大人

 渚がしばらく、自分の今の容体と病名を話していた。しかしその言葉は俺には伝わっていなかった。専門用語の多さだけでなく、今はそんなこと聞きたくなかったからだった。

 そんなこと細かに最愛の人が死ぬ物的証拠を突きつけられて、精神を病まない人がいるはずないじゃないかとさえ思った。


 渚に挨拶もせず、病室を出た。


 廊下で母とばったり会った。

 俺は、渚に会いたいとねだる母を無理やり引っ張って、病院を後にした。


 実家には寄らず、俺はそのまま東京へと帰還した。


 憎らしいほどだった快晴は、大きく蛇行し乗り上げた丘の上の駅の先のトンネルを抜けた時にはすっかりと曇り、もう一つのトンネルを抜けた時、誰かの悲しみを嘆いているかのような土砂降りが電車の窓を打ち付けていた。


 全てを失ったような気がした。

 大切な渚と死別する日が近いと知り、彩られていた世界が霞んだように思った。


 雑音酷い新宿駅構内。

 いっそ、電車に飛び込もうかと俺は思った。


 このまま生きる意味など、渚のいない人生を思えば一つもなかった。だから、もうどうでも良いとさえ思った。

 エスカレーターを昇り、せめて自分がお世話になる路線以外で身投げしようと真逆へ歩を進めた。


 駅構内にある書店を過ぎた時、丁度店から出てきた人と肩がぶつかった。謝罪をしなかったら、舌打ちをされた。嫌な気持ちにはならなかった。最早そんなこと、どうでも良かった。


 エスカレーターを下り、長蛇の列の最後尾に並んだ。数分で、電車がホームに滑り込んだ。人並みが電車になだれ込んでいった。

 俺は電車に乗らず、その電車を見送った。


 電車が発進した。


 そして、次の電車がホームに滑り込むアナウンスが、構内に響いた。




 意を、決した。




 丁度その時、ポケットに入れていたスマホが震えて、俺は我に返った。電話だった。


 スマホの画面には、大友の文字が表示されていた。


「もしもし」


『お、宗太? 今暇?』


 言葉から、遊びの誘いであることは明白だった。

 こんな時間から、大友に遊びに誘われることは珍しかった。


『いやー、今日先輩と飲み行く予定だったんだけどさ。先輩、奥さんに叱られて渋々帰ってってさ。消化不良でさー』


 大友の声は朗らかだった。

 いつか彼に聞いたことだが、シフト制で業務時間が変動しやすい駅員は、昼から居酒屋に行くことも珍しくないらしい。


 多分、相当飲んだ後の帰りなのだろう。


「いいよ」


『お、いいんか? 助かるわー』


 気晴らしのつもりだった。大友に会えば、死を一時でも望んだ気持ちが払拭出来るかもと思った。

 何せ彼は、俺よりも断然、大人だったから。

 大切な人の死を受け入れ、乗り越えた人だったから。




 これから俺がしなければいけないことを、もうした人だから……。




『なんか声、暗いなー』


 ゲラゲラと酒に酔う大友に、電話口で言い当てられた。


「そんなことはない」


 心底、不快な気分だった。


『馬鹿言うな。俺とお前、どれだけ一緒にいたと思ってんだ。さすがにわかるわ』


 渚同様、大友とも0歳からの交友関係だった。だから渚同様、やはり彼にも俺の内心は筒抜けだった。


『後で根掘り葉掘り聞いたる聞いたる』


「で、待ち合わせ場所は?」


『渋谷で。帰り一本で帰れるからさー』


 大友は東横線沿いに住んでいた。


「わかった。丁度新宿にいるから、すぐに向かう」


『おう、俺はもう現地にいるぞー?』


「あ、そ」


 酒に酔いケラケラ笑う大友を、心底憎らしく思ったのは生まれて初めてだった。


『ま、どうせ渚関連のことだろう?』


「……後で」


 言葉短く、電話を切った。

 予定も決まり、さっさと待ち合わせ場所に向かおうと思った。幸い、身投げを図ったホームは山手線。丁度滑り込んできた電車に、俺は乗り込んだ。


 それからしばらく電車に揺られた。

 暇つぶしにスマホを見たが、活字を追うことは出来なかった。画面から放出されるライトの明かりを、霞む視界の端で捉えていた。


 ようやく俺は、まだ俺が生きていることを理解させられた。


 それを快く思っていない内心に気付くと、自分という人間の程度が知れて悔しかった。


 渋谷の待ち合わせ場所は、駅構内のホームだった。

 人がごった返す街中よりも、路線のホームを一通り歩けば出会えるから、というのがこの待ち合わせ方式を提案した大友の主張だった。しかし、スマホの普及した今、そこまでこだわった待ち合わせをする必要はないと思った。


「おいっす。宗太」


 入場料を払ったらしい大友が、まもなく酒で赤くなった顔を見せながら上機嫌に現れた。

 開幕早々肩を組まれ、彼の酒臭さに一層不快感が増した。


「くせえ」


「昼からずっと飲んでるからな」


「馬鹿みたいだ」


「俺も思うわー。羽振りの良い先輩が全額出してくれなきゃ、絶対行かない」


 ……成人式の時同様、大友はスーツを着用していた。

 あの時はまだ着せられている感じがしたのに、たった数か月ですっかりと大友はスーツを着こなしていた。

 

 そう言えば、大友の父の四十九日が終わって以降……いいや、前夜に御線香をあげに行かせてもらってから、大友とこうしてゆっくりと喋るのは久しぶりだった。


「お疲れ様」


「ん、何が?」


「色々。引っ越しとか、四十九日とか。大変だったろう。手伝えなくて悪かったな」


 不意に謝罪の言葉が漏れた。


「大変だったわー。その間、お前が渚とイチャイチャしていたと思うと、すげームカついた」


 そう言う大友は、あっけらかんとしていた。


 彼は、祝ってくれたんだったな。かつての学び舎の傍で、丁寧に頭を下げて祝ってくれたんだ。


 心の底からの苦言ではなかったのだろう。

 彼はそんなことで苦言を呈す男ではない。彼はそんなことで俺に謝罪を要求する男ではない。


 そんなこと、俺が一番知っている。

 この大友のことなんて、俺が一番よく知っているのだ。


 そこまで俺は、この男のことを知っている。この男との交友は、渚以上に深いのだから。

 だから、わかった。


 ……今、この男は。

 あの日、成人式の日の俺とは違い、酒を飲んでも飲まれていないこの男は。


「で、渚と何があった?」


 親友である俺のことを、慰めようとしてくれている。

 俺よりも大人である大友は……自分だって大変な身なのに俺を慰めようとしているのだ。




「渚、もう永くないらしいんだ」




 俺は大友の好意に甘えた。


 さすがの大友も予期しなかった俺の言葉に、しばらく目を丸くしていた。


 電車がホームに滑り込んできた。大友のネクタイが、ジャケットのボタンを外していたために風に煽られた。


「笑えない冗談だ」


「本当、冗談なら良かったのに……」


 冗談であれば。




 本当に、どれだけ良かっただろうか。


「色々なことしたんだよ、たった数か月だったけど」


 気付けば、俺は泣いていた。


「御朱印集めに行って、アパートに泊まってもらって、車を見に行って、出雲に行って……!

 本当にたくさん、色々なことを一緒にしたんだ。

 再会してたった数か月だったのに、俺にはもう渚のいない生活なんて考えられなかったんだっ」


 泣いて、いつもなら照れて言えないような言葉を矢継ぎ早に漏らしていた。


『でもいざこうなって、愚かだったと思ったの』


 渚が言っていた。いつかの自己の行いを、愚かだったと言っていた。


 彼女の行いが愚かであるなら。


 小学校高学年になり周囲の目を気にして彼女を避けた俺は。

 塾で彼女の姿を探すくらいだったのに彼女への想いを自覚していなかった俺は。


 彼女が結婚すると知り、深く憔悴しきった俺は……!




「俺は……大バカ野郎だっ!」




 大友は大粒の涙を流す俺に、困惑しているようだった。


「宗太、すまんな」


 そう断って続けた。


「正直それは否定できない」


「……わかってるさ」


 わかってる。

 俺だって、俺が如何に馬鹿だったかなんてことはわかっている。わかっているさ。


 ……ようやく、少しだけ気分が落ち着いた気がした。

 未だ、渚がまもなく死ぬだなんてこと、信じられない。


『だってさ、時間は有限なんだもの』


 だけど、渚は言っていた。時間は有限だと、限られていると、言っていた。

 そしてそれは、俺も知っていることだった。いくら頑張っても、頭を捻っても、時間が戻るはずないなんてことは、とっくの昔から俺は知っていた。


「……受け入れないと、いけないんだろうな」


 時間は限られている。

 渚と過ごせる残りの時間が僅かなことは、知っている。


「渚の死を受け入れて、彼女に幸せに旅立ってもらって……彼女の分も、生きていくしかないんだろうな」




 それが、大人になるってことなんだ。

 今、目の前にいる親友のように。


 大切な人の死を受け入れて、未来を歩んでいくことが。


 それが、大人なんだ。





 ……大友は。

 俺の一番の親友は。


 俺の憧れの……大人な彼は、






「お前は本当、大バカ野郎だな」






 笑っていた。




「……俺が親父に死んでほしいと思ったのは、あいつが死ぬ前日だったよ」


「……え?」


「口には出さなかったけどさ。俺だって就職を間近に控えて不安はあった。父の死を受け入れられる覚悟もなかった。あいつが死ぬ未来なんて考えられなかった。

 だから、死なないと思ってたし生きろと思ってた。

 たまには俺らしくもない労う言葉をかけて激励したりした。


 でも、日に日にあいつの病状は悪化して、前日なんて意識はあったけどずっとぐったりしてて、そんな姿を見て思ったよ。

 こんなに苦しむくらいなら、さっさと死んでくれってさ。


 多分、俺が見ていられなかっただけなんだ。あいつのそんな姿をさ。でも、そう思ったおかげで覚悟が決まった。

 喪主だって不器用だけど務まった。


 大人になんてなりたくなかったけど、なるようになっちまった。


 そんなもんだろ、人間なんて。

 大人とか子供とかじゃない。

 人間なら、血の通った人だったら……大切な人の苦しむ顔なんて見たくないと思って当然じゃないか。

 大切な人に死んでほしくないと思って当然じゃないか。


 大切な人のため、覚悟を決めることなんて当然じゃないか」




 ……涙が、溢れた。

 大人であると思った彼の涙を見て。


 涙が、ただ溢れた。


「足掻けよ、宗太。渚と幸せになりたいんだろ? だったら足掻けよ、死に物狂いで足掻けよ」


 少しだけ大人になったと思っていた。

 彼とは違うが、大人になれたと思っていた。


 だけど、俺は誤解をしていたんだ。

 大人になることは受け入れることだと思っていたんだ。


 大人になることは、辛いことばかりだと思っていた。

 だけど大切な人を守るためなら、そんな辛いことだって忘れられたんだ。


 渚のためなら、何だって出来ると、そう思ったんだ……!




「覚悟を決めろよ。死に物狂いになる覚悟、決めろよ」




 大友の言う通りだった。


 大人だから。


 そう言って俺は、ただ傷心の自分がこれ以上深手を負いたくなかっただけじゃないか。


 時間は限られている。

 渚との時間は、限られている。


 でも……。



 でも……っ!


「大友、ごめん。帰っていいか?」


「俺より、女を取るのか?」


「ああ、そうだ。そうなんだ」


「好きにしろ」


 大友は微笑んでいた。


「ただし今度また付き合ってくれよ。今度は三人で会おう。俺とお前と、渚とさ」


 俺は苦笑して頷いて、まもなく滑り込んできた電車に乗り込んだ。




 出来ることがあるかはわからない。無駄かもしれない。

 だけど、足掻きたい。


 彼女のために。

 俺のために、俺は足掻きたい。



 彼女のいない生活なんて考えられないと思ったんだ。あの言葉に嘘はなかった。


 なのに俺は、彼女の死を知って……。


 絶望的な現実を知らしめさせられただけで、彼女との未来を諦めてしまっただけじゃないか!


 足掻くんだ。

 大切な人のため、足掻くんだ。血反吐を吐いてでも足掻くんだ。


 ……多分、そうしないと後悔する。

 渚を失い、傷心するだけの未来になる。彼女の亡骸の前で、ただ泣くことしか出来なくなる。


 そんなの望んでなんかいない。

 そんなの、渚を失って当然だ。


 ……そんなの、渚もきっと望んでいない。




 今なら。

 今だったら……!


 どんなものだって投げ出せる気がしたんだ。渚のためなら、あの出雲の時のようになんだって出来ると思ったんだ。


 それがきっと、覚悟を決めたってことなんだ。


 再び地元へ帰るつもりだった。

 帰って、渚に会いたかった。俺の想いを一切余すことなく、全て伝えたかった。




 丁度その時、俺は見つけた……。

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