大人と子供

 菜緒家での家庭教師の仕事は順調にこなせていた。本日も週に三日の家庭教師の仕事の日で、彼女の家に着きチャイムを鳴らすと、家から出迎えてくれたのは彼女の母……ではなく、菜緒だった。


「あれ、お母さんは?」


 俺は尋ねた。今日まで彼女の家にお邪魔すると、いつも決まって彼女の母が俺を出迎えてくれたからだ。


「パート。忙しいからセンセをお出迎えしてあげてだってさ。まったくうるさくてかなわない」


 開口一番親の悪口を言う菜緒に苦笑することしか出来なかった。


「さ、上がって」


「お邪魔します」


 一先ず彼女の家の前で立ち竦んでいるのも事案ものなので、俺は菜緒に促されるまま彼女の家にお邪魔した。いつものように二階の彼女の部屋に行こうとすると、先日夕飯を振舞ってもらった際に入れてもらった彼女の家のリビングへ、菜緒は向かっていた。


「先行ってて」


「どうかした?」


「お茶持ってく」


 そう言えば、家庭教師の仕事を始めてからというもの、いつも菜緒の母は俺達に麦茶を振舞っていてくれた。

 一先ず俺は昇りかけた階段を下って、菜緒に続いた。


「こういう時、男手は頼った方がいいぞ」


「……じゃあ、お願い」


 冷蔵庫の中を菜緒が覗いていた。嗜好品なのか、ジュースを見つけてそれをコップに注ごうとしていた。


「俺は麦茶でいいから」


「別に、気を遣う必要ないよ?」


「別に気は遣ってない。ただ今は、お茶を飲みたい気分」


「だとしたら気を遣わなさすぎだね」


 確かに。


 菜緒はジュースを並々注いだコップと麦茶のコップを用意して、それらをお盆に乗せた。


「ほら、持ってく」


「こぼさないでよ?」


「だったらこんなに注ぐな」


「だって、一々汲みに戻るのも面倒」


 こういう時、人の性格が見えてくるとしみじみと思った。

 慎重にお盆を運び、いつもより雑音のない彼女の家を歩いた。菜緒の部屋に辿り着くと、一層丁寧に彼女の机にコップを置いた。


「本当にこぼさなかった、凄い」


「いや、別に湧くところではない」


 数週間の間柄なのに、随分と菜緒とも打ち解けたなと思った。勉強を教える才は度々自分でも疑うが、彼女、親友と……しっかり者に取り入る才はどうやら健在らしかった。

 菜緒は親と不仲なところはあるが、基本的には年の割にはしっかりとした少女だと思った。彼女との関係も実にもう二週間超に及ぶが、今日まで俺は彼女が愚痴る場面を彼女の両親関連のことでしか聞いたことがなかった。勉強だって、多分そこまで成績が悪いわけではないのだろう。そんな彼女は、多分学校では優等生と謳われているのだろう。イメージ的には、中学時代の渚だ。


 まあだからやっぱり、時々彼女の両親に対する愚痴を聞いてなんとも言えない気分になることが俺はあった。不快というわけではない。親を煙たく思うだなんて、それこそこの年頃の子なら誰だってそうだと思ったからだ。かつての俺だってそうだったのだから。


 ただやはり……何と言うか、勿体ないと思ってしまうのだった。


 それでも、彼女の家庭環境に対する口出しをする気は俺は一切なかった。俺はあくまでこの子の両親に雇われた事業主であり、そんなことにまで口出しする権利も立場でもなかったから。むしろ、たかだか数週間の間柄なのにそんなことにまで口を出したら、それこそお節介以外の何物でもないはずだった。だから、俺が何かを言うことはありはしなかった。


「センセ、ごめんね」


 集中して勉強に励んでいた菜緒が声を発したのは、いつもの回転椅子に座り遠巻きに彼女の勉強を眺めていたそんな頃だった。


「今日、親が出迎えてくれなくて」


「気にしないでくれよ、そんなこと。まったく気にしてない」


「でも……本当、しっかりして欲しい」


「しっかり?」


「だって、あたしの中学の友達は皆、家庭教師を家に招く時に、いつもお母さんが出迎えてくれるらしいし、お菓子だったりジュースだったりを出してあげるみたいなんだもの」


「……へえ」


 なるほど。

 菜緒が彼女の両親を煙たく思っている理由。それがこの言葉でなんとなく透けて見えた気がした。


「だから、ごめん」


「謝る必要なんてない。だって、俺はあくまで君の家のご両親に雇われている身だからね。そんな豪華絢爛な対応されるような契約は結んでいないし、それをする義理が君の親にないのは当然だろう。それに、多分それは君の友達の親も一緒だよ。個人的にはより一層の成果を出さなくならなくなるから、そんな手厚い待遇は望んじゃいないしね」


「センセって喋るの好きだけど、結構ドライだ」


 そう言って苦笑する菜緒は、俺の言葉をまるっきり受け入れたようには見えなかった。多分、両親に対するしこりは残ったままなのだろう。

 菜緒が両親を煙たく思う理由。


 それは多分、劣等感なのだろう。


 この辺でも有名なお嬢さん学校に入っている彼女は、周囲と自分の環境を対比して劣等感を抱いてしまったのだろう。まだ金を稼ぐことが出来ない彼女にとって、待遇に差が出るとしたらそれは親によるところが大きい。だから彼女は親に辛く当たるようになってしまったのだろう。


「俺も君くらいの時、反抗期が酷かったんだよ」


「……そっか」


「親にさ、糞ババアって言ったことがあった。その時ウチの親、ババアだけど糞ではねえって俺を怒ったんだよ」


「アハハ。そうなんだ」


「中学の時、俺塾に通わせてもらってた。勉強はこなしてたけど、嫌いでさ。見たいテレビがあるのにそれも見れず、本当にいつも嫌だった。強いて良かったことと言えば、渚がいたことかな。あの時は全然喋ってなかったけど……」


 そう言えば、あの時塾に着くといつも渚がどこに座っているのかを探していた気がする。自覚していなかっただけで、あの時から彼女に気は合ったのだろう。


「塾の月謝って、どんなもんか知ってる?」


「え?」


「十万以上」


「……へえ」


「中学三年間、十万円を十二か月。それを三回。合計三百六十万円」


 菜緒は黙って俯いていた。


「多分さ、ウチの親は糞ババアじゃなかったんだよ。糞ジジイでもなかったんだよ。我が子のため、それだけの金を捻出してくれた親が……糞なわけないよなー」


 今年で大学三年になり、まもなく俺は大学を卒業し社会人へとなるだろう。そうして……渚ともし結ばれたとして、子を成して。小学校、中学校、塾、高校、大学。

 果たして俺は、我が子のより良い将来のためにどこまで金を捻出出来るだろうか。自信は一切なかった。


 だけど俺の両親は、今から俺が不安に思うそれを立派にやり遂げたのだ。


 大人になった今、だからこそ俺はそんな両親にかつてした非礼を心の底から申し訳ないと思っていた。


「俺から言えたことじゃないけど、家庭教師も結構金、かかるんだ」


「……うん」


「それだけの金を親がかけてくれてるんだから、ジュースだとかお菓子だとか、出迎えだとか……どうでも良いじゃないか」


「……ん」


 しおらしい菜緒に、俺は苦笑した。


「……どうすればいいかな」


 どうやら俺の言葉を真摯に受け止めたらしい。やはり彼女は、しっかり者だ。


「謝るか、お礼するか。とかか?」


「……うん」


「じゃあ、どうすればいいか教えてあげるよ」


 優しく、俺は続けた。


「勉強頑張って、成果を出せばいいんだよ」


「……え?」


「だってお前の親はさ、お前の成績を上げたいから、良い高校に進んで欲しいから俺を雇ったわけだろう? 口先だけのお礼より、いつ心変わりするかもしれない謝罪よりも、成果で示してやればいいんだ」


 目を丸める菜緒に、俺は続けた。


「……投資主として一番嬉しいことは、謝罪よりもお礼よりも、投資に見合うだけの成果を出してくれることだと思うよ?」


 それは、大人になった俺が金を支払ってくれた彼女の両親に示さなければならない成果でもあった。

 納得したのか、菜緒は再び俯いた。


 ふと、先日病気でしおらしかった誰かの顔と菜緒の顔が重なった。




「だから、一緒に頑張ろう」




 そう言って、菜緒の頭を撫でた。

 しばらくして、菜緒は顔をカーっと赤くして驚嘆としていたのだが、俺は彼女がなんでそんな素振りをしたのか、理由に気付くことはなかった。

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