全てを知る男
平穏な一日
渚のご両親との挨拶を済ませて、名残惜しい中地元から東京へと帰還を果たした。渚同様しっかり者な彼女の両親は、先日の一件もあったのにも関わらず俺を本当に心から迎えてくれた。
渚の母とは、成人式以来の再会と最近会ったことがあったが、渚の父とは実に幼少期以来の再会となった。落ち着いた印象が強かった渚の父は、開口一番その時の印象通り優しい声色で俺との再会を喜んでくれた。
それからは旧知の関係だったこともあって、近況報告から始まり、御朱印集めにハマっていること。海が好きで度々一人で海岸に行くことを話したら大層面白そうに彼らは笑ってくれた。逆に渚は、一人で海岸へ行くんだと言ったらとても冷たい目をしていた。多分、海岸という場所が水着の男女が楽しむ場所だと勘違いをしていたのだろう。
浅はかだと心から思った。
海岸へ行くのは、冬の平日の昼間と相場が決まっているだろうに。
遊泳を楽しみに来た客など皆無で、いても釣り人、サーファーなその環境は、一人黄昏たい気分の時にはとっておきの環境だった。
『あたしという恋人がいながらなんで黄昏る必要があるのさ』
嫉妬深い渚の発言に、目を丸くしたのは彼女の両親だった。かの嫉妬深い彼女の姿が、誰でも……まして実の両親でさえあまり見れない姿だと知ると、心が満たされるような気分になった。そして、それと同じくらい渚への深い愛をより一層深められた。
そして、改まって彼女の両親に話をして。
実家に帰って、少し休んで。
渚と会って、渚と会って。
そんな楽しい三日を地元で過ごしての帰還。理由は、家庭教師のバイトと、コンビニのバイト。
コンビニのバイトは明後日からだが、家庭教師のバイトは明日から入っていた。
菜緒の母親には一日くらいいいのにと言われたが、仕事なのでと殊勝な心持で発言した。あの日の発言は、日に日に俺の深い後悔へと繋がっていた。
大学二年間は、実家に帰る行為は慣れ親しんだ地でぐうたらするだけの時間だった。実家でぐうたらするか、東京のアパートでぐうたらするか。
その差しかないから、両親には悪いがいつでも気ままに東京にふらっと帰ってもいいと思っていた。
しかし今は、地元が酷く恋しい。
いいや、渚だ。
渚が……渚の周りにいる人達が。
俺は、酷く恋しく思っていた。
東京帰還二日目のアルバイト。
気でもまぎらわせるためにいつもより三十分くらい早く彼女の家に向かった。勿論、事前に連絡していた。
菜緒の母は、俺の申し出を快く迎えてくれた。
ゴールデンウィークが終わればまもなく中学二年の中間テストが始まる。残り限られた時間、追い込みをかけたいというのは我が子を愛する故の感情だったのだろう。
正直俺は、俺の行いが菜緒にとっては迷惑極まりないだろうと思っていた。
俺は勉強はこなしていたが、嫌いだったから。今でこそ興味のある分野には精通しようと学びを深める機会も増えたが、もし俺に当時家庭教師がいて、同じ行動に家庭教師が出たら、ろくな態度をしなかったことだろう。
「センセ、こんにちは」
だから、菜緒も迷惑していることだろう。
幾何か申し訳ないと思いつつ、彼女の家のチャイムを鳴らすと、飛び出してきたのは菜緒だった。いつにもまして上機嫌だった。
「悪いな、いつもより少し早いのに」
「全然気にしてないよ。さ、入って」
そう言う菜緒は、本当に早くから勉強を始めることを嫌がっている素振りがなかった。促されるまま、俺は彼女の家にお邪魔し、リビングへ向かおうとする菜緒の後に続いた。
「エリカさん。今日はパートか」
エリカとは、菜緒の母の名前だった。
「うん。コップ運ぶの、手伝って」
「そのつもり」
そのつもりで彼女の後に続いたのだ。リビングへ行く時点で、薄々察していたから。
いつかの時と同様に、菜緒は冷蔵庫を開けた。
「あ」
途端、菜緒が嬉しそうに目を輝かせた。勝手に他人の家の冷蔵庫の中身を見て、いつか彼女が美味しそうに飲んでいたオレンジジュースの紙容器が置かれていることに気が付いた。
あんまり飲むと、エリカさんに怒られるぞ。
そう茶化そうと思ったら、菜緒は途端顔を暗くしてお茶を焙煎していた容器を取り出した。
「ジュース、いいの?」
俺は尋ねた。
「いいの」
「この前のこと、怒られた?」
「別に。バレてない」
「ならなんで?」
嗜好品を我慢してお茶を飲むだなんて、中学時代の俺なら考えられない行動だった。いやもしかしたら、それは俺が子供過ぎただけなのかもわからなかった。
「ジュースって子供っぽいから」
俺は目を丸めた。
「もしかして、また周囲の話を鵜呑みにしたの?」
「ち、違う」
「なら飲んだらいいのに。俺別にエリカさんに言ったりしないぞ」
「う、うるさいな。とにかくいいでしょ。ほら、持ってって」
お茶が注がれたコップが二つ乗せられたお盆を受け取って、俺達は菜緒の自室へと向かった。
なんだか再会一番に気を狂わされたが、それからは至って落ち着いて勉学に彼女は励んでいた。
いつも通り、回転椅子に座りながら遠巻きに彼女の解く問題を眺めていた。あまりにも詰まるようなら、解き方を教える。そんな感じで俺はいつも彼女にアドバイスを送っていた。
今菜緒が取り組む教科は数学。
五年前一度学んだ教科、範囲だったのに、一目見た時にどう解いたらいいのかわからなかった。色々と応用が凝らされた良い問題だと思わされた。
四苦八苦する菜緒に、そろそろ手助けでもしようか、と俺は彼女の顔を一目見て決心した。
「待って」
しかし、それを止めたのは菜緒だった。
「……解ける?」
「わからないけど、もうちょっと」
そう言って、菜緒は再び集中して設問に挑み始めた。四苦八苦すること三十分。
「どうかな」
問題を解き終えた菜緒が、緊張気に俺にノートを差し出した。丁寧に書かれた字でアルファベットを追い、果ての数字に俺は満足げに頷いた。
「正解。良く解けたね」
「やった」
渚と重なる謙虚な喜び方に、思わず俺は微笑んだ。
「……センセ?」
「ん?」
微笑んでいたら、菜緒に呼ばれた。
「この問題、難しかった」
「そうだな。俺も最初答えすぐにわからんかった」
「そうなんだ」
菜緒は、何故だか恥ずかしそうに俯いていた。
「でも、解けた」
「うん。凄いな、菜緒は」
「……うん」
なんだかしおらしい彼女に、具合でも悪いのかと俺は勘繰った。
……しかし菜緒が、なんだか頭を寂しそうにしているのを見て意図を察した。
「凄いな、菜緒は」
菜緒の頭を優しく撫でた。
途端、菜緒の顔が何故か赤く染まった。よくわからず間抜けな声を出しつつ首を傾げていると、
「手、止めないで」
その拍子に止まった手を、菜緒に指摘された。
「あ、はい」
しばし、俺は難問を解いた菜緒の苦労を労わり、彼女の頭を撫で続けるのだった。
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