些細な願い

 一人の少女の成長劇を間近で見て、自分の成長を肌で実感して。こんなにも沸き上がる気持ちが沸いているのは随分と久しい気がした。

 菜緒家での家庭教師の仕事を終えて、少し最後に菜緒と雑談をして俺は彼女の家を飛び出した。


 先日同様、俺は菜緒の母から夕飯を食べて行かないかと誘われた。


「お気持ちは嬉しいのですが、少し寄って行きたいところがあって」


「夕飯を食べてからじゃ駄目なの? お腹空いているでしょう?」


「……えっと、その」


 ご好意を無下にすることに慣れていなかった俺は、菜緒の母親に対して言葉を濁してしまっていた。

 そんな時、助け舟を出してくれたのは菜緒だった。


「お母さん、センセ、彼女と電話したいみたいだから帰してあげてよ」


 ニヤニヤと笑う菜緒が俺の気持ちを代弁してくれた。


 助かった……はずはなかった。ニヤニヤとする菜緒の母は、菜緒に遺伝子を託した者であることの証明のように、似通った笑みを浮かべていた。


「あらあら、お邪魔しちゃったみたいでごめんなさい。今度時間ある時にでも、じっくり聞かせて頂戴」



「あ、それあたしも聞きたい」


 この親子、先日まで関係悪化していた割に徒党を組むまでの時間が早かった。血が繋がっている証拠なのだろうか。

 この場でそれを拒めばもっと帰るまでに時間を要すると思って、


「わかりました。また今度、じっくり話しましょう」


 俺はそう言って、慌てて菜緒の家から立ち去るのだった。


「センセ、バイバイ」


「うん。まだ今度。体壊さない程度に勉強しておくように」


「うん」


 帰り道は、いつもよりも歩調が早まった。

 競歩大会への出場を目指しているわけではない。ただ俺は、一分一秒が惜しい気持ちでせっせと足を動かした。


 電車に乗り、地元にいる渚にメッセージを送った。


『後で電話する』

 

 メッセージはすぐに既読になった。


『なんだか嫌な予感がするんだけど』


 まるで俺の心中を察しているかのように、渚は鋭くそうメッセージを送ってきた。


『電話で話すよ』


『概要だけでも教えてよ』


『俺、君のことが好きなんだよ』


『知ってる』


 即メッセージを返してきた。


『ありがとう』


 そして、渚は続けた。


『それはこっちの台詞だ。とにかく、そのことで話したいことがある』


『来週のゴールデンウィークのこと?』


『そう』


『こっちに帰ってくる?』


『うん。三日くらいいるつもり』


『やった』


 喜ぶ渚のメッセージを見て、駅に辿り着いた俺の前に電車が滑り込んできた。その電車に乗り込んで、それからしばらくメッセージを続けて、夕飯を買うこともなく家に真っすぐ帰った。家に夕飯があるわけではない。何なら、多分冷蔵庫の中は空だろう。


 ただ今は、夕飯よりも何よりも早く渚と電話したかった。夕飯はそれからでもいいだろうと思っていた。


 部屋に飛び込んだ途端、俺は渚に電話をかけた。


『もしもし?』


 いつも通り、渚はワンコールで電話に出た。声は浮かれていた。


「もしもし、渚か?」


『うん。好きだよ宗太』


「はいはい」


『で、用件は何?』


「うん。ゴールデンウィークのことだ」


 電話の向こうから渚がソワソワしているのがわかった。ただ多分、これを聞いたらすぐにそれも真顔に代わるのだろうと思った。それでも俺はそれを言わずにはいられなかった。


「ゴールデンウィーク、駅まで迎えに来てくれないか?」


『勿論。そのままどこに行こうか?』


「まずは渚の家に行きたい」


 渚の声がパタリと途絶えた。


「渚?」


『嫌だ』


 俺は黙った。


『いいよ、あたしがいない時にしてよ、お母さん達に会うの。折角会うんだから、そんなのいいよ、後でいいよ』


「お願いだよ」


『謝罪の場にあたしもいたら、あたしが居た堪れないじゃない』


「謝罪だけじゃない」


『じゃあ何よ』


「……思えば、まだ一度も挨拶してないんだ」


 菜緒家の家庭問題に不可抗力で首を突っ込んでみて、他人の家の事情に軽はずみに関わるべきではないなと一層思わされた。所詮他人の身である俺が血の繋がった人達の問題に首を突っ込むことほど野暮なことはないと思ったからだ。

 それは、渚の家の事情においても同じ気持ちだった。彼女のことが好きだが、彼女が彼女の親と不仲なことに対して何かを言う気は特別なかった。当事者でもない癖に首を突っ込んで文句を口にするのは、それこそ国会中継で踏ん反り返って時間をただ浪費させている政治家と何も変わらないと思ったからだ。


 ただそれでも俺は、渚に彼女の両親との挨拶の場に立ち会って欲しかった。彼女に両親との挨拶の場を設けて欲しかった。


 自分の成長を肌で感じた。

 まぎれもない渚のおかげで成長したことを、肌で感じ取ったんだ。


 だから思った。




 彼女を産み。

 彼女を育て。

 彼女と俺を出会わせてくれた彼女の両親に。


 俺はキチンとあの日の謝罪と……そして、お礼を言いたかった。運命なんて信じない俺が、俺と渚を出会わせるように環境を設けてくれた彼女の両親にお礼を言いたかったのだ。


「キチンと挨拶をしたい。話をしたい。

 君とお付き合いさせてもらっていること。君と一緒に旅行に行き、君に辛い思いをさせてしまったこと。


 そして、君との将来のこと。


 全部、伝えたいんだ」


 それが俺の想いだった。

 あの日、渚に婚姻届を突きつけられた時には考えられなかった。されど今では日に日に彼女への想いばかりが膨らんでいく。


 ……そんな愚直で馬鹿正直な俺の、些細な願いだった。




 渚は……。

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