待ち人。隣に立つ人。
数か月ぶりに帰ってきた地元は、いつもとなんら変わっていないように見えた。
畑。
国道。
踏切。
見慣れた景色に、見慣れた光景。
いつも通りのただの一幕。
しかし、久しぶりの渚との再会は鈍っていた感覚を取り戻させるかのように、春休みぶりの再会となる渚の今とこの前の姿を重ねさせた。
「渚」
「ん?」
「少し、痩せた?」
渚の体はただでさえ華奢だった。いつか言っていたことだが、彼女は結構食が細い。だから太るという感覚がわからないそうで、それをたまに自慢げに嘲笑っていた。こういうのをただの自慢といい、人に嫌われやすい人の特徴だと思ったが、運悪くそう文句を呈すことも出来ないくらい、俺と渚の交友関係は差があった。
多分、細身の体が好きな人が見れば、渚は羨望の眼差しに晒されるような人物だろう。
ただ個人的な意見としては、最早皮と骨とほんの僅かな肉しか持たない渚のプロポーションは、少しだけ危うく見えた。適正体重が人にはある。そこから大幅に増えることで体調を崩す人は多いが、逆のパターンも例外なく存在するのだ。
だからもし、渚が無理なダイエットでもしているのであればすぐにでもそれを止めさせたかった。
「あー、少し痩せたかも」
「そうだろう。駄目だよ。健康に悪いよ」
「宗太の日頃の生活の方がよっぽど健康に悪いよ」
確かに。講義のある日、ない日に左右されず、深夜三時過ぎに寝る生活は体に悪くて当然だろう。
返す言葉もないくらい言い負かされて、俺は助手席の窓から外の景色を眺めることにした。
「心配してくれた?」
渚が不貞腐れていた俺を見て気付いたのか、そう言った。
「……そうだよ」
「嬉しい」
「そりゃ良かった」
良かったが、それは根本的な解決にはなっていなかった。
「無理なダイエットなんてしなくても可愛いんだから、体には気を付けてくれよ」
「そうだね、気を付ける」
「……俺のためにしてくれたのなら、俺はそんなことじゃ喜ばないからね。俺は君が健康なことが、一番嬉しい」
「今日はやけに饒舌だね。素直だし」
「いつもは捻くれてるって言いたいのかい」
「そう……でもないかも。最近はずっと素直。宗太最近、ずっと素直。面白くない」
「それだと捻くれた顔が好きみたいだ」
「当然じゃない。宗太のする顔は、どんな顔だって好きよ、あたし」
純度の濃い惚気に、心臓が鷲掴みにされたような気分だった。しかし舞い上がっているものの、不思議と不快感はなかった。この時間をただ、楽しんでいた。
「そろそろ着くね」
しかし、渚のそんな一言で今度は不快感を感じるような衝撃を浴びた。
俺から望んだことなのに、どうしようもないくらい俺は緊張をしていた。最早渚にそのことを隠すことすら、出来ないくらいに。
「そんなに緊張してるならよせばいいのに」
「そうはいくか」
言ってから、ふと思った。
「渚こそ、あんなに嫌がったのによく俺とご両親の挨拶に付き合ってくれる気になったな」
「……だって、宗太が買ってきたんじゃない」
何を?
尋ねようとした時、渚がリュックの傍に置かれた俺が手土産として東京で購入してきたお菓子を指差していた。
「あれ、チョコでしょ?」
「うん」
「あんなのこの時期に車の中に放っておいたら、溶けちゃうじゃない」
「……うん」
「だから、勘違いしないでよね」
「……渚、まるでツンデレだ」
車が彼女の家に到着した拍子。車が停止した拍子。
渚は一目散にシートベルトを外して俺の背中に手を回してきた。
彼女と触れ合う時間は、最初に比べれば天と地ほどの差があるというのに、俺は初めての時のような新鮮な羞恥を感じ、頬を真っ赤に染めていた。
「な、渚?」
「キス」
「え?」
「……お父さんお母さんがどれくらい宗太を拘束するか、わからないじゃない」
「……うん」
「だから、キス」
「魚の?」
冗談を言うも、くだらないことを言う口は黙っていろと言わんばかりにその口を塞がれた。
……もしかして、彼女が自らのご両親を嫌う理由は。
俺とご両親をなるべく会わさないように取り計らった理由は。頑なな姿勢を示した理由は。
俺と一緒にいる時間が。
俺と二人きりでいる時間が僅かでも減る。それが堪えられなかったためなのではないだろうか。
唇が離れた。
「……ああ言えば、会わないって言ってくれると思ったのに」
「ああ言えば?」
「あたしのいない時間に勝手に会えばって言えば! 臆病な宗太は諦めると思ったの!」
やはり彼女は、嫉妬深い。微笑ましく、呆れてしまうほどに、嫉妬深い。
「どうしても会うの?」
「会う」
「でも、宗太のことを怒るかも」
「怒られても。認めてもらうまで謝るよ」
「……宗太、大人になったね」
「誰のおかげだ」
「大友」
「君だよ、君」
……あの日、この彼女に婚姻届を突きつけられなかったら。
今の俺は、多分なかったのだろう。
大切な人を守りたい。
大切な人と愛し合いたい。
そんな恋愛脳に染まる俺は、いなかったのだろう。
でも、そうなってしまった。恋愛脳に俺は、染まってしまった。
俺を染め上げた彼女と一緒に歩みたい。
そのために大人にならなければならないと思った。
そして、少しずつ。
俺は大人になりつつある。
辛いだけだと思った大人は、俺が思っていたよりも辛くなかった。
大切な彼女が隣にいれば、どんな辛いこともそうでないと錯覚してしまえるのだ。
「行こうか」
「うん。手短に済まそう」
車を降りると、青空の下に彼女の家が建っていた。
小さい頃から変わらない彼女の家が。
彼女と一緒に一番長い時間幼少期を過ごした家が。
少し、あの時とは角度が違って見えた。
手が届かないと思っていた扉のドアノブが、今では俺の腰位の高さにあった。
……背が伸びたから、角度が変わって見えた?
いいや違う。
隣に彼女がいるからなのだろう。
いつも彼女は俺を出迎えてくれる立場にいた。
幼少期も。先日の帰省の際も。
いつだって渚は俺を待つ人だった。
『宗ちゃん』
そう呼ぶ声が聞こえた気がした。
二階の窓辺に身を乗り出し叫ぶ幼少期の渚に、そう呼ばれた気がした。
「宗太」
渚は、隣にいた。
俺を待つ彼女は……もういないのだ。
ようやく。
俺達は隣同士に歩んでいくことが出来るのだ。
俺は今、渚と一緒に歩もうとしているのだ。
これからの人生を、歩もうとしているのだ。
その第一歩を臆してしまう惨めな俺は、もうどこにもいなかった。
渚の両親は、俺を温かく迎えてくれた。
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