第1話「ゆるだら令嬢と甘やか執事」
――話は、ルーネお嬢様が魔王に即位する一カ月ほど前……僕たちがまだ
「失礼します、お嬢様」
「んあー?」
僕が急用でお嬢様の自室に入ると、彼女はいつものように幼女の体――いわゆる、“省エネモード”でゆるだらしていた。
今日はベッドの上で寝転がりながら、本――大衆向けの小説を読んでいたようだ。
お嬢様が読む本といえば、大抵それ。
ジャンルは冒険モノ、ギャグ、ラブコメなど、とにかく楽しい話がお好みだった。
「あ、ちょうどいいや、フィリー。喉かわいたから、マコーラのおかわり持ってきてー。うんと冷えたやつ、おねがいねー」
僕を一瞥するや、足をぶらぶらさせながら、好物の飲み物を要求するお嬢様。
学校教育もすでに修了していた彼女は、一日の大半をこの部屋で過ごしていた。
なにも用事がない時は、朝起きてから夜の入浴まで、ずっと同じパジャマで過ごすことも珍しくない。
今日も朝からずっとパジャマ姿で、ベッドの上からほとんど動いていなかった。
まぁ、それに対して、僕がうるさく言うことはない。
ミニワンピース型のピンクのパジャマを着たお嬢様は、じつにキュートだった。
うん、可愛い! 丸一日見ていられる!
彼女の要求に対しても、いつもなら秒で了解し、一分でつめたいマコーラをお持ちしていただろう。
……けど、僕は胸の痛みに顔を歪ませ、俯きざまに首を横に振った。
「申しわけありません、お嬢様……それにはお応えできません」
「ふぁ?」
僕の予想外の返事に、お嬢様は茫然と固まる。
僕がお嬢様の要求を拒否するなんて、一部の例外を除いて、めったにあることじゃないからだ。
つまり、今回はその例外が生じたのである。
「――お嬢様、旦那様がお戻りになりました。とり急ぎ、ご支度を」
「パパが……!?」
僕がそう告げるや、お嬢様はたちまち顔を凍らせた。
それはまさしく緊急事態。ベッドの上で寝転がっている場合ではない。
お嬢様はたちまち寝そべっていた体を起こし、豪快にパジャマを脱ぎ捨て……
――おっと、これ以上見ているのはさすがにまずい。
「では、僕はドアの前でお待ちしています。メルベル、あとは頼んだ」
「はいは~い、お任せあれ~!」
僕の要請に、お嬢さまの傍に控えていた大きなポニーテール頭のメイドが元気に応える。
いくら僕がお嬢様大好き執事とはいえ、異性である以上、身の回りのすべてをお世話することはかなわない。
着替えや入浴、身だしなみなどの世話は、僕とともにお嬢様に仕えるこの屋敷のメイド、メルベルが担当していた。
彼女にお嬢様を任せて、僕はドアの前で待機。
ドア越しに聞こえてくる、どったんばったんと慌ただしい喧噪を耳にしながら、お嬢様が出て来るのを待った。
◆
それからしばし経て僕は、こぎれいなドレスに着替えてすっかり見違えたルーネお嬢様を連れて、屋敷のリビングを訪れる。
「お待たせしました、旦那様……お嬢様をお連れしました」
そこのソファーに腰を掛けた、端正な顔立ちの壮年の男性。
こけた頬と乾いた白肌から万年疲れているというような印象を受けるこの方が、お嬢様の父上にして
旦那様と対面するや、僕の横から一歩踏み出すお嬢様。
「お帰りなさいませ、お父様……このルーネ、お父様とお会いできるのを心待ちにしておりました」
そして、身に纏った美麗なドレスのスカートを持ち上げ、華麗に会釈した。
その仕草、それに外見も、さっきまで部屋でゆるだらしていた幼女ではない。
手足はすらりと伸び、可憐ながらも魅惑的に成長した体系の美しき令嬢……これが、本来のお嬢様の姿なのだ。
肉親さえ息を呑むほどの美しき娘に、旦那様は一瞬気後れしたように目を見開いたのも束の間、それから微笑みかけ、親愛の証として愛娘と抱擁を交わす。
「久しぶりだね、ルーネ……しばらく見ぬ間にまた美しくなった」
「そんな、お父様ったら……でも、お父様はまた前よりやつれたのでは? ちゃんと食べていますか? 相変わらず、お仕事が忙しいようで……」
「はっは、大丈夫。無理はしていないよ……それより、また長く家を空けていてすまなかった。ルーネこそ、ちゃんと食べているかい? なにか困っていることは?」
「私こそ、全然大丈夫です。フィリエルやメルベルたちのおかげで、毎日不自由なく暮らせていますわ」
「そうか……ご苦労だったね、フィリエル。引き続き、ルーネをよろしく頼む」
「承知しました、旦那様」
娘に対する朗らかな顔に芯を通したように、毅然とした表情を向ける旦那様に、僕は姿勢を正して頷いた。
この会話からわかるとおり、旦那様はめったにこの屋敷には戻られない。
今日はじつに、一カ月ぶりのご帰宅だ。
旦那様は日々、領の統治のため住民の取りまとめや他領主との会合に奔走し、ほとんどの時間この領の領事館で缶詰めになっている。
奥方……つまり、お嬢様の母上は彼女が生まれて間もなく、ご病気で亡くなられたとのこと。
ほかに兄弟はなく、幼い頃から今に至るまで、お嬢様はこの広い屋敷でほとんどの時間を僕やメルベルたち数人の使用人とだけ過ごしてきたのだ。
生活用品の補充などは領事館で旦那様を直接お世話している使用人がしているため、骨休めか特別な事情がないかぎり、ご本人がこちらに姿を見せることはなかった。
つまり……
「さて、ルーネ……今日は大事な話があって来たんだ。こっちに座っておくれ」
「……はい」
ひととおりの挨拶を済ませると、旦那様はふたたびソファに腰かけ、向かいの席にお嬢様を促す。
お嬢様はすべてを察したように小さく頷き、旦那様の向かいのソファーに腰を下ろした。
……その一瞬、お嬢様の表情に少しだけ陰りが見えた。
僕くらい毎日彼女を観察している一級の使用人でなければ気づかないくらい微々たるものだが、そのわずかな変化がお嬢様の胸のうちを如実に表していた。
「――ルーネ。さっそくだが、ユーリオ=ザルツハイベン様のことは知っているかな?」
「ええ……たしか、先日ご
「さすがルーネ、よく知っている。そのとおりだ」
旦那様の言葉に、お嬢様は謙遜するように微笑みを浮かべるばかりだが、その心の中では「むふー」と得意げに鼻を鳴らしているのが目に見えた。
お嬢様はもともと聡明な方だ。
すっかり堕落された今も、いや、堕落されたからこそ体面を維持するため、前以上にご勤勉であらせられるのだ。
「そのユーリオ様が、魔王即位を祝って、今夜ご自宅の屋敷でパーティーを開くそうだ。私は無論、招待されているが、それにきみも出席してほしい」
「はぁ……」
「そこで、ユーリオ様にきみを紹介するつもりだ。その時は、どうかユーリオ様に覚えを良くしてもらえるよう、愛想よく振る舞ってもらいたい。いいね?」
(なるほど……)
と、僕は心の中で頷く。
要は、お嬢様の美貌で次期魔王様の気を引き、彼に渡りをつけてヴィリジオ家発展のため便宜を図ってもらおうというハラだろう。
旦那様には雇ってもらった恩があるしそれなりに敬意もあるが、こういう政略に
ま、本人には口が裂けても言えないけど……
そして、領主家の長女である以上、お嬢様にそれを断ることはできない。
お嬢様はかすかに
「わかりました、お父様……お父様のため、そして名誉あるヴィリジオ家のため、このルーネ、尽くさせてもらいます」
「うむ、苦労を掛けることになるが、よろしく頼む」
「では、私は先に失礼させていただきます。次期魔王様にお会いするのだもの、いつもより手間を掛けておしゃれしなきゃ……お父様、また後で」
「ああ、今度時間ができたらまたゆっくり話そう」
そんな月並みなやりとりを最後に、お嬢様はぺこりとお辞儀。あくまで優雅な足取りで、自室へ去っていった。
◆
お嬢様が退席して間もなくお帰りになった旦那様をお見送りした後、僕はさっそくお嬢様の様子を見るべく部屋を訪ねた。
「ふへぇ~、パパの相手は疲れるな~」
そのお嬢さまは幼女の姿に戻り、ふたたびベッドで寝転がっていた。
さっき着替えたばかりの服も脱ぎ捨て、ぶかぶかのインナードレス姿のままだらけていたのである。
「お疲れ様でした、お嬢様。さきほどご要望なされた、つめたいマコーラをどうぞ」
「わーい! サンキュー、フィリー!」
グラスを乗せたトレイを手に、僕はお嬢さまを労う。
……そう、さきほど旦那様に見せていた、おしとやかでやたら聞き分けのいい令嬢の姿は世をあざむくための偽りの姿に過ぎない。
お嬢様にとって、こうしてだらけていられる怠惰な時間こそが至高。
もし、旦那様や世間に知られれば、そんな至福の時間が奪われてしまう。
だから、お嬢様はこのかけがえのない空間を守るため、旦那様の前や外では誰もが認める理想の令嬢を演じ、真実の姿を隠しとおしているのだ。
「ところで、お嬢様。さきほどの旦那様のお話ですが……」
「あー、パーティーねー。はぁー、めんどくせー……行きたくないなぁ」
ごきゅごきゅとあっという間にグラスを空にすると、憂鬱げにベッドに顔を埋めるお嬢様。
旦那様がわざわざ時間を取ってお嬢様にお会いになるのは、ほとんどがこうした政略目的の社交界への誘いのためだ。
お嬢様は、誰もがうらやむ麗しき美貌の持ち主。旦那様はそれを利用して方々の権力者の気を引き、自分の利益とすることにご執心だった。
そうなると当然、お嬢様にはつねに悪い虫がつくリスクがつきまとう。
だから、僕はお嬢さまと接近する可能性のある権力者たちのことをあらかじめ調べ、問題があればお嬢様に近づかないよう裏で手を回すようなこともしてきた。
もちろん、お嬢様にも内緒で……
このフィリエル、いかなる困難や外敵からでも主を守るべく、家事全般をはじめとしたあらゆるスキルを身につけている。
諜報活動もそのひとつだ。
……けど、今回の相手は次期魔王候補という超大物。
いずれこのような話が来るだろうと以前からユーリオ様を調べていたものの、ガードが堅すぎてさすがの僕も深いところまで調査することができなかった。
「お嬢様、今回ばかりはどうぞご用心ください。くれぐれも、妙な誘いには引っかからないように」
「んー、でもユーリオさまって噂じゃかなり紳士で好青年って話じゃん? だいじょぶだいじょぶ、フィリーが言うようなことにはならないってー」
僕の憂いをよそに、お嬢様はひらひらと手を振って、気楽に振る舞う。
「……だから、心配なんですよ」
そんな彼女に聞こえないよう、僕はぽつりとつぶやいた。
たしかに、表面的な調査ではユーリオ様に後ろ暗い部分はなく、人格的にかなり優れた人物とされている。
でも、あまりに人物評が綺麗すぎる……それが、僕の不安をかきたてていた。
表が完璧すぎるほど、そこには絶対に相反する裏がある。
そのことを僕は重々承知していた。
……だって、その最たる例が、今僕の目の前にいるんだもの。
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