エピローグ

 父が死んだのは、俺の二十五歳の誕生日の前日だった。季節はまだ十月。例年であれば残暑のせいで暑苦しいくらいの気候だったのに、父の死を天も悲しんでいるのかとても寒い一日となった。

 病院から帰還されて冷たい人形のようになった父を、最期の別れと居間の隣の座敷に敷いた布団の上に寝かせていた。

 

 なんだか不思議な気分だった。実感が湧かなかったんだと思った。大学進学の際に上京し、就職も東京で済ませた。本当は長男だから地元での就職も考えたが、首都一極化の傾向著しいこの時代に地元での就職先を見つけることは困難を極めた。父や母と違い、どういうわけか勉強に苦労したのも、東京で中小を探すしか選択肢を見出せなかった原因の一つだった。

 

 就職して早三年。

 大学時代と違い、滅多なことでは帰省しなくなった影響か、毎度毎度地元へ帰ると景色が少しずつ変わっていることに気が付き、時の流れの早さを実感するばかりだった。

 

 父の最期は見送ることが出来たが、父は日の変わる一時間前に息絶えた。恐らくあんたの誕生日を命日にしたくなかったからだろうと母は苦笑していたが、人という者が自分の生死をそんなことで左右出来るものなのかと疑問は尽きなかった。


 恋人であるエミは、三年前に出会った同じ会社の同期だった。

 気の強い人で頭が上がらなかったが、ある日酒に酔った勢いで告白されてとにかく驚いたことを今でも覚えていた。ただ、しっかり者でお淑やかで、自慢の彼女であった。


 エミは去年、父と母に挨拶するために実家にお邪魔していた。まもなく結婚も視野に入れ始めた頃の今回の訃報に、俺に付き添って地元へわざわざ出向いてくれた。

 エミは広い実家にこれから一人暮らしとなる母を労わり、通夜だとかの準備で慌ただしい家のことを良く手伝ってくれた。


 おかげで通夜も葬式も、父の火葬も順調に終えることが出来た。


 俺は長男だったから、今回父の葬儀の喪主を務めることになった。

 通夜の晩、参列客として集まった人の数を見て思わず目を丸くしてしまった。父はかなりたくさんの人に慕われた男だったんだなと驚嘆させられるばかりだった。


 我ながら拙い振舞いで喪主を務めていたと思った。それでも実の父の冥福を祈り、またその父を見送りに来てくれた方々に感謝を込めて頭を下げ続けた。

 思えば、こうして誰かの通夜に参加する機会も久しい。最後は確か、小さい頃に死んだ祖父の葬儀だっただろう。

 本当に、あの頃の俺はまだ幼くて、喪主を務めた父に手を繋いでもらって見様見真似に頭を下げて、飽きた頃に従妹と一緒に駆けっこに出るという暴挙に出た記憶だけが微かに残っていた。


 あの時からすれば、多少は成長したのかもしれない。

 ただそれは、恐らく五十歩百歩、というやつだったのだろう。




 父の遺品整理を始めたのは、一通りの見送りを終えた翌日。

 有給を取っていたエミが東京に戻り、忌引き休暇が残った俺が時間を持て余したから気晴らしにでもやろうと思ったことがきっかけだった。

 

 父は物欲の少ない人だった。

 小さい頃はあまりお金もなく、その波及は贅沢好きな子供時代の俺にまで至った。

 それでも学校で流行りのゲームとかがあれば俺に買い与えてくれていた辺り、父が個人的に使えたお金はごくわずかだったのだろうと推察された。


 しんみりとした気持ちで、父の遺品を漁っていた。


 漁りながら、ふと思った。

 俺は父という男をどう見ていたのだろう、と。


 ……中学二年くらいだっただろうか、それくらいから俺の反抗期は始まった。父は優しく、母はまだあまり家にいない時期だった。だから浅ましくも当時の俺は付け上がった。

 当時の俺は野球部に所属していた。

 自他共に認める部の主戦力だったが、新品のグローブは買い与えてもらえずよく父に文句を言っていたことを覚えていた。


 父はその度、微笑みながら俺を宥めていた。


 他の部員達は、一年に一回くらいグローブを買い直していた。でも俺は、そうもいかなかった。それが面白くなかった。

 だから父に当たった。

 高校で野球は辞めた。汚いグローブを見た部の先輩に嘲笑われて、恥ずかしさ以外の感情がなかったからだ。


 また、父に当たった。

 父は宥めて、最後に謝罪した。


 情けない親だと思った。どうして俺は他人の家のような暮らしが出来ないのだろうと思った。


 でも今となれば、あの時の父への対応のことで後悔しか残っていなかった。


 父はあの時、家の家事全般を受け持っていた。

 父はあの時、俺に毎月五千円のお小遣いを与えていた。


 父はあの時、毎日母の看病に行っていた。



 そんな父が情けないはずがなかった。

 もし俺が同じ立場なら、恐らくすぐに音を上げていた。

 一人暮らしを経験し、寄り添い生きる人が出来た今、一層俺はそう感じるようになった。


 ……父は。


 小さい頃から、無闇やたらに怒らず、俺が何か問題を起こせばすぐに学校に来てくれて、熱を出せば看病をしてくれた。


 そんな父に……一時でも酷いことをした事実が、悲しかった。

 もし時間が巻き戻るのなら、あの時に戻って父に謝罪したいと思った。


 父の遺品の段ボールの中に、御朱印帳が保管されていた。

 一時母の容体が安定した時には二人でよく神社巡りをし、小さい頃には俺も一緒に連れて行ってもらった。


 父はいつか言っていた。

 最初は趣味でやっていたが、途中からは神頼みのためにやるようになったと。


 あの時の父の顔は少し寂しそうだった。


「……これ」


 父の遺品の段ボールの中に、クリアファイルが入っていた。一枚の紙が、丁寧にその中に保管されていた。

 俺はその紙を広げて、目を丸くした。


「あんた、何してるさ」


 丁度その時、母が部屋に現れた。

 俺は間抜けな声で慌ててそちらを振り返った。


「……何やってるの?」


「父さんの遺品整理」


「……ああ、そういうことね」


 母は、俺の隣に腰を下ろした。


「うわあ、懐かしいー」


 母は最近すっかりしなくなった御朱印帳を眺めて言った。


「お父さんが入院してから、全然だったからさ」


「一人でも行けばよかったじゃないか」


「馬鹿ね。お父さんと一緒に行くことに意味があるの」


「……惚気るな、その年で」


 ……多分、今の俺は感傷に浸りたい気分だったのだろう。

 強がる姿を見せるべきエミがいなくて、気心の知れた母との二人きりの環境に、甘えたのだろう。




「母さん、父さんってどんな人だった?」




「あんたの方が長い時間一緒にいたじゃない」


「……俺、反抗的だったからさ」


「あんた、お父さんに反抗的だったの? ちょっと許せないんだけど」


「いいからっ。教えてくれよ」


 本気で怒っていた母が、気を宥めるようにため息を一つ吐いた。


「……もっと涙もろい人だった」


「え?」


「しきりに涙を流してた。でも色々あって変わったの。自慢の旦那様よ。まあそれは……通夜の景色見てれば、わかったんじゃない?」


 ……父は。


 たくさんの参列客に別れを惜しまれていた。

 たくさんの参列客に焼香をしてもらわれていた。

 たくさんの参列客に泣かれていた。

 



 父は、信頼される人だったのだろう。

 父は、何かあれば周囲に行動をしてもらえる人だったのだろう。

 父は、別れを惜しまれ泣いてもらえる人だったのだろう。


 まさしく、俺の理想とする大人像の、そのものだった。

 

 憧れだったんだ。

 父は、俺の憧れだったんだ。


 憧れ、追いつきたいと思った大人だったんだ。




「……あたしの方が先に死ぬと思ってたんだけどね。見送る立場になってしまった」




 還暦を迎えた母は、父との別れを惜しむように寂しそうに呟いた。


「母さん、これ」


「ん? ……ああ」


「なんで、こんなものが?」


「思い出の品だからよ。それを役所に渡すのも嫌になって、わざわざもう一枚書き直して提出した。そして、お父さんは取っておいてくれたのね。物ぐさな人だったのに、クリアファイルまで買ってさ」


 母は嬉しそうに、されど悲しそうに微笑んだ。


「……どうする?」


「じゃあ、もらう……やっぱいいや。あんたが持ってて」


「え、でも……」


「あたしが死んだら、棺に入れて一緒に燃やして頂戴」


「……父さんと、天国でもまた一緒になる気?」




「ううん。来世でよ」




 そういう母の姿は、皺の増えた老婆間近の人が見せる微笑みにしては……美しく、無邪気で、お淑やかで……嫉妬深い微笑みだった。

 



 俺は手にしていたボールペンの文字が滲みだした古びた婚姻届に目を落とした。




 その婚姻届には、父の名前と母の名前……。







『櫻井宗太』と『神崎渚』の名前が、刻まれていた。

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