エゴイスト

 渚の母と全てを打ち明けあって、ゴールデンウィークが終了するために渋々俺は東京へと帰還することになった。

 帰る前、渚に会いに行った。

 母の運転する車で行ったのだが、母はあたしが行っても野暮だからと駐車場で待つと言ってくれた。


「おはよう、渚」


「あら、宗太。早朝からどうしたの」


 入院三日目。

 渚の顔色は、昨日よりも随分と良くなっているように見えた。……今の彼女が、祖父や親友の父のように冷たくなる様は、イメージが付かなかった。しかしその姿が間近に迫っていることはまぎれもない事実だった。


「どうしたの、そんなに見つめちゃって」


「そんなに見つめてた?」


「うん。恥ずかしくなるくらいにね」


 俺は苦笑した。どうして苦笑しているのかはわからなかった。


「あたしのこと、好き?」


「当然だ」


「嬉しい」


 渚は微笑んでいた。いつものように、微笑んでいた。


「ねえ、宗太?」


「何?」


 渚は返事を中々寄越さず、深刻な顔で俯いていた。


 もう一度声をかけようと思ったタイミングで、渚は棚から一枚の紙を取り出した。

 折り畳まれた、馴染みの紙だった。


「……本気、と思っていいの?」


「勿論」


 婚姻届に一瞬目線を落とし、間髪入れずに俺は言った。


「……本当に、いいの?」


「いいに決まっているだろ」


「……あたしなんかで、いいの?」


「馬鹿を言うな」


 少しだけ、ムッとして俺は続けた。


「君じゃないと駄目に決まっているだろ。嫉妬深くて、からかい屋で、しっかり者の君じゃないと……駄目に決まってるだろ」


 言いながら、気付けば成人式の日再会を果たしてから、すっかりと立場が逆転したものだと思わされた。

 再会当初は、ずっと渚にリードしてもらっていた。彼女の隣を歩くほどの人間ではないと自分を見下し、彼女に怒られて、そんな時間を送ったことを今でも覚えていた。

 

 ずっと尻に敷かれるものだと思っていた。


 ただ、彼女が病魔に苦しんでいることを知り、それがきっかけで彼女は少し臆病になってしまったらしい。


 ……俺も、本当に彼女が死ぬだなんてこと、未だ信じられない。

 だから俺は、彼女が生き永らえる方法はないのかと考えているのだろう。藁をも掴む思いで、考えているのだろう。




「宗太、少し時間を頂戴」




 渚は言った。

 何に対する要望なのかは、すぐにわかった。


「あなたにそこまで好いてもらえて、嬉しかった。……でも、あたしは今自分に自信が持てないの。いつまで生きられるか、自信が持てないの」




「君は死なないよ。だって、俺が救うから」




 そんなこと出来る見込みは一切ない。だけど、見込みのないことでも渚を励ませるなら。そして、自分を追い込むためにも言った。


「嬉しい……」


 渚は、嬉しそうに俯いていた。


「……でも、ごめん。時間、頂戴?」


「……うん」


「あたし、頑張るから。そしたら……病院を抜け出して、二人で役所に持って行こう」


「うん」


 去り際は、昨日とは違ってなんとか微笑むことが出来た。

 悲しい顔で、渚とはお別れしたくなかった。いつ彼女が去るかはわからない。だから、喧嘩別れなんてしたら一生後悔すると思った。


「ねえ、宗太?」


 部屋を出ようとした時、渚に呼ばれた。


「何?」


 その時の渚は、珍しく言い辛そうにしていた。何かを言い辛そうにしていた。


「渚?」


「……あたしも」


「え?」


「あたしも、宗太とずっと一緒に生きたい。それだけは……それだけは確かなの」


 独りよがりの感情ではなかった。

 エゴでなくて、良かった。


「宗太……」


 渚は、泣きそうな顔で俯いていた。




「あたしを、助けてね……」




 東京へ帰る電車の中で、今後どうすればいいのかだけを考えていた。

 渚のことを救うと言った。渚に助けてくれと言われた。

 俺にとってそれはあまりにも大層な意思表示だった。俺にとってそれはあまりにも大層な依頼事だった。叶うかどうかも、わからなかった。


 絶望に打ちひしがれている時間はない。

 でも、先行きはやはり暗黒のままだった。


 時間が無限でないというのに。

 幸先すら良好しない現状に焦りしかなかった。


 ……しかも、運が悪い。

 コンビニのバイトはシフト変更の連絡を入れていた。しかし、家庭教師のバイトは断りの連絡を入れていなかったのだ。ただ恋人が倒れたと言えば、菜緒家の方々は俺の欠勤も認めてくれることだろう。



 ……ふと、思い出した。



 菜緒家のことを考えて、俺は思い出した。絶望しかない暗いトンネルの中を、足元だけしか照らせないような微かな明かりだったが……これまで一切周囲が見えなかった頃に比べたら、それは希望であることに間違いはなかった。


 この前。

 そう、あれはこの前。ほんのこの前の話だった。


 菜緒の家に家庭教師に行き、夕飯を振舞ってもらって、……渚が倒れたことを知ったそんな日のことだった。


 エリカさんは言っていた。

 菜緒の父が、医者をやっていると言っていたんだ……!


 微かな明かりであることは否めなかった。

 まだ菜緒の父の専行する方面すらわからない。徒労に終わる可能性だって多いにある。


 でも、徒労に終わらない可能性だってある。

 それだけで十分だった。そんな微かな望みだけでも、十分だった。暗闇のトンネルの中を、右往左往するよりは断然マシだった。


 すぐに、俺は母に電話をした。運悪く電車は矢継ぎ早にトンネルを通って、電波が微弱なところが多く、まともに電話することは叶わなかった。


 仕方なく、メールを送ることにした。

 本文をなんて書くか。

 母は、周囲に渚のことを話すことに否定的だった。渚に余計な心労をかけないためだ。渚と菜緒に交友関係があるはずがない。彼女らは俺の間だけで繋がっている存在のはずだった。


 であれば、渚に余計な心労がかかる心配はないはずだった。

 しかし、それはあくまで可能性の話であった。断定は出来なかった。


 母は、多分言うだろう。


 渚ちゃんが辛い目に遭ったらどうするの、と。




 渚が辛い目に遭う。

 渚が、助かるかもしれない。


 それを天秤にかけた時、例え僅かな可能性であれ俺が後者を選択することは最早必然だった。

 しかし、周囲は俺の選択を納得しないかもしれない。少なくとも、手放しに喜ぶことはないだろう。結果に繋がらなければ、途端に俺は矢面に立たされるだろう。




 ……不思議と、億することはなかった。

 渚を救うためなら。

 愛する彼女と生きるためなら。




 俺は、どうなっても構わないと思っていた。



 そう思うくらいの覚悟は、俺は渚の前でしたのだ。




『責任は俺が取る。

 家庭教師している子の父が、医者をやっていると聞いたことがある。徒労に終わるかもしれないけど、渚のことを相談してみる』


 俺は手早くメールを送信した。

 返事は中々返ってこなかった。ただ、意思は固まった。責任を取る意思と、彼女を助ける意思だ。


 新宿駅に着くと、俺は一度家に帰って準備をし、菜緒の家に向かった。

 顔合わせ初日よりも緊張していた。菜緒の父は、明らかに俺を敵視していた。その理由は俺にはわからない。

 だけど敵視する相手との会話の経験に、俺は乏しかった。悪意ある一言を頂戴したら、途端に口ごもるかもしれない。

 そもそも菜緒の父が、俺の願いを簡単に了承してくれるとは限らなかった。


 それでも、やりきるしかない。

 それが俺の覚悟だった。

 足掻くと決めた俺の覚悟だった。


 菜緒家のチャイムを押すと、出てきたのは菜緒だった。


「センセ、大丈夫だった?」


 駆け寄ってくる菜緒は、心配げに俺を見ていた。


「え?」


「この前血相変えて帰ってったから」


「……そうだったね」


 心配をかけてしまったことに、申し訳なさを感じた。

 ……意思は固まった。菜緒にも全てを話す。まず彼女とエリカさんに事情を説明して、外堀を固めてから菜緒の父に話を持ち掛けようと思っていた。


「エリカさんにも心配、かけたね」


「うん。お母さんは今ちょっと、長電話してるから……」


 どうやら家にはいるらしい。

 俺は息を大きく吸って、吐いた。


「菜緒、相談させて欲しいことがあるんだ」


「え?」


「……エリカさんにも、同席してもらいたい」


「何? ……何の話?」


「……渚のことで、相談があるんだ」


 菜緒が神妙な面持ちになったことがわかった。

 一先ず菜緒家に入れてもらった俺は、丁度長電話を終えたエリカさんに相談事があることを持ち掛けて、リビングへ通してもらった。

 手前のソファに座ってと言われて、恐縮しながら腰を下ろした。菜緒は、俺の隣の腰かけた。


「センセ、良く見たら目の下に隈があるね」


 薄々、菜緒は俺の話したいことに気が付いたらしかった。

 お茶を汲んできてくれたエリカさんに、お礼をした。冷たいお茶で喉を冷やして、俺は意を決した。


「……実は、渚が……私の彼女が、余命宣告されてしまって」


 口の中が急激に乾いていった。

 菜緒が悲痛そうな顔をしたのに対して……エリカさんは落ち着いていた。元看護士なだけあって、恐らくそういう話は聞き慣れているのだろう。


「容体は?」


「今は落ち着いています。……ただ、いつ危うくなるかはわからない」


「……大変だったわね」


 俺は首を横に振った。

 一番大変なのは、今も病魔に苦しむ渚だ。


「それで、ご相談というか……教えて欲しいことが」


「ウチの旦那、医者だからってことよね」


「……はい」


「渚ちゃんの病名、わかるかしら?」


 俺はエリカさんに、事前に聞いていて覚えられただけの渚の病状を拙く説明した。エリカさんは丁寧に頷いて、俺の話を聞いてくれた。


「……旦那なら口利き出来そうな分野ね」


 エリカさんは言った。一番望んでいた一言を、言ってくれた。

 ここ数日燻っていた想いが溢れそうだった。


「じゃあ……!」


「でも、過度な期待は駄目よ。一度は余命宣告されたくらいなんでしょう? 絶望的な状況であることは変わらない。気休めにしかならないかもしれない。都内の病院だから、地方の病院よりも設備も人も揃ってる。でも、それで全員が助かるならこの国で涙を流す人はもっと減っていたでしょう。

 あたしもかつての職業柄、色々な人の最期を見送ってきたからわかるの」


「……気休めでもなんでも、構わない」


 正しいのかはわからない。もしかしたら俺の言葉は、ただ彼女を苦しめるだけなのかもしれない。




「死んだら何にもならないじゃないかっ」




 死んだら。

 死んでしまったら、それで終わりじゃないか。


 生きていれば。

 生きていさえすれば。


「……とにかく、旦那が帰って来るのを待ちましょう。相談してみましょう」


「ありがとうございます」


「……帰って来るまで、娘の勉強、見てもらえる?」


「……はい」


 隣に座っていた菜緒に、目を移した。

 菜緒は、目を丸くしていた。俺が血相を変えて怒声を上げたからだと思った。彼女に感情的になる姿は、一度だって見せたことがなかった。


「……行こうか」


「うん」


 とても勉強を教えたい気分ではなかった。

 でも、本来はそれが俺の仕事なのだ。


「センセ、大丈夫?」


 菜緒の部屋で、深刻に俯いていたら菜緒に言われた。


「……ああ、ごめん」


 取り繕うように、そう言った。

 どんな気分であれ、それをこなさねばならないのだろう。


「さ、勉強しようか」


「……妬けちゃうよ、本当」


「え?」


「渚ちゃんのこと、好きなんだね」


 勉強に移る空気ではなかった。少しくらい、菜緒との与太話で気持ちを落ち着かせるのも悪くないと思った。


「うん。好きだよ」


「……渚ちゃん、幸せ者だね、センセにそんなに悲しんでもらえて」


 でも、成果が出せないのであれば意味はない。




「センセ、もしあたしがセンセのこと好きって言ったら、鞍替えしてくれる?」




 ……菜緒が何を言っているのか、俺にはわからなかった。


「……冗談だよ、冗談。真に受けないでよ」


 そう微笑む菜緒の顔は、悲しそうで、痛々しかった。




 それから辛うじて菜緒との勉強会を再開して、菜緒の父が帰宅されたのは丁度勉強を終えた時間だった。


「来たね」


「……うん」


「ウチのお父さん、誤解されやすいけど真っ当な人だから……その、どんなこと言われても恨まないであげて」


「……うん」


 エリカさんの声が、リビングから漏れた。俺だけを呼ぶ声だった。


「行ってくる」


 心臓が高鳴っていた。


「失礼します」


 リビングへ入ると、菜緒の父に一睨みされた。思わず委縮してしまったが、何とか手足を動かして席に座った。


「先に言うけど……」


 菜緒の父の声を聞くのは、これが初めてだった。低めの声で、このタイミングで聞くと恐れを感じてしまった。

 この切り出し、もうエリカさんから事情は聞いているらしい。


「余命宣告された患者さんが助かる見込みは、限りなく低いよ? 都内であれ地方であれ、劇的に変化する可能性は限りなく低い。だったら地元で治療に当たった方が良いと俺は思っている」


 ……一件、正論に聞こえた。


「でも、三パーセントが五パーセントになるんですよね」


「そうだな」


「だったら、僕は五パーセントにかけたいです」


「……転院するデメリットはそれだけじゃない。こっちに来ると言うことは、地元のご家族が会いに来辛くなるということだ。彼女に何かあった時、頼れる人は君だけになるんだぞ。君だって将来、仕事をする身になる。なのに彼女の看病まで、楽なことじゃないぞ」


「やり切って見せます」


 それが俺の覚悟だった。

 彼女と濃密な時間を過ごし、ようやく大人になれた俺の……俺の覚悟だった。足掻きだった。


 ……ただ、最愛の彼女と、二人で生きたい。


 たったそれだけの……たったそれだけの願いだったんだ……。




「彼女に……助けてくれって言われたんです」




 さっき病院で、彼女に言われた台詞。顔。声色。

 全てが脳内で今でも鮮明に再生出来た。

 悲しそうな彼女を助ける手立てが、俺にはなかった。暗闇のトンネルに残され、微かな明かりを頼りに進むことしか俺は出来なかった。


 不安しかない。

 助けられるのか。助けると息巻いて、助けてと懇願されて……俺は本当にそんな重責、担えるのだろうか。

 そんなことを考えると不安しかなかった。


 だけど、俺は覚悟を決めたんだ。

 足掻くと覚悟を決めたんだ。


 ……だって、そんなの。


 そんなの……。




「彼女と一分一秒でも永く一緒にいれるなら構わないっ。誰に恨まれようと、誰に蔑まれようと構わないっ!

 ただ、彼女と一緒にいたいだけなんだ……」




 一緒にいたい。

 好きだから。愛しているから。


 だから、ただ一緒にいたい。


 それだけのことなんだ。




「エゴだね、そんな考えは」


「……確かに、エゴかもしれない」


 でも……。


 再会して交際を始めた女性のことを何も知らないと気付いた時のように。

 連れられたホテルで彼女の好意を無下にした時のように。




 幼馴染が結婚すると知り、憔悴した時のように……!




「後悔したくないんだ……」




 もう、俺には何も残っていなかった。

 恥も外聞も。

 取り繕ろう言い訳さえ、何も。


 ただ……思いの丈を全てぶつけることしか出来なかった。




「このまま彼女を失えば、俺は絶対に後悔するっ!

 あの時のように、子供だった時のように何も出来なかったと、ただ泣くことしか出来なくなるっ!


 それじゃ駄目なんだ……。

 それじゃ駄目なんだっ!!!


 だって……。


 好きなんだよ、好きなんだよぉ……。


 渚のことが好きなんだよぉっ!!!」




 人はいつか死ぬ。

 大切な人を置いて、死んでいく。


 そんなことは知っていた。

 そんなことは理解していた。


 祖父と、親友の父の死を味わって、死ぬと人は人形のようになるんだと知った。無機質な人形のようになるんだと知った。


 渚も……俺も。

 父も、母も。


 いつか、そんな人形のような死を迎える。




 ……多分、命が果てることだけが人の死ではないんだろう。




 時間は無限ではない。やり直すことさえ出来ない。

 そんな定めに直面し、深い後悔を背負ったら……俺は多分、肉塊と化すのだろう。あの日、電車に身投げしようとした時のように、肉塊と化すのだ。




 人は、きっと俺の甘い考えをエゴだと言う。


 でも、誰かに分け与えられた空気を吸うこと。

 誰かにとって毒である二酸化炭素を吐き出すこと。


 生ける動物を狩り、食らうこと。

 生ける植物を伐採し、殺すこと。


 大切な人を置いて、死ぬこと。




 大切な人を、先に逝かせること。




 この世は……この世に生ける生物はエゴで成り立っている。

 

 だからこそ共存していく必要があるんだ。

 大切な人と一緒に歩み、幸せになる必要があるんだ。




 いつまでも大切な人と一緒に生きることを願わなくてはいけないんだ。足掻かなければならないんだ。




 俺のしていることをエゴだと皆が言う。

 だけどそれは皆が心のどこかで思っていることなんだ。


 大切な人を失いたくない。


 そんなこと、当然じゃないか。


 子供も大人も関係ない。




 そんなこと、当然じゃないかっ!!!




 菜緒の父は、呆れていた。


「……とにかく、そんな簡単な話じゃないよ」


 そう言って、話は終わりだと言いたげに立ち上がった。


「まずは紹介状を書いてもらってきなさい。それを受け取って、精査してまた連絡する」




 ……微かな望みが見えた。

 暗闇のトンネルの出口が、見えた気がした。


「ありがとうございますっ」


 深く深く、俺は菜緒の父に頭を下げるのだった。

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