プロローグ
菜緒の父の取り計らいにより、渚の転院が決まったのはあの決死の懇願から一月経った日のことだった。
渚の両親と、ウチの両親と、至る方面への説明を終えて予断は許さない状況だが、一先ず俺は一つ安堵していた。
渚には件の転院の件は一番に伝えた。
彼女は戸惑いながらも、今度から俺と会うのが容易になると微笑んでくれた。
渚の両親付き添いの元、転院の日、渚は車に乗って東京へとやってきた。
病院で待ち合わせした俺達は、手短に入院の手続き、住み込みのための準備を終えた。渚は初日から病院食を食べるようだったので、彼女の両親に誘われるがままに俺達は三人で院内のレストランで昼食を頂いた。
「……すみませんでした。勝手な真似をして」
注文を終えて、張っていた気を二人が解いたタイミングで、ようやく決心が付いた俺は頭を下げた。
激情に浮かされるまま、渚を東京の病院に転院させた。母付き添いの元二人には今回の件を説明していたが、こうして一人で謝罪をしたことはまだなかった。
謝罪をするべきだと思った。
たかが恋人の分際で、今回の俺は相当出すぎた真似をした。謝罪も、一つの責任だと思っていた。
「何言ってるのよ、宗太君」
「そうだよ、少しでも娘が長生き出来るなら……それ以上の願い、ないじゃないか」
優しい言葉に、涙が零れそうだった。
でも、泣いてはいけないと思った。それは甘えだ。覚悟を決めた今、全ての責任を取るつもりで俺はいる。それは……苦境に立たされた時に泣くことではきっとない。
昼食を取って、部屋に戻ると渚は既に眠っていた。
「お二人は座っていてください」
下にあるコンビニで何かを買って来ようと思った。
「いや、今日はもう帰るよ」
「え?」
「二人の邪魔したら、悪いからね」
「……ありがとうございます」
丁寧に頭を下げて、二人を見送った。
一通りの挨拶も済んで、俺は病室に戻ってベッド横のパイプ椅子に腰かけた。
安らかに眠っていた。
まるで死んでしまったのかと思うくらい、安らかに眠っていた。
渚の頬に触れた。温かくて、安心した。
「……宗太?」
「ごめん。起こした?」
「うん。大丈夫。……どうかした?」
……どうかした、か。
「生きてるなって……」
「……死んでて欲しかった?」
「そんなはずないだろ」
むしろ、ずっと……いつまでも。
そのために、ここに渚を呼びつけた。三パーセントなのか一パーセントなのか。そんな微かな数字でも可能性を上げるために、ここに連れてきたんだ。
彼女にとっては辛いことだったかもしれない。
故郷を離れての闘病生活は、心が挫けることもあるかもしれない。
支えないと、いけないんだ。
俺が……。
「……ここから一番近い神社はどこ?」
「え?」
「……どこ?」
唐突な問いに、言葉は詰まった。しかし咄嗟に頭の中で地図を引き、なんとなくで導き出した。
「浅草寺、かな」
「ここからなら、日帰りでどこまで行ける?」
「多分、熱海くらいは頑張れば。新幹線もあるし」
「じゃあ、宗太の家まではどのくらい?」
「……三十分」
渚は、優しく微笑んだ。
「じゃあ、早く退院して一緒に巡ろうね」
……不安を感じていた。
菜緒の父に指摘された通り、渚の両親が地元に帰った今、彼女のここでの心の拠り所は俺だけだった。だから彼女に不安な顔は見せられないと、でも堪えきれるかどうかと……ずっと不安だった。
それだけじゃない。
たくさんのことが不安だった。
幸先はずっと……不安だった。
でも、渚の微笑みを見たら全てが飛んでいった。
わかっていたことだった。
彼女と……渚と一緒なら、どんな辛いことだって大丈夫だって、そう思えたんだ。
だから俺には渚が必要なんだ。
生きるため。
愛し合うため。
渚が……。
「好きだよ、渚」
「突然、どうかした?」
「口に出さないとわからないこともある。いつか、君がそう言ったんだ。だから言った。不変の事実に、言ったんだ」
彼女と一緒なら、どんな困難も乗り越えていけるような気がした。どんな辛いこともそうじゃない気がしてきた。
だから……渚とずっと一緒に生きて行こうと誓ったんだ。
全てをかなぐり捨ててでも生きようと。
一分一秒でも永く生きて行こうと。
そう、決めたんだ。
「今度、婚姻届を出しに行こう」
「……そうだね」
だから、彼女と結婚したい。
楽なことばかりじゃないだろう。これまでがそうだったように、辛いことの連続だろう。
でも俺は……もう覚悟を決めたんだ。
大人になり、足掻くことの覚悟を決めたんだ。
渚と二人で、どこまでも……。
暗闇のトンネルに……光が差した気がした。
ただ、結局俺達があの婚姻届を役所に持って行くことはなかった。
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