第2話 ドルチェな感覚
僕がホールの入り口から中に入ると、ピアノの福崎先生が僕に向かって手を振っているのが見えた。演奏が終わってからずっと僕を探していたようだ。
「
福崎先生は息を切らせながら僕の方へ走って来た。
「すみません。ちょっと外の空気を吸いに行っていたもので」
僕はそう言って頭を下げた。
「今日の演奏、頑張ったわね」
福崎先生は僕の背中を軽くポンと叩いた。
「ありがとうございます。やれることは全部やりました。絶対全国行きます」
そんな自信満々な様子の僕に福崎先生の表情が少し曇った。
「そうね。行けるといいけれど・・・」
なに? この人は、あれだけの演奏をしてもダメだって言いたいのか。僕は少し不愉快な気分になった。
「行けますよ。だって、ずっと練習頑張って来たんですから」
「でもね、霧島くん、今日のコンクールには凄い実力者が出ているのよ。
その福崎先生の言葉に、僕は一瞬怯んだ。でも、そいつに勝たなくても、上位に入賞できれば全国への切符をつかめるはずだ。
「その人はどうか知らないですけど、僕は他の人よりはできていたと思います」
飽くまでも僕はそう主張した。
去年、この地区大会で初めて本選に進出しながら、全国への切符を逃した。後一歩で全国へ届かない。初めて本選に出場した喜びよりも、全国大会へ行けなかったことへの悔しさばかりが残った。それからこの一年間、この日のために捧げてきたのだ。学校が終わってから、ずっとピアノに向かい、他のすべてを犠牲にしてきたのだ。ここで敗退するなどありえないし、僕のプライドが許さない。
「もう少し、あなたは周囲を見た方がいいわ。あなたが頑張って来たのはよく理解している。でも、もう少し客観的に自分の演奏を捉えてごらんなさい。あなたの演奏は、技術的な面では成長をどんどんしているけれど、表現面はまだまだ稚拙よ。特に、今日のリストはまだまだこれからね」
リスト・・・。あの『愛の夢』なんてくだらない曲が課題曲になっているばかりに、こんな評価をされたのだ。僕は苦々しい気持ちになった。だが、審査をするのは福崎先生ではない。審査員だ。福崎先生がこんな低い評価をしようが、あれだけ速いパッセージを一気に弾き切った僕の技術力に、審査員はもっと高評価をくれるはずだ。
僕はそう自分に言い聞かせ、ホールの中に戻った。ホール後方の席に陣取り、息を一息つく。福崎先生もなんだよ。コンクール終わった後くらい、もっとよかった所を言ってくれてもいいじゃないか。表現が稚拙? そんなもの、すぐにつけてやるよ。技術さえ上がれば表現なんていくらでも後からついて来るものだろう。
僕は演奏そっちのけで福崎先生に心の中で悪態をついていた。そんな中、「津々見奏佑くん」という名前が司会によってアナウンスされた。あいつか。その全国大会ファイナリストってやつは。僕はどの程度のものか聴いてやろうと、挑戦的な気持ちでその津々見奏佑がステージ上に現れるのを待ち構えた。
だが、津々見奏佑という人物がステージ上に現れた瞬間、僕のそんな挑戦的な気持ちはどこかに吹き飛んでいた。長身で爽やかな出で立ち。澄んだ目付。優しく微笑むような口元。このコンクールという場において、微笑を浮かべていた。なんてやつだ。コンクールの演奏前なんて極度の緊張感から、僕などいつも無表情そのものだというのに。何も緊張していないというのか。僕は彼から目が離せなくなっていた。
彼が静かにピアノを弾き始める。課題曲となっているリストの『愛の夢』。彼は、しなやかな指捌きでまるで流れるかのように音を紡いでいく。ステージを明るく照らす照明のせいなのか、ピアノを弾く彼の姿がまるで輝いているように見えた。こんな美しい光景を僕は見たことがなかった。ピアノの音ってこんなに綺麗だったっけ。僕は思った。まるで、ピアノの一つ一つの音が輝きを放つようにきらめいては消えていく。甘美な音色というのは、こういうもののことをいうのか・・・。
僕はその音の波にただ身を委ねていた。クライマックスとなる曲の再現部から後半の部分。その甘美な音色がますます高まっていく。それと同時に、言いようのない切なさを僕は覚えた。これは一体何だ。こんな感覚、今まで音楽を聴いていて感じたことなどなかった。『愛の夢』の楽譜に記された冒頭のdolche cantando (ドルチェ・カンタンド)、つまり優美に歌うようにという指示はこういうことなのか。僕は初めてその意味が腑に落ちる気がした。
彼の演奏が終わる頃には、僕はすっかり魂が抜かれたように呆然として座っていた。奏佑は微笑をたたえたまま、客席に一礼するとステージを降りて行った。客席の拍手がどこか、遠いところから響いているような気がする。津々見奏佑とは一体何者なんだ。あいつは一体・・・。
僕は思わず客席から飛び上がるように立ち上がるとホールを飛び出した。舞台裏に駆け込むと、演奏を終えた奏佑が颯爽とこちらへ歩いて来るのが見えた。僕の心臓の鼓動が速くなる。奏佑は僕に一瞥を加えることもなく、僕の横を颯爽と通りすぎていった。僕は彼の方を振り返った。彼は大勢のファンに囲まれていた。コンクールの出場者でさえ、彼の元へ駆け寄る者が何人もいた。彼のあの甘いマスクとピアノの音に魅かれる女子は多いのだろう。
僕はそんな女の子たちにキャーキャー言われる奏佑を見て、無性に腹が立った。なんだ、あいつ。あんなに女の子に囲まれて。あいつ、女の子にああやってちやほやされるためにピアノやってたのか。しょうもないやつ。僕は目一杯の悪態を心の中でつぶやいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます