の筋が違えるくらいのスピードで振り返った。
「……お、お前は」
『ほらお兄ちゃん、はやく一緒にデートしようよ』
「あ、ああ……!」
そう言って俺は、妹に手を伸ばす。
でも、どこまで手を伸ばしても、彼女の身体に触れることは出来なかった。
『……ごめんね。デート自体はできるけど、いまのお兄ちゃんは私に触れることは出来ないの』
「な、なんでだよ……! こんなに近くにいるのに……!」
まあ、触れることが出来ないのは当たり前だろう。だって彼女は、自分が作り出した妄想に過ぎない――
「うるさい! お前は黙ってろ! ああクソっ、どうして触れないんだ!」
何とかして妹の温もりをこの手で感じるべく、狂ったように手でもがき続ける。
それと同時に脳裏では、どうして触れることが出来ないのか、薄々ではあるが答えにたどり着こうとしていた。
――いまだに、認められないから。
――1年たっても、昔のままだから。
――なんにも、成長してないから。
「結衣が……結衣がこんなに近くにいるのに……なんでだよ……」
『お兄ちゃん』
「……なんだ」
『私は、お兄ちゃんと一緒にデートができるだけで嬉しいよ』
――妹の存在も、このセリフも、全部自分が創作したものだって分かってるから。
だから、俺はこんなことを繰り返してしまうのだろう。
「違う! 妹は創作物なんかじゃない! 生きてるんだよ! 今ここに!」
もがいて、もがいて、もがいて、もがいて、もがいて、もがいて、もがいて、もがいて、もがいて、もがいて。
やっと、その手をつかんだ。
「――っ⁉」
刹那、俺の視界から玄関や廊下や妹の姿がことごとく消え失せる。
テレビの電源を切ったように、プツリとすべてが無くなる。
内臓が浮くような感覚とともに、下方からものすごい風が吹き荒れた。
『もう私のことはいいから……お兄ちゃんは、お兄ちゃんの人生を歩んで』
風を切る音のなかに、微かだけれど妹の声が聞こえる。
もうその声の真偽を考える余裕など残っていない俺は、藁にもすがる気持ちでそれを追った。
もう少し自分が冷静沈着で居られたなら、こんなことにはならなかった。すっぱりと諦めればいいことに無理やり引っ付いて、自ら傷をえぐることもなかったのだ。
……すべて、俺のせいだ。
「でも……こんなところで諦められるか……!」
毒を食らわば皿まで。こうなったらいっそ最後まで。
このどうしようもないくらいに往生際の悪い性格を、貫いてやる――!
◆
いつの間にか、半身が濡れていた。
普通だったら濡れた服を着ていれば多少の気持ち悪さを感じるけれど、今だけはそんな感情も湧かなかった。
濡れた頭を左右に振って、そのままあたりを見渡してみる。
目に飛び込んできたのは、どこまでも続く青い海。しかも少しツンとした塩の香りがするところから察するに、海は海でも死海だろう。
ゆらゆらして光を反射して、まるで南国を思わせるかのような透明度を誇っている。
俺はそんな広大な死海のど真ん中で寝ていたらしい。いくら普段寝相が悪くたって流石に海上で寝ていて気付かないのはヤバいだろう。
「ぁ……」
とりあえず自分の寝相を論じるのはまた今度にしておき、なんとなく空を見上げた。
オレンジのグラデーションがかかった天空には、今にも沈もうとしている夕日がそっと俺を照らしながら鎮座している。
その光に目を細めると、遠くの方にひとつの影が動くのを見かけた。
「――っ、結衣!」
ここが海であることも忘れて、慣れないクロールをしながら動いた影を追いかける。口や鼻に塩分過多の海水が入りこむが、構わず泳ぎ続ける。
だんだん影は大きくなり、さっきまでは逆光で黒く映っていた顔や体が見えるようになった。
「お兄ちゃん……!」
「結衣……結衣、会いたかった」
塩辛さにむせながら、互いにむせび泣く。
このしょっぱさは死海のものだろうか。それとも流した涙のものだろうか。
それが分からなくなるくらいに泣いて、泣き喚いて、心を落ち着かせる。
「俺……ずっとお前に伝えたいことがあったんだ」
そうやって切り出すと、結衣も目じりの涙を拭っていつもの穏やかな目つきでこちらを捉えた。
「奇遇だね、私もお兄ちゃんに伝えたいことがあったの」
広大な海のど真ん中で、お互いびしょ濡れになりながら、抱きつきながら、頬を赤く紅潮させながら、口を開く。
「――――、――――」
「――――っ!」
思いっきり海水を飲みながら、なんとか言葉を紡いでいく。それは向こうも同じようで、思いの丈を吐き出している途中で何回かむせていた。
結衣は最後まで言い切ると、後ろで燦然と輝く夕日にも負けず劣らずのまぶしい笑顔を見せる。
――そうだ。俺はこの笑顔が見たかったんだ。
これでもう、何の未練もない。
そう思った次の瞬間、俺と結衣は太陽の陽光にのまれて消えた。
海底からたくましく枝を伸ばし、可憐に咲き誇った桜を残して。
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