中学時代の思い出

 二十時くらいの電車に乗り込み、家に辿り着いたのはそれから三十分くらい経った時のことだった。最近阿呆な政治家のせいで有料化されたビニル袋にペットボトル二本を携えながら、家に入るとなるべく掃除をするよう心掛けたおかげで清潔感が保たれた部屋が俺を迎えてくれた。


 夕飯の支度もせず、帰りの電車の中、出ることが出来なかった電話に折り返した。


 ワンコールで、彼女は出た。


『浮気者ー』


「はいはい。ただいま」


『おかえりー』


 彼女こと渚は、俺が菜緒という女子の家庭教師を担うようになってから電話に出るや否や不満を口にするようになった。その不満が半分おふざけであることはわかっていたが、もう半分が本気なのもわかっていたから少しだけ申し訳ない気分に俺はなっていた。その割には軽薄な返事をしたと我ながら思ったが、彼女が優しい声色で返してくれたので良かった。


「疲れたー」


『お疲れ様。こんな時間まで大変だね』


「んー。十九時から二十一時まで。人に教えるってのも意外と大変だと痛感している」


 菜緒家での家庭教師を始めて、まもなく二週間が過ぎようとしていた。週三日、菜緒家にお邪魔しては、いつもこの時間に帰るを繰り返していた。幸い、大学の講義の都合もないため、未だ快調なペースでの家庭教師活動を俺は続けていた。


『随分熱を入れて勉強教えてるのね』


「親御さんの意向だよ。五月の末に中間テストがあるだろう。そこまでに何とかテストの成績を上げたいそうだ」


 菜緒の年齢は十三歳。中学二年。来年にも高校受験を控えた親の身となれば、危機感を感じ始めてもおかしくないタイミングなのかなと思っていた。


『菜緒ちゃん、そんなに勉強苦手なの?』


 まだ会ったこともないのに、渚は俺の教え子を既にそんな呼び名で呼んでいた。ちなみに菜緒も、渚のことは渚ちゃんと呼んでいた。やはり彼女ら、結構似たもの同士なのかもと思っていた。


「地頭は多分良いよ。それこそ中学時代、のほほんと過ごしていた俺よりは断然」


『それは凄い。宗太、昔から面倒臭がり屋なだけで勉強自体はこなしてたのにね』


「勉強はこなしていただけで好きではなかったからね」


 勉強自体をこなさなかった結果、それ以上に面倒な事態に見舞われることを察して止めただけだ。

 ペットボトル一本は冷蔵庫へ。もう一本を持って自室の机に置いた。机の前の地べたに、俺は腰を下ろした。

 炭酸飲料が封を開ける際のプシュッという音が、耳に馴染んだ。


『……そういえばさ』


「ん?」


『家庭教師の仕事が終わったのが二十一時。電車に乗ったってメッセージくれたのが二十二時。一時間何してたの?』


「飯を食ってた」


『どこで?』


「教え子の家」


 答えると、電話の向こうから返事が消えた。


 家庭教師の仕事を終えた俺は、勉強終わり様子を見に来た菜緒の母に夕飯をご馳走されたのだった。なんでも菜緒は、先日学校の国語で執り行われた小テストで満点を取ったそうだ。

 まだ彼女に勉強を教えてわずかな頃の話に、俺はそれは菜緒さんの手柄だと強調したのだが、彼女の母はそれを謙遜だと取ったのだった。

 その結果、俺は菜緒家の家族団らんに交じって夕飯を頂くことになった。彼女の母が俺をおだて、彼女の父が少し冷笑していて、菜緒はと言えば親に確執でもあるのか勉強中とは違って物静かにご飯を食べていた。

 正直、勉強を教えるよりもよっぽど疲れる思いをしたと思った。今の疲れが、今更ながらそれによるものだと思い始めていた。


『宗太?』


「ん?」


『菜緒ちゃんのお母さんの振舞うご飯、美味しかった?』


 渚の言葉が少し冷たかった。何やら嫉妬しているらしい。


「いや……」


 即否定に近い言葉を紡ぎかけた。多分、別にまずかったわけではないと思う。


『即否定ってそんなに?』


「いや、その……味、わからなかった。居た堪れなさすぎて」


 出来ればもう、あの場には立ち会いたくない。心労が絶えなくなってしまうから。


 心の底から思ったのだが、俺の紡いだ言葉に渚はとても嬉しそうにそっかそっかと捲し立てていた。薄情者だと、初めて渚をなじりたいと俺は思った。


『そんなに居た堪れなかった?』


「ヤバイ。父親は何を思ったか俺を敵視しているし、母は饒舌だし、菜緒はずっとつまらなさそうに飯を食ってた」


『菜緒ちゃん、もしかして反抗期なのかな?』


「もしかしなくてもそうだと思うぞ。結構態度が露骨だ」


 ……そう言えば、電話の向こうの彼女も親との関係が良好とは思えなかったな。何か思うところでもあるかもわからない。


『まあ、中学の頃なんてそんなもんだよね』


「そうだなあ。俺もよく親に糞ババアと言ったものだ」


『あ、それおばさんに聞いたよ。ババアは合ってるけど糞は余計だって怒ったってやつ』


「そうそう。昔から我が家はクレイジーな人間が多い」


『筆頭株がなんか言ってる』


「筆頭株なんてとんでもない。俺は一番まともだろう」


『えー、そんなことないよ。宗太って、昔から変わり者だったよー?』


 そうだろうか、自覚はなかった。


「例えば?」


『小学校の時、授業中に空見て黄昏出したり、友人の定義を授業中に語りだしたり、色々』


「そんなことしてたか、俺?」


『当人はそういうこと、すぐ忘れるものさ。周りはインパクトの強さに、あの時の宗太ののほほんとした顔も相まって未だ覚えてる』


「のほほんとしてたのかー」


 まあ確かに、今更思えばクレイジーと評す母の息子なのだから、遺伝子的に俺が普通じゃなくても何らおかしくはないのだろう。


『よく覚えてるでしょ? 宗太のことだもんね』


「……なんかいきなり言い出した」


 これが巷で噂のセルフ惚気、か。いやそんなもの流行ってねえ。

 そういえば、いつか彼女に言われた。俺のことはなんでも知っている、と。あの時は母親伝いに情報が取れるから、と言っていたが、俺が忘れた小さい頃の記憶さえ覚えているというのなら、それは最早渚は俺よりも俺に詳しいことになるのだろう。


 ……考え終えて、とても恥ずかしいことを考えていたことを悟り、俺は頬を染めた。


「そ、そう言えば再来週からゴールデンウィークだ」


『そうだね。こっち帰ってくるの?』


「勿論。渚のご両親に謝りに行かないといけないし」


『もうっ。それは嫌。本当に嫌っ』


 本気で嫌がる渚は珍しかった。


「いや、こればっかりは駄目だ」


 しかし、当時のことを思うと俺は彼女の望みを叶えるわけにはいかないと思っていた。彼女を一番間近で見てきて、ここまで彼女を必死に育ててきたご両親に、俺は謝罪の一つくらい面と向かってしないといけないと心の底から思っていた。


『だから、本当に嫌なの』


「駄目」


『宗太……お願いだよ』


「……駄目、こればっかりは絶対に駄目だ」


 しばらく渚は静かになった。沈黙に耐えかねて話しかけようと思った時、


『ふんっ。勝手にすればいいじゃない』


 渚が折れて、ようやく俺は彼女のお許しを得ることが出来たのだった。


『その代わり、あたしがいない時間にしてよね』


「わかった。そうするよ」


 ささやかな渚の抵抗を快諾しつつ、それからもしばらく雑談をし合って、渚の寝息が聞こえた頃に俺は電話を切った。

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