覚悟
小学生の頃、二十歳になる自分というものが想像出来なかった。両親を見て育ち、姉を見て学び、自分という人間がいかに未熟なのかということを身に沁みさせられていた。それを見て反省し精進をしようと思ったことはなかったが、だからこそ自分は大人になんてなれないんだと思っていた。
だけど、そんな自分の気持ちとは裏腹に時間というものが勝手に過ぎていくことを……俺はこの数か月で身に沁みさせられた。
時間は有限であり、限られている。
大切な人と会える回数は限られていて、いつかは必ず再会が出来なくなる日がやってくる。
人。
いいや、この世に生まれた動物は、そんな輪廻の元に生きている。
誰かを失うことで悲しむ辛さを、誰もが味わう。なのにこの世の生物は、自らと同じ体験をさせるべく子を成し、子孫を残していく。
そんな不文律な生き様に辟易とするようになった。
間近で親族の死を見送って、親友の父の死を見送って。
人が生きる意味を、考えるようになった気がする。
答えは見つからない。
でも、もう一つの設問が俺の脳裏に浮かぶようになっていた。
人はどうして、愛を育むのか。
愛がなければ悲しみの連鎖は潰える。
戦争で家族を失い悲しみを背負わせるから戦争は悪と教わるのに、同じく悲しみの連鎖を背負わせる愛を人はどうして繰り返すのか。
生存本能という答えは真理に近いが、俺はそういう退廃的な考えが嫌いだった。
ただ、ロマンチックな考えも反吐が出るくらいに大嫌いだ。
だから、現実味のある答えを探した。答えは未だ、見つかっていない。
さっき東京に戻る時に降り注いでいた雨は、どうやら地元の方へと押し進んでいったらしい。電車から見える地元の夜景は有名だが、こう雨が降ってはロマンチックのかけらもない風景しか見えず、長旅疲れで感情の起伏が弱くなってきた俺には些細な刺激にしかならなかった。
こうして一日の内に地元と東京を行ったり来たりする体験は生まれて初めてだった。電車が好きな大友は、度々物珍しい電車を追って更に奥にある長野にまで日帰りで足を伸ばしたりするそうだが、さすがに旅行好きな俺でも共感しがたかった。
病院の最寄り駅に辿り着いたのは、これからバスに乗っては到底面会時間の内に病院に辿り着けない時間だった。仕方なくタクシーを呼び止めて、病院まで向かってもらった。
東京のビル群よりも低く仄暗いビルの隙間を縫って、車が進んだ。
少しだけ、俺は長旅と気疲れのせいで眠気に襲われ始めていた。
「お客さん、着いたら起こすから寝たらいい」
「……ありがとうございます」
優しい運転手のご厚意に甘えて、俺は目を瞑った。
夢を見た。
まだ小さい頃、渚と家の傍の原っぱを駆け回る夢だった。
小さい頃から渚にはまるで歯が立たなかった。
駆けっこに始まり、おままごとをすればいつだって尻に敷かれたし、口論になれば実力行使に出られ泣かされた。
いつか、渚に俺がかつての記憶を美化していると言われたことがあった。
あの当時はそのことが酷く腑に落ちたが、こうしてその当時のことを深く思い出してみると、意外にも泣かされながら内心ではあの時間をそこまで毛嫌いしていなかった自分がいたことに気付かされた。
そりゃあ、手を出されるのは嫌だったが……彼女と一緒にいた時間は、嫌いではなかった。嫌いだったら俺は、多分渚と会うのを拒んだ。そういう男だ、俺は。
そうしなかったのは、やはり……。
「お客さん、着いたよ」
「……どうもありがとう」
お礼を述べて、タクシーを降りた。
スマホで時間を確認して、面会時間内に到着出来たことを安堵した。
院内に入りながら、この数か月のことを振り返っていた。そういう気分だった。
振り返る中で、思い出した言葉があった。
『ううん。宗太にこれから、今のあたしを拝ませてやる。ちゃんと認識させた上で逃げ場を塞いで結婚してやるわ』
……当時から、半分冗談で言った台詞だと思っていた。
恨めし交じりに、憎まれ口のように叩いてきたのだと思っていた。
ただ、今となればこの通りに段階を踏んできたのだな、と思わされた。
「こんばんは」
渚は、驚いた顔をしていた。
「宗太、東京に帰ったんじゃなかったの?」
「……うん。だから帰ってきた」
……人はどうして愛を育むのか。
今、渚の顔を見て。
今、渚に抱く溢れるこの気持ちを感じて。
答えはようやく見つかった。
……なんてことはないのだろう。
幸せだから。
その行いは悲しみの連鎖を招くのではない。
その行いが生むのは……幸せなのだろう。
俺は、覚悟を決めた。
幸せになる覚悟を決めた。
平坦な道ではないだろう。
辛いことも時にはあるだろう。
それでも愛を育みたいと思った。限りある時間、どう転んでも限りある時間の中で、それまでに味わう辛さにも勝るほどの幸福を手にしたいから。
渚と交際を始めて今日までの数か月は……幸せだった。渚のおかげで彩られて、幸せだった。
そんな幸せな時間を彼女と過ごしたいと思った。
これからも、ずっとずっと。
だから俺は足掻こうと思った。
覚悟を、決めたんだ。
「渚、これ」
俺は一枚の折り畳まれた紙を渚に手渡した。
「……何?」
「開けてみてよ」
さっき電車の中で見た曇天模様が、ようやく晴れ間を見せ始めた。
満月の夜だった。
窓辺の渚のベッドに、月明りが差し込んだ。
渚は紙を広げて、驚きのあまり口元を抑えていた。
俺は……、
「明日、病院抜け出して一緒に役所に持って行こう」
微笑んだ。
「結婚しよう、渚」
月明りに照らされた紙は……。
夫婦の情報が記載された、『婚姻届』だった。
俺は渚に、あの日もらった婚姻届を突き付けた。
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