第26話 僕は邪魔者?

 奏佑そうすけを迎えに来る? なぜ? どうして? 僕が混乱していると、げんは続けた。


「今日のあいつの演奏を聴いて、俺は確信したよ。あいつは絶対にこれから世界をるピアニストになる。世界を飛び回ってリサイタルを開き、世界中のオケと共演し、そんな日本を飛び越えたピアニストになるはずだ。そのためには、こんな場所にいてはいけないんだ。こんな地方の普通高校なんかに通っている場合じゃない。ちゃんとした音楽高校で勉強しなかったら、あいつの才能が潰される」


 僕は何も言い返せなかった。弦哉の言うことは、実に真っ当な意見だった。プロのピアニストは一日八時間もピアノに向かう。高校生の僕だって、家に帰ってから四時間は最低ピアノの練習に時間を費やしているのだ。芸大付属高校ならば、もっとピアノを弾く環境だって揃っているだろうし、周囲の生徒や教師を含め、せったくできる仲間や十分なサポート体制があるはずだ。普通の県立高校に通うのとは段違いだろう。でも、それは奏佑と離れ離れにならなければならないことを意味していた。だが、弦哉の要求はそれだけにとどまらなかった。


「それに、りつ。お前にも頼みがあるんだ。奏佑と別れてくれ」


「別れてくれ」。その一言に僕は後頭部を殴られたような衝撃を受けた。


「お前もわかるだろ? 今の奏佑が恋愛にうつつを抜かしている場合じゃないってことくらい。あいつはピアノだけを見るべきだ。恋なんて下らないものに夢中になって、これ以上調子を落とすようなことがあってはならない。あいつのオーケストラやらオペラ好きも、俺が責任をもってやめさせる。あんな一文の得にもならないことに時間を費やすなんて、あいつらしくもない。だから、いいな? 奏佑から手を引けよ」


 この理由には、さすがに僕は同意出来なかった。


「待ってください!」


と、僕は叫んだ。


「奏佑は全国で一位になったじゃないですか。調子なんて落としてないですよ」


「確かに本選では、あいつはいつもの調子を取り戻したよ。でも、予選の時はあいつらしさを欠いた乱れた演奏だった。その理由は簡単だ。律、きみのことなんかに心を乱されていたからだ」


「それは……」


「違うと主張するつもりか?」


 僕は何も答えることができなかった。確かに奏佑の心をコンクールの予選で乱したのはこの僕だからだ。黙ったままの僕に対し、弦哉は見下したようにこう言い放った。


「だいたい、お前のピアノの実力なんてどんなものなんだ? 奏佑は、お前とは地区大会で出会ったって言ったよな。でも、全国大会にお前の名前はなかった。どうせ、地区大会止まりだったんだろ? ピアノの世界なんてな、コンクールで優勝しても消えていくやつなんてわんさかいる世界だ。全国大会にすら出たことのないやつに何がわかる。どうせ、適当にこのクソ田舎でお遊び程度にピアノのしていたんだろ? そんなやつが、奏佑の彼氏だ? 笑わせるな!」


 これには、僕も思わず逆上した。


「僕は遊びでピアノをやったことなんて一度もない。僕だって、今までずっと友達だって一人も作らなかった。ずっとずっとピアノだけ見て来た。これでも本気でやって来たんだよ!」


「それで、地区大会止まりなんだったら、才能ないってことじゃん。もう、諦めなよ、ピアニストなんて目指すの」


 弦哉の言葉がグサグサ心に刺さる。


「……そうかもしれない。僕はもうピアニストに向いていないのかもしれない……。でも、でも、奏佑は僕にとって大切な存在なんだ。だから、別れるなんて嫌だ」


「じゃあ、お前が奏佑のキャリアをぶち壊すことになるんだ。その責任を全部取るつもりで奏佑と付き合うんだな。俺はとりあえず、奏佑を連れて東京に帰る。どうせ、お前らの関係なんか終りだろ? 東京まで毎週会いに来るだけの金、お前持ってるのか? 普通に考えたらこのまま自然消滅だよな。それならそっちの方がありがたいわ。俺がお前に別れろとか迫る必要もなくなるわけだ」


 僕が奏佑のキャリアをぶち壊す……。僕のせいで奏佑の未来が? そんな……。僕は目の前が真っ暗になった。


 その時だ。


「お待たせ―! いやー、本当、ファン対応って大変だな。ピアノ弾くよりサインする方が疲れた」


と、そこに奏佑が帰って来た。なんと最悪のタイミングだろう。僕は動揺を隠すように、無理矢理笑顔を作って振り返った。


「奏佑、お疲れ」


「お、サンキュー、律。これから三人で飯でも行こうぜ」


「ごめん……。今日は家の用事があるんだ……。じゃあ、またね、奏佑」


 僕はそれだけ絞り出すと、楽屋から駆け出した。


「おい! 律! 何で急に帰るんだよ! 律! 律!!」


 奏佑の声が後ろから追って来る。僕は何度も立ち止まりそうになりながら、その奏佑の声を振り切るように走り続けた。外はいつの間にか土砂降りの雨になっていた。僕は雨の中を構わず走り続けた。雨なのか涙なのか、頬を何滴もの水滴がこぼれ落ちていった。


 僕はびしょ濡れで家に帰りついた。せっかく洋服ダンスの奥から引っ張り出したいっちょうはすっかりだめになってしまっていた。僕が濡れねずみになって帰ってきたことを母さんはひどく心配し、その理由を尋ねた。しかし、僕は何も答えなかった。


 僕はどうすればいいのかわからなかったのだ。奏佑とは別れたくない。でも、僕のせいで奏佑のキャリアがぶち壊すなんてことは絶対にしたくない。二つの相反する想いが僕の中で複雑に絡み合っていた。

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