成長したものだ
あの日の一件以降、菜緒は随分と親への態度が軟化して勉強にも真剣に取り組むようになっていった。と言っても、元より勉強は大真面目に取り組んでいる少女だったのだが、憑き物が一つ落ちたかのように、一切の雑念なく勉強に取り組むようになったのだった。
「センセ、見て見てっ」
あれからわずか一週間。いつもと同じ日に家庭教師の仕事に向かい、家のチャイムを押すと慌ただしい菜緒家から菜緒が紙一枚を持ったまま飛び出してきた。
俺は教え子の突然の行動に目を丸めていた。
「こら菜緒、お行儀が悪い」
「いいじゃない。いの一番にセンセに見せたかったんだから」
母親にブーブーと不満を垂れているものの、会話にならなかった数日前から比べれば菜緒の態度の軟化はやはりあからさまだった。
「こんにちは」
一先ず、丁寧に頭を下げた。
「こんにちは、センセイ。ウチの娘がすいません」
「こんにちは。で、ほらほら、センセ、見て」
「ん?」
菜緒に手渡されるまま、家の前で彼女から一枚の紙を受け取った。それはどうやら、社会の小テストのようだった。点数は百点満点。
「この小テスト、授業進度外も対象に含まれてるテストでさ、皆点数悪くって。でも、あたし満点だったの」
「そりゃあ凄い」
そもそも授業していない範囲を小テストに出すのがどういう了見なのか気になったが、まあ有名中学校ともなればそれなりに色々考えた末の配慮だったのだろう。
「菜緒、そろそろいいでしょ。続きは部屋でゆっくり話なさいな」
「うん、わかった」
そうして、菜緒達に囲まれたまま彼女の家にお邪魔した。
いつも通り階段を昇りながら、目の前を歩く少女の雑念を一つ払えたことが少しだけ誇らしかった。が、あの時の自分の行動が正解だったかと言われればどうにも納得しかねる時を一週間送っていた。
つい先日は、菜緒家の家庭問題のいざこざに首を突っ込むことをするつもりは、俺には一切なかったからだ。
家庭問題と言うものは、いつだってナイーブな問題が立ち上がる。それを第三者がことを荒立てたら、今回のように好転することもあれば逆に転がる場合だってあっただろう。もし俺の些細な言葉で彼女と彼女の両親との関係がより悪化したら、とてもじゃないが俺には責任を取ることは出来なかった。何せ俺は、ただ彼女の親に雇用された家庭教師でしかないのだから。
今回事態が好転したのは、多分運が良かっただけなのだろう。
菜緒がしっかり者の勤勉家だったこと。
菜緒の両親が菜緒に対して献身的だったこと。
だから、俺程度の些細な一言で家庭問題は好転した。多分、俺なんかの一言がなくてもその内問題は解決していたことだろう。
物思いに耽ながら、微笑を浮かべて菜緒の部屋にいつも通り入った。いつもの回転椅子に座り、勉強机に向かう椅子に菜緒が座って、しばらくしたら菜緒の母親が冷たいお茶を持って部屋に入ってきた。
お茶が注がれたコップから水滴が垂れて、菜緒の勉強机に微かな水たまりを作っていた。菜緒はそんなことに気付く素振りもなく、いつもより楽しそうに勉強に向かう準備を始めていた。
「センセ、ありがとうね」
ぼんやりと少女を眺めていたら、菜緒が言った。
「テストの件なら、それは君の実力だ。俺が勉強を見始めてまだ一月も経ってない」
「そうじゃない」
菜緒は首を横に振った。
「なんだか、色々と吹っ切れた気がするんだ」
「色々と?」
「うん。友達から親の話を聞いたらさ、皆親のこと嫌うような発言を良くするんだ」
反抗期という年頃であれば、多分それは珍しい話でもないのだろう。
「子供が親のことを好きなのは当然だと思ってた。だから友達の親と比較しても文句を言おうと思ったことは少なかった。だけど、友達が親のことを嫌っていると知った時、あたしの中の常識が崩れたの」
それで反抗期に繋がった、と。まあ、周囲の目を気にしだすのもこのくらいの年頃なら普通なのだろう。俺だってそうだった。だから、女子と絡むのが恥ずかしいと思って渚と距離を置いたりした。
「センセ。センセが正してくれたんだよ。あたしの誤解を」
それはつまり、先日のあの話のことなのだろう。あれで親の偉大さに気付いて、再び親への気持ちを取り戻せたのだろう。
「だから、センセ。ありがとう」
菜緒は丁寧に頭を下げた。
しかし、個人的にはどうにも腑に落ちなかった。この良いムードの中悪いが、俺は彼女の話を否定しようと思って、いつかは怖いと思った少女に話し始めた。
「それは違う」
そう言うと、菜緒は目を丸めて顔を上げた。
「違うって、何が?」
「俺のおかげなんかじゃないよ。だって、菜緒にいつも献身的で苦労を惜しまなかったのは君の親だ。自らの親の苦労を知り、尊敬を取り戻せたのは君が賢いからだ。俺の言葉なんてなくても時間が解決していたと思うよ。
君はそれだけ真面目で、しっかり者で、頭が良い。
まずはそれを誇ると良い。自分は周囲よりも賢い。口には出さずともそう思って、周囲をリード出来るようになると良い」
「……それはちょっと」
菜緒の口は重そうだった。
多分、謙遜したのだろう。自惚れだと思ったのだろう。
「自己評価が低くても、良いことないよ」
……微笑んで、そう言って。
いつか俺は、同じことを渚に言われたことを思い出していた。確か、初デートに赴いたその日のこと。
あの時の俺は自分に自信が持てていなかった。渚の隣に立って良いのかと思うくらい、自分に自信がなかったんだ。
あれから数か月が経った。
今では渚がいない生活なんて考えられなくなった。彼女の隣に立って良いのかと言う疑問もなくなり、ただ彼女の隣に立ち続けられるようになりたいと思うようになった。
「……成長したもんだな」
呟くと、菜緒は首を傾げていた。
「センセ?」
「ごめん。こっちの話」
成長した。
俺は、成長したんだ。
渚の隣に立ちたいと思い。
憧れた親友のような大人になりたいと思い。
親友のようではないが大人になりつつある今を思い。
色んな経験を経て。
濃密な経験を経て。
俺は……成長していたんだ。
そして、俺が自分で気付くほどに成長出来るようになったのは……。
「センセ」
「ん?」
「渚ちゃんのこと、考えてるでしょ」
「……うん」
多分それは、あの日俺の運命を変えてくれた……再会して間もない俺に、婚姻届を突きつけてくれた、彼女のおかげなのだろう。
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