第4話 愛とは?

 僕は奏佑の隣に座り、一緒に星空を眺めていた。だが、さっきまで一人で星空を見上げていた時のように、星空の美しさに心を奪われる余裕をなくしていた。どうしても、隣で同じく星空を見上げている奏佑のことが気になって仕方がない。チラチラ奏佑の方を見ては、落ち着かない気分で何度も座り直した。今日の僕はどうかしてしまっているようだ。


「律は、音楽好き?」


奏佑がいきなりそんなことを尋ねるので、僕は上ずってしまった。


「い、いきなり何?」


「音楽が好きかって、聞いてるんだ」


そんなこと急に言われても・・・。奏佑は澄んだ瞳で僕をすっと見つめて来る。僕は言い様のない居心地の悪さを覚えた。


 僕は幼少期からずっとピアノを弾いて来た。それは、音楽が好きだから。だから、ピアノをやって来たんじゃないのか。いや、どうなんだろう? 僕にとって音楽って一体・・・。


「・・・好きに決まってるでしょ。ピアノやってるんだから。何で急にそんなこと聞くんだよ?」


僕は奏佑の真っ直ぐな目を見ていられず、目線を逸らせた。


「律の『愛の夢』の演奏、思い出したんだ。ミスしないように速く弾き切ろうという印象だけが残った。音楽を音楽として演奏しているようには見えなかったよ。何も伝わって来るものがなかったんだ」


奏佑はそう僕の演奏について辛口な評価を下した。


 は? いきなり他人の演奏の悪口ですか。それもそうか。全国大会のファイナリストと、地区大会すら突破できない僕。実力差は明白だ。彩佳をずっと自分より下の存在だと僕は見下して来たのだ。奏佑が格下の僕を見下すのも当たり前のことだろう。僕は唇を噛みしめた。


「そっか。どうせ、僕は下手だからね。仕方ないよ。奏佑みたいに才能ないからさ」


すっかりいじけて草むらに身を投げ出した僕を、奏佑は再び真っ直ぐな澄んだ瞳で見つめた。


「な、なんだよ。そんなに見て来るなって」


僕は気まずくなり、奏佑とは反対の方向へ寝返りを打った。すると、


「律、君は誰かを本気で愛したことある?」


と奏佑は僕にいきなりそんなことを聞いた。僕はこの質問にひどく動揺した。


「は? 何、それ。ないよ、そんなこと。恋とかそういうの、僕興味ないから。恋なんてしていたら時間の無駄になるだろ。その間にピアノを弾いていた方がいい」


そう答える僕の声はもしかしたら少し震えていたかもしれない。


「そうかなぁ? リストが最初に『愛の夢』を作曲した時、ピアノ曲じゃなくて歌曲として作曲されたんだ。詩のタイトルは、Oオー liebリープ soゾー langラング duドゥー liebenリーベン kannstカンストゥ。つまり、「おお、愛しうる限り愛せ」という意味。いつか、恋人とはどんな形であれ別れが来る。それは、普通の別れかもしれないし、もしかしたら死に別れかもしれない。だから、その別れが来る前に、好きな人をとことん愛しつくせって歌詞なんだ」


奏佑はいきなりドイツ語の詩のタイトルを綺麗な発音で言ってのけた。しかも、ここまで曲の背景の知識が豊富にあるとか、こいつ、一体何者だ?


「へえ、知らなかった」


「この曲を作った時、リストは恋人と失恋したんだ。その傷心を引きずってこの曲を書いた。作曲家も俺たちと同じ人間だからさ。同じように恋をして悩んで苦しんで、その先に曲があるんだ。シューマンの『女の愛と生涯』って歌曲知ってる? 一人の女が愛する男と出会って結婚し、最後に死に別れるまでの人生を八曲の歌で紡いでいくんだ。音楽はね、ある意味、人生そのものなんだよ。その人生の中で一番大きなもの。それは愛なんだ」


「あはは、なんかポエムみたいだね」


僕は奏佑のきざなセリフに思わず笑い出した。だが、奏佑は至って真剣だった。


「もし、律が本気で音楽を志そうと思うんだったら、もっとちゃんと誰かを愛することを学ぶべきだ。何を作曲家がその曲に込めたのか、もっと真剣に向き合うべきだ。そうすれば、律、きっと君はもっと素晴らしい演奏ができるようになる。確かな技術力はあるんだから」


なんだよ。散々ディスっておいて、最後に持ち上げるとかずるいだろ・・・。それに、僕はなぜここまで動揺しているんだろう。「愛」についてなど語られても、今までの人生で僕は一度たりとて心を動かされたことはなかったのに。


「ああ、えっと、そろそろ僕、帰らなきゃ。帰るの遅くなるし。じゃあ、全国大会頑張ってね」


僕は奏佑にそう早口で告げると、逃げるように駆け出した。このまま奏佑と一緒にいると、僕の中の何かがおかしくなりそうだった。


なぜ、僕はこんなにドキドキしているのだろう。

なぜ、僕の心はこんなに乱れているのだろう。

なぜ、僕は、こんなに切ない気持ちになっているのだろう。

なぜ、なぜ、なぜ?


 こんな気持ちになったのは生まれて初めてだ。この感覚は一体何なのだ。僕は一体どうしてしまったというのだろう。さっきまで全国大会へ進めなかった悔しさでいっぱいだった僕は、今ではすっかりその悔しさを忘れ、ひたすら奏佑の姿が脳裏に焼き付いて離れない。誰かを愛するだって。そんなバカバカしいこと。なんであんなきざなセリフに、あんな気取ったやつに僕はこんなに心を乱されているんだ。


__________



 家に帰った僕は、部屋に閉じこもり、布団をかぶってずっと奏佑との出来事を心の中で思い返していた。美しい星空。月の光に照らされた奏佑の横顔。甘美でとろけてしまいそうなピアノの音色。何度忘れようとしても忘れることができない彼の面影が僕の心を去来する。


 僕はその溢れ出しそうな気持ちを抱えきれなくなり、ピアノに向かった。『愛の夢』をその気持ちに任せて弾きだした。その時、僕は今まで味わったことのない感覚を味わった。いつもは鍵盤に向かうことに必死で、自分の音などよく聴いたことなどなかったのに、この時は、ピアノの音色が僕の耳から脳へとダイレクトに響いて来た。『愛の夢』ってこんなに綺麗な曲だったっけ。


 そういえば、僕は恰好いい曲ばかりが好きで、テンポの速く技巧的に難しい曲にずっと心を魅かれていたのだ。だから、旋律の美しさなど、意識したこともなかったのだ。


 そんな僕が、今はそのピアノの美しい音色に心が満たされていくのを覚えた。その美しさとともに、奏佑の演奏を聴いた時に感じたあのなんともいえない寂寥感で胸がいっぱいになった。いつしか、僕は涙を流しながらピアノを弾いていた。


 あれ、僕はなんで泣いているんだろう。『愛の夢』の本当の美しさを知ったからなのか? でも、なぜ美しいというだけで涙が出るのだろう。それに、なぜこんなにも僕は切なくて仕方がないのだろう。


「奏佑・・・」


僕は不意にその名前が口をついて出た。奏佑。君は一体なんなんだ? 僕にとってのなんなんだ? 君は、僕に友達になろうと言ったね。僕は彼の申し出を受け入れて友達になった。でも、この感情は果たして友達に持つものなのだろうか。友達ができると、これほどまでに心が乱れ、痛くなるものなのだろうか。

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