前途多難

 ファーストコンタクトは前途多難だった。これからしばらくこんな怖い子相手に勉強を教えなければならないのか、とか、下手こいて怒られたりしないだろうか、とか。そんなことばかり考えていた。


「それじゃあセンセイ、ウチの子よろしくお願いしますね」


 唯一の気持ちの拠り所は話しやすそうな母親だと思っていた。しかし、彼女は早速俺と女生徒、もとい菜緒さんをおいて部屋を後にした。


 自己紹介っきりで放っておかれるのは予想だにしていなかった。まだ素性の深くもわからない男と娘を、よく二人っきりに出来るなと驚愕した。


「……えぇと」


 とりあえずこの場をどうにかしないといけないのだろう。年長者として。そう思って菜緒さんの方を振り返った。

 菜緒さんは俺を放って勉強机の方に戻っていった。辛い。


「……何してるのさ」


「へ?」


 突然声をかけられて、俺は間抜けな声を出した。


「勉強、教えてくれるんでしょ?」


 そう言う菜緒さんは、さっきまで弄っていたスマホをスリープモードにして机の端に置いていた。どうやら勉強する気はあるらしく、俺は安堵のため息を吐いていた。


「はい」


 ぶっきらぼうに菜緒さんが、俺の前に事前に用意されていた椅子を置いた。


「失礼します」


「一々言わなくていいから。うるさいなあ」


 この場を和まそうとふざけたのだが、若干十三歳の少女には二十歳のノリは合わないらしい。


「で、あたしは何をすればいいの?」


「ん?」


「勉強、教えてくれるんでしょ。何をすればいいの?」


 ……初対面の時からは想像つかなかった程、意外と菜緒さんは勉強熱心らしかった。やる気があるということは、それだけ頼られているみたいで、俺も少しだけ頑張ろうと思えた。


「そうだね。じゃあまずは、初日だから雑談から始めよう」


「え、そんなことでいいの?」


「これからしばらく一緒に勉強する間柄になるんだから、互いのことを知ることは大切なことだろう?」


「確かに。なんだかこなれてるね、センセ」


「ああ」


 俺は得意げに指を立てた。


「ネットニュースで見てきたからねっ」


「……ネットニュース?」


「うん。今の時代、家庭教師はどういう風に教えたらいいとか、そういうマニュアルもネットに転がっているからね。便利な時代になったよ」


 ガハハと笑うと、菜緒さんから白けた目で見られた。


「と、とにかく。自己紹介……はさっきしたね。少し話そうか。勉強はそれからでも遅くない」


 そう仕切り直して、俺は菜緒さんとのぎこちない雑談を開始した。

 まさか雑談から始められるとは思っていなかったようで、菜緒さんは戸惑いを隠せない様子だった。しかしそれでも、賢明に言われたことをこなそうと俺との雑談を続けてくれた。


 数分の会話で、なんとなくだがこの井上菜緒という少女の人となりが見えた気がした。事前の資料では中学二年でこの辺でも有名な私立女子中学に通っていたことは知っていたが、やはり紙で見る情報よりも実際のイメージの方が大切なんだなと思わされた。


「なんだか拍子抜け」


 しばらく互いのことを話して、少し互いに慣れ始めた頃、菜緒さんは肩の力を抜きながらそう言った。


「何が?」


「家庭教師を親が呼ぶって言うから、勉強漬けになると思ってたから。かなり身構えてた」


「これからそうなるかもしれないよ。全ては俺の忖度次第」


「裁量じゃなくて忖度なの?」


「ああ、私怨バンバン出すよ、俺。下手なことはしないように」


「……本気?」


「ごめん。冗談だから信じないでくれ」


 軽口を叩いたのだが、本気にされてかなり焦った。慌てて取り繕うと、菜緒さんは笑い出した。


「わかってるよ。センセ、そんな度胸あるように見えない」


「なんだよ、それ。お人が悪い」


「先に仕掛けたのはそっちだ」


「確かに。文句言う筋合いなかったわ」


 場を和ませようと苦笑した。ようやく、菜緒さんとも多少は打ち解けてきた気がした。


「センセ、初対面はもっと大人しそうだと思ったのに。よく喋るね。なんだか女の人の扱いに慣れてるみたいで結構意外」


「アハハ。何せ俺、彼女がいるからな」


 得意げに腕を組んで言い放った。

 言い放ってから後悔した。初対面の人に惚気話なんてするもんじゃないと思った。


 しかし、女子は色恋沙汰をめっぽう好む人種であることを俺は忘れていた。


「へえ、どんなどんなっ!?」


 いきなり年相応に目を輝かせて見せた菜緒さんに、俺は呆気に取られた。


「写真ないの? 写真」


「……あるけど」


「はい」


「はい?」


「見せてよ」


「なんでそんなことをせにゃならん」


 俺は照れて顔を赤くした。出会ったばかりの少女になんでそんな真似をしなくてはならないのか。


「いいの?」


「何が」


「お母さんに、さっきセンセに言われたこと言うよ?」


「じっくり拝んでくれよなっ」


 失うものばかりだった俺は、写真の一枚くらい安いものだと思って渚を売った。スマホの待ち受けのお気に入りの渚の写真を見せると、菜緒さんはほへーと感嘆の声を上げた。


「凄い可愛い」


「そうだろうそうだろう」


 恥ずかしいが、ここで謙遜したら負けだと思った。


 何と戦っているのかはわからないが!!!


「こんな美人な人、センセどうやって引っかけたのさ」


「幼馴染なんだよ」


 再会するや否や婚姻届を突きつけられたことは黙っていようと思った。


「へー。ロマンチックだねー」


「これでも彼女、凄い嫉妬深いんだ」


 こうなれば自棄だと思い、いっそのことこの機を菜緒さんとの距離を縮めるチャンスだと俺は思った。


「初めての家庭教師で女子が生徒になると知った時、誓約書を書こうと言われた」


「どんな?」


「変なことをしたら俺を殺してあたしも死ぬと言っていた」


「え、怖い」


 普通に引かれた。良かった。俺のあの時の感想、正常だったみたいだ。


「でもセンセ、そういうところが好きなんでしょ?」


「ああ、大好きだぜ」


「いいなあ。あたしも彼氏欲しいなあ」


「作れるだろ。菜緒さんの顔立ち、整っているように見えるよ」


「ちょっと、その菜緒さんっての止めて」


「え、急に何?」


 唐突に噛みつかれて、俺は目を丸めた。

 菜緒さん呼びを止めろ。つまり苗字、あるいはもっと敬う呼び方をしろと言うことだろうか。最近の女子中学生って本当に怖い。


「菜緒でいいから」


「あ、そういう」


 なんだか拍子抜け。


「ほら、呼んでみて」


「菜緒」


 即答すると、面白くなさそうに菜緒は目を細めていた。


「センセのせいで、勉強する気がなくなった」


「それは困る。怒られるのは俺なんだから」


「でもなあ、センセの話聞いている方が面白いよ」


「俺と話すのが面白いと思ってくれているなら、その時間を長くとれるように勉強を頑張ろう」


「えー……」


「菜緒。ここで勉強をサボると、どうなるかわかるか?」


 菜緒は黙って首を横に振った。


「仮にここで勉強をサボったとする。すると次のテストで点数が落ちる。結果、今よりももっと勉強をするよう親に叱られる。結果自由な時間が激減する」


「……それは、ヤだな」


「だろ? 遠きに行くは必ず近きよりす。物事は順序だててやらないと、一段飛びをしてサボろうとすると、碌なことにはならないって格言だ」


「物知り。さすがK大」


 ふふんと鼻を鳴らした。


「とにかくそういうわけで、勉強は頑張ろう。なるべく成績アップに貢献出来るように俺も頑張るよ」


「そうだね。お母さんの呼んできた家庭教師に乗せられるのは癪だけど、頑張る」


「うん」


 微笑んで頷き返しながら、さっきの母親が傍にいた時の彼女の態度と今の態度。そして、今の台詞の真意を考えた。


 わざわざ聞き返そうとは思わなかったが、彼女はなんとなく、母のことが嫌いなのだろうと思った。もしくは、嫌いとまでは行かずとも、煙たく思っているのだろうと思った。


 まあ中学二年なんて反抗期真っ盛りだし、別に珍しい話でもないと思った。俺も奈緒と同じくらいの年の頃は碌に母と口を聞かなかったことを覚えていた。


 ただ最近になってようやく両親に抱くようになった個人的な内心からすると、親を煙たく思う奈緒のことを勿体ないことをしているものだと思わされた。


 何せ、人は必ず死に、死ぬまでに会える時間、回数は定まっているのだから。

 大切な人はいつまでも傍にいる。

 それが幻想、まやかしであると言うことは、俺の親友が教えてくれたことだった。

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