手助け

 渚へプロポーズした後、病院の面会時間を過ぎてヒートアップをする俺達を見兼ねた看護師さんの仲介により、俺は家に帰された。

 本当なら、冗談じゃないと言って忠告を無視して渚との話し合いを続行したかった……と言うか、最初はそうした。


 しかし、病状が悪化したらどうするの、という看護師さんの叱責に我に返った。

 渚とは幸せになりたい。この場の話し合いがそれに直結しないことを、俺はようやく気が付いた。


 俺の思いの丈は全て渚にぶつけた。

 偽りない思いだった。渚に長生きしてほしいし、渚と結婚もしたい。幸せにしたいし、幸せになりたかった。


 しかし渚は、頑なに俺のプロポーズの了承をしてくれなかった。

 最後の、最後まで。


 それだけ具合が悪い事の、裏返しなのだろう。

 事態は一刻を争うのだろう。


 


 俺は憔悴しきっていた。


 渚に生きて欲しいと、そう願った。渚に無理強いをした。

 渚を助けると息巻いた。

 しかし、医学の知見も渚の現状も詳細に把握していない俺にとって、どうすれば渚を助けられるか、そんな答えを導きだせる可能性は万に一つもなかった。


 先の見えない暗闇のトンネルに迷い込んだ気がした。

 それくらいの絶望感が俺を襲っていた。


 でも、今はそんな絶望感に打ちひしがれている時間すら惜しいのだ。


 間違ったこと、わからないことを認めて反省し、どうすればよいか学んでいくことは大事なことだ。生きる上で、大事なことだ。


 あの日の菜緒のように。

 実の両親を煙たがり、俺の言葉で反省し親との関係を回復させた菜緒のように。


 学んでいくことは大切なことなんだ。


 でも今は、そんな悠長なことは言ってられない。

 時間はない。

 いいや、時間はあるかもしれない。でも、俺にはそれがどれだけあるかもわからない。


 だから、あれだけのことを息巻いて何も出来ない自分に嫌気が差す。無力な自分を殴りたい。

 でも、果たしてそれで何が解決しようか。


 格好つけている暇はない。

 無力な自分を認め、周囲に無知を晒し、恥を掻きたくないなんて、この期に及んでそんな格好つけている場合ではないんだ。


 だって、俺は無力なんだから。

 それでも渚を救いたいんだからっ!


 だったら、恥も外聞も全てかなぐり捨てて、周囲を頼るしかないじゃないか。




「ただいま」


 病院からの一時間の旅路を終えて、実家に帰ってきた。


「え、宗太っ!?」


 台所にいた姉が、驚きの声を上げた。


「あんた、東京に帰ったんじゃないの?」


「うん。母さんはいる?」


「居間にいるけど」


「わかった」


 こういう時、真っ先に頼れる人は親だった。

 いつかは反抗期で小馬鹿にもした。それでもずっと俺に献身的な姿勢を見せてくれて、ここまで何不自由ない生活を送らせてくれた、そんな偉大な人だ。


「母さん、ただいま」


「おかえり。どうしたのよ、東京に帰ったんじゃなかったの?」


「……うん。帰って、帰ってきた」


「……そう」


「父さんは?」


「寝た」


「じゃあ、起こしてくる。相談したいことがある」


「何よ、改まって」


「渚のことだ」


 母は、何かを察した顔をしていた。


 渚のことを家族に伝える罪悪感はあった。だから、姉には無理やり席を外してもらった。


 神妙な面持ちの両親を対面の席に座らせて、俺は重い口を開けた。


「……渚、病気みたいなんだ」


 二人が息を呑んだのがわかった。


「病状は?」


「……わからないけど、もう、永くないって」


 俺は首を横に振った。

 渚の病状は受け入れたつもりだったのに、第三者へ伝えることがこれほど辛いとは思わなかった。


「……そう」


「うん」


「……辛かったわね」


「俺なんて……」


 大したことない。

 今にも自分が死ぬかもしれない絶望と戦い、病気と闘い、心身ともにすり減らす毎日を送る渚に比べたら、こんなこと……。

 そんな彼女の助けになりたいと思うのは、当然じゃないか。


「……俺、何とか彼女を救いたい」


「宗太」


 母の声は、いつもよりも険しかった。こんな険しい言い方をされたのは、久しく記憶になかった。


「無茶言わないの。あんた、別に医者でもなんでもないじゃない。熱に浮かされて助けたいだなんて思って、そんなことしても無力感に苛まれて痛い目見るだけよ」


「わかってるよ、そんなこと」


 そんなこと、言われるまでもなかった。

 今までも、そしてさっきまでの病院からの帰路の時も、ずっと自分の無力さには苦しめられてきた。

 なんてなんて俺は無力なんだろう。

 渚に何も出来ないんだろう。


 なんとか出来ないのか。

 俺にも、彼女を救える劇的な一手はないのか。


 そんな甘い考えをし、拙い頭を働かせては絶望に打ちひしがれた。


 わかっている、わかっているんだ。


「俺じゃあ、渚を救えない。わかってるよ、そんなこと。だから、誰かの手を借りたい。渚を助けられる人を探したい」


 俺は努めて冷静に話した。それが俺に出来る、精一杯の抵抗だった。


「父さん、母さん、二人はその……そういう伝手はないの?」


「……農家に、そんな伝手はないよ」


 力及ばず、申し訳ない。

 父の顔には、そう書かれていた。


「……宗太、あんまり渚ちゃんのこと、大っぴらにしちゃ駄目よ?」


「でも」


「見舞いがたくさん来る方が、渚ちゃん心労溜まってしまうでしょ」


 歯ぎしりをしてしまった。

 そう簡単にうまくいく話ではない。そんなこと百も承知だったが、頼れる人達でも無理だと知ると、絶望感が胸を絞めそうになった。


 でも、簡単に諦めるわけにはいかない。

 渚のことを、そう簡単に諦められるはずがないじゃないか。


「母さん、明日少し、いい?」


「何する気?」


「おじさんとおばさんに会いたい。会って、協力を仰ぎたい」


 渚のことを小さい頃から見てきた実の親である二人の協力は、必要不可欠だった。


「わかった。行きましょう」


 ただ、と母は付け足した。


「宗太、多分あの二人は、別に渚ちゃんを見捨てているわけではないと思うわよ」


 ……それも薄々、わかっていた。

 実の娘の死が間近に迫り、慌てないような人でないことは、先日再会を果たしたあの日、俺に優しく接してくれた彼らを見ていたら一目瞭然だった。


 でも、俺はあの二人と渚のことで話をしたかった。


 一人よりも二人。二人よりも三人。

 各々が別々の方向を向いていたら力は分散するが、一緒の方向を向けばそれ以上の力を発揮する。

 そう思っていたから。


 そう、思いたかったから。




 翌日、母に起こされることなく目を覚まして、食欲もない中で母に無理やり朝食を食べさせられて、緊張の面持ちで母の運転する車で家を出た。

 

 目的地は、渚の家。


 今まで出迎えてくれた人がいなくなり、隣で一緒に歩めるようになったと思ったのに、今やその人の姿すら消え失せた、彼女の家だった。


 彼女の家に着くと、ここに彼女がいてくれたらと思っていた。

 ここに彼女がいて。

 俺をまた出迎えてくれて。

 病気なんて全て真っ赤な嘘で。


 そんな、淡い期待をしていた。


「おはようございますー」


 母の声は明るかった。そういう演技もこなせる人だったのだろう。


 俺達を出迎えてくれたのは。




 渚の母だった。




 胸が、締め付けられるように痛かった。


「あら、櫻井さん。宗太君も揃ってどうしたの?」


「……渚ちゃんの件でね。ウチの子から全部聞いたから」


「……ああ、そう。あの子、宗太君には話したって言ってたのに、やっぱり嘘だったんだ」


 昨日渚は、親には嘘をついて俺と引き合わせたと言っていた。

 嘘ではなかった。

 ということは……全て本当だったのだろう。


 冗談だったらどれだけ良かっただろう。

 先行きが一切見えない、そんな暗闇のトンネルに足を踏み入れて、助けるなんて息巻いてそんな淡い期待を俺はしていた。


 しかし、全て本当だった。


 渚の死が間近まで迫っていることは、本当だったんだ。


「ごめんね、宗太君。巻き込んで」


「……いえ」


 碌な返事は出来なかった。握りしめた拳の中で、粗末に伸びた人差し指の爪が皮膚の奥深くまで食い込んでいた。

 その痛みが、これが全て現実なんだとわからせた。


 絶望感しかなかった。

 渚が死ぬ。これから待ち受けるそんな絶望的な運命に、逃げ出したい気持ちすらあった。




 でも、約束したんだ。




 救うって、約束したんだ。


 ようやく意を決して顔を上げた俺に、心配げに俺を見ていた渚の母が、苦笑した。


「宗太君、なんだかウチの娘に似てきたね」


「……そうですか?」


「うん。固執する様とか、さ。そんなに、ウチの娘は大事?」


「……はい。大事です。一緒に生きたいんです。幸せになりたいんです」


 実の母の前で、こっぱずかしいことを言ってしまった。しかし、悔いはなかった。本心を全て伝えることは、別に恥ずかしいことではないと知ったから。


「ウチの娘も、小さい頃から宗太君に固執してた」


「……え?」


「成人式の直前のこと、覚えてる?」


 成人式の直前のこと。

 ……渚の母から、渚の結婚話を聞かされたことだろうか。


「ウチの娘に、散々言われたの。宗太君に探りを入れたいから手伝ってって。だから結婚するなんて嘘、吐かせてもらったの」


 ……言われてみれば。

 渚の母に渚の婚約話を聞いた後に、俺は渚から婚約届を突きつけられた。渚は俺と結婚するんだ、と渚の母に息巻いたのだと思っていたが、タイミング的にはおかしな話だった。


 だとすれば俺は、渚の探りに自棄酒して、帰り一緒に送ってもらい、ホテルにまで連れて行かれて……完全に手のひらの上だったんだな。


「成人式の一か月前だった。突然調子がおかしいって言う渚を病院に連れてったら、精密検査するって言われて。不安なままにそれをして、結果が余命宣言。驚いたし、憤った。

 当人は現実味がないって顔してたけどね。


 ……成人式が娘の最期の晴れ姿になるんだと思ったら、とても喜べる気分ではなかった。

 だけど、余命宣告から二週間くらいして決心した渚の顔を見て、この子の好きなようにやらせようとって思ったの。


 まあ、宗太君を巻き込む決断をしたことは、怒ったんだけど。


 多分、当人も悪気はあった。それでも立ち止まれなかったのね。兄がしっかり者だったから、渚にも大人になるよう強要してたんだと思う。

 だから瀬戸際に立って、抑えきれなくなったのよ。

 だから、ごめんなさい。全て、あたしの監督不足なの」




 粛々と、渚の母は俺に頭を下げた。


 怒る気にはならなかった。

 だけど何かを言う気にもならなかった。


 ……ただ、俺は再確認させられた。


 俺を手のひらの上で転がし、俺への想いを告白し、嫉妬し、からかい、そんな少女が俺に抱いていた想いの大きさ、重さを……改めて、実感していた。


「頭、上げてよ」


 母が宥めるように言った。


「謝罪の言葉は、要りません」


 俺は震える声で言った。涙が止まらなかった。


「ただ、一緒に渚を救う手伝わせてください。俺なんかよりずっと先に苦しんで、ずっと先から渚を助けようとしていたことは知っています。

 だから手伝わせてください。


 俺は渚がいないと駄目なんだ。彼女に一日でも永く生きて欲しいんだ。そのためならどんな目に遭ったって構わないんだ。


 だから、お願いします……」


 俺は頭を下げた。

 

 渚の母は、




「宗太君。ウチの娘のことを好いてくれて、本当にありがとう」




 涙交じりに、そう言った。

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