幻想。まやかし。

 二十一時。

 いつも通りの時間に菜緒家の家庭教師の仕事は終了した。今日はいつになく菜緒の集中力が凄い日だった。いつもならとっくに俺が助け舟を出していた問題を自力で解いたり、お淑やかでクールな印象が強かったのに、難問を前に頭をかき乱してみたり。


 どうやら彼女も、間近に迫った中間テストへ向けてやる気を一層深めていたらしかった。


「ただいまー」


 丁度、エリカさんが帰宅されて、俺達は勉強を終えた。


「今日はよく頑張ったね」


「そうだった?」


「うん。この調子で頑張ろう。ただ、無理は駄目だぞ」


「うん。うん」


 褒められたことが嬉しかったのか、菜緒の頬は綻んでいた。

 香ばしい匂いが立ち込めてきた。


「センセ、今日は夕飯食べてくの?」


「うぇあっ!?」


 柄にもなく変な声を上げてしまった。正直あの空間は、居た堪れないから経験したくなかった。


「……嫌?」


「いや、嫌ってことは……」


 口ごもるあたり、答えは明白だったのだが……言質が取れたとでも言いたげに、菜緒の顔が途端に晴れた。


「じゃあ、お母さんにセンセの分も用意してって言っておくよ」


 そう言って、部屋を飛び出して行った。


 菜緒を追うことは出来なかった。追って彼女の家庭との関係を悪化させたくなかったから。そう、言ってしまえばこれからの時間は、サラリーマンになった時、苦手な上司と帰る時間がかち合って、微妙な空気のままご飯を一緒に食べに行くことになった、そんな時の予行演習だと思えばいいのだ。


 そう言い聞かせて、俺は少しだけ気落ちした。


 バタバタとスリッパの跳ねる音がして、菜緒が部屋に戻ってきた。


「お母さん、もうセンセの分も作ってた」


「それはなんだか申し訳ないな」


 心の底からそう思った。

 ……とにかく、夕飯の時間まで暇が出来てしまった。


「もう少し、勉強する?」


「うん」


 殊勝な心掛けの少女だと思った。果たして同年代の頃の俺は、ここまで勉強を熱心に取り組んでいただろうか。

 興味のあることには饒舌になる男、といつか渚に評された。

 裏を返せば……興味のないことには、とことん興味がない。多分俺は、そんな男なのだろう。


 とにかくそんな殊勝な菜緒の勉強に付き合って、そのまま夕飯を菜緒家でお世話になることになった。


「センセイ、夜分までご苦労様です」


「そんな。菜緒さん、とても勉強熱心でこっちもとても勉強になります」


「良かったわね、菜緒。そんなこと言ってもらえて」


「ちょ、お母さんっ」


 慌てる菜緒は新鮮だった。そう言えば、慌てる渚の姿も新鮮だと思ったものだ。やはり彼女達二人は、俺目線から見ればかなり似ていると思わされた。


「……あれ、旦那様は?」


「仕事。こんな時間までオペだなんて、最近の医者は大変ね」


「へえ、お医者様だったんですか」


「そうよ。あたし、元ナースだったの。出会いは職場。玉の輿に乗ったと思ったのに、まさかパートに駆り出されることになるとは思ってなかった」


 現実味のある馴れ初め、婚姻理由に俺は苦笑した。

 多分、結婚なんてそんなものなのだろうと思わされた。


 ……多分、再会当日に婚姻届を突きつけられるのは普通じゃないことだと思わされた。


「菜緒、お料理運んで頂戴」


「うん。センセ、ご飯よそってあげる」


「いいや、自分でやるよ、それくらい」


「駄目っ」


 血相を変えて叱ってきた菜緒に、俺は目を丸くした。


「……えっと、我が家では家主しかご飯をよそってはいけないルールがありましてね」


「ないわよ、そんなルール」


 茶化すように苦笑するエリカさんに、菜緒が恨めし気に睨んでいた。すっかり仲が良くなった二人に少しだけほんわかとしながら、客人として自分が今振舞われようとしているなら、それに従おうと思った。

 郷に入っては郷に従え、と言うやつだ。


 ご飯を菜緒によそってもらい、三人が席に着いたところで俺達は揃って夕飯を食べ始めた。


 ……先日より幾分か気楽なのは、菜緒の父親に睨まれていないからなのだろう。サンキュー仕事。フォーエバー仕事。だけど俺にだけは牙を剥かないでくれよ、仕事。


「それでセンセイ、早速教えてよ」


「え、何をですか?」


 エリカさんはニヤニヤしていた。


「渚ちゃんって恋人の話」


「……ああ」


 ふと、菜緒の顔を見て気付いた。 


 そう言えば、いつからだっただろうか。

 渚の話を俺から聞き出す際、菜緒の顔はあまり面白くなさそうになったのは。


 多分菜緒は、気心が知れていなかった俺の色恋沙汰だからやたらに面白がったのだろう。ある程度気心が知れた今、新鮮さも薄れて俺の色恋沙汰に興味がなくなってしまったのだ。

 ……このエリカさんとは違って。


 エリカさんは、わざとらしい咳ばらいをした。


「それではセンセイ。センセイと渚ちゃんの出会いを教えてください」


「え、嫌です」


「給料払わないわよ」


 え、嫌です……。

 職権乱用。しかし雇用主のご機嫌を損ねる行為は控えたい。今後、家庭教師を続けるためにも。


「俺、実家が田舎なもので。その、母親間が俺達が生まれる前からもうずっと仲良かったんです」


「それじゃあ、出会いは0歳」


「そうですね」


 きゃーきゃーとエリカさんが湧いた。色恋沙汰に喜ぶのは、老若男女関係ないらしい。いや、男は程ほどか?


「二人の馴れ初めは?」


「……その、この前の成人式での帰り、彼女の車で送ってもらった時に言われました。ずっと好きでした、と」


 多少フィクションを挟み、俺は照れながら言った。

 しょうがない。いきなり婚姻届を突きつけられたとは言えまい。これ、何度も思ったやつ。


「それからずっとラブラブなんだー」


「そうですね」


 平静を装って俺は言った。


「付き合ってからどんなところ行ったの?」


「御朱印集めはしましたね。趣味なんです」


「渋い。渚ちゃん、最初驚いたでしょうね。あ、でも知ってたのか」


「いや、知っていたことはなかったかなと」


「そう?」


 エリカさんの野次馬根性がヒートアップしてきていることを、俺は肌で感じていた。これは続けるのは良くない、と思い始めていた。


「いいわねえ。若くて。でも、そんなにラブラブなら付き合う前から色々あったんじゃないの?」


 ほらやっぱり。

 根掘り葉掘り全部聞く気だ、これ。


「いえ、あんまり」


 まあ、それは嘘ではない。小学校、中学校を経て、高校からは別の学校に俺達は進学をした。同性との大友との交友は途切れることなかったが、渚とはそうもいかなかった。


「またまたあ。だって菜緒から聞いたわよ、二人のラブラブ具合」


 余計なこと言ってくれて、と菜緒を睨むも、菜緒はいつかの彼女のように静かに一人ご飯を食べていた。




「何もないなんてありえないじゃない! それだけ思い合ってたんだから!」




 ……エリカさんの言葉を聞いて、妙な胸騒ぎを覚えた。


 かつてからの自分の気持ちには、俺は説明が出来た。渚には気が合ったが、それ以上踏み込んでいけなかった自分の気持ちには気付いていた。


 だけど、渚はどうだったのだろう。


『大人になったら結婚しようね!』

 

 いつか渚と約束を交わした。小さい頃に、約束を交わした。


『明日までに判子を押して持ってきてね』


 婚姻届を突きつけられた時、渚とは再会して間もなかった。

 俺が彼女という女性の美しさすら忘れてしまうくらい……それくらい俺達の関係は軽薄になっていたのだ。




 なら何故、渚は俺に婚姻届を突きつけたのだろう。




 告白なら百歩譲ってまだわかる。

 久しぶりに再会し、浮かれた熱に煽られて軽はずみに要求してきたとしても、それならまだわかる。




 ……だが、結婚は。


 人生の局面を決めてしまう結婚は。




 再会間もない幼馴染に、いきなり迫れるような事なのだろうか。




 彼女は言ってくれた。


 俺のことが好きだと、言ってくれた。


 その言葉を疑う余地はない。

 

 疎遠になった時期があっても、俺のことは気にかけてくれていた。

 どれだけ具合が悪くても、俺のために遊覧船に乗り込んでくれた。

 親友の父が亡くなった時、俺の傍に寄り添ってくれた。


 いつだって微笑ましく、呆れるほどに彼女は嫉妬深かった。




 彼女の気持ちだけには疑う余地はない。

 ずっと彼女が俺のことを好いていてくれたのは事実なのだろう。




 ……でも、おかしくないだろうか。


 彼女は俺のことを気にかけてくれていた。

 彼女は俺に嫉妬深さを見せてくれた。




 ……だったら、予期出来たはずじゃないのか。




『な、なんでそんなに結婚に拘るんだ?』




 

 あの時、俺が臆して渚の願いを断るのなんて……俺のことを俺よりも知っている渚なら、予期出来たはずじゃないのか……?




 リスクばかり高い負け戦に出ずに、時間をかけて愛を育めば良かったのではないのか?




「センセ、顔、怖いよ?」


「……え?」


 菜緒に心配げに顔を見つめられて、正気に戻った。

 丁度その時、ポケットに入れていたスマホが震えた。


「ち、ちょっとすみません」


 取り繕うように、一度リビングから出た。微かに菜緒がエリカを責める声が廊下から聞こえた。そんな中、俺は電話に応じた。


 相手は、母だった。


「もしもし」


『ああ、宗太? 元気?』


 あまりにも何気ない会話。


「……昨日まで会っていただろうに」


『そうね。そうだった』


 あまりにもいつも通りの会話。





 俺は知っていた。




『宗太、落ち着いて聞いて』




 親友の父の死を目の当たりにし、知っていたはずだった。






『渚ちゃんが病院に搬送された』






 人は必ず死に、死ぬまでに会える時間、回数は定まっている。

 大切な人はいつまでも傍にいる。それが幻想、まやかしであると言うことを……俺は知っていたはずなんだ。


 スマホが手から滑り落ちた。

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