少し大人になれた男
冷たい海の中、渚を抱えて陸を目指した。出航してまもなくだったことも幸いして、陸へはすぐに上がることが出来た。
寒い冬の出来事に、体の体温が一気に奪われていくのがわかった。しかし隣で気を失っている渚が心配で、俺は着ていたコートを彼女にかけた。
救急隊はそれからまもなく到着した。
暖かな毛布を手渡されて羽織って、担架で病院に連れて行かれる渚に付き添った。
救急隊からは、こっぴどく叱られた。
彼氏ならキチンと彼女の状態を判断しないと駄目ではないかと言われ、返す言葉もなく俺は項垂れることしか出来なかった。
渚は出雲の病院に入院する運びとなった。検査入院というやつだ。目を覚まさないくらいで大事に至っていることはないと医者に診断された。目を覚まして異常がなければ、すぐにでも退院出来るだろうとのことで、俺はようやくホッと胸を撫でおろすことが出来た。
大事には至らなかった。
とは言え、それで全てが万事解決とはならなかった。当然だ。
他人に迷惑をかけて、彼女を危険な目に遭わせて。
救急隊の人の言う通りだと思った。渚はずっと具合が悪そうだった。まともな判断が出来るはずがなかったんだ。
一昨日の夜、もっと強く断っておくべきだったのだろう。
昨晩、電車に乗らずに東京で楽しむ策を講じるべきだったのだろう。
旅館で、遊覧船なんて興味ないと言えばよかったのだろう。
遊覧船で、海に気を取られることなく渚を見ていればよかったのだろう。
後悔の念ばかりだった。
こうして安らかに眠る渚を見て、こうなった責任が自分にあることを理解して、俺は今にも泣きそうな気分だった。
「……あれ」
そんな頃合いに、渚が目を覚ました。
「渚。大丈夫か」
「……宗太?」
渚が上半身を気だるそうに起こして、背筋を伸ばした。
「……いつ旅館に戻ったんだっけ?」
呑気なことを言う渚に、ずっと張りつめていた緊張の糸がぷっつりと切れたのがわかった。大きなため息を吐いて、天を仰いだ。
「具合はどう?」
「……大丈夫よ?」
「まだやせ我慢をするか」
そう言うと、ばつが悪そうに渚は目を逸らした。
「海に落ちたんだよ、渚。ここは病院だ」
「……え」
当人はそこまでの大事になっていたことを予想だにしていなかったのだろう。驚いたように、渚は目を丸めて顔を青くさせた。
「本当に……」
……本当に。
無事でよかった。
涙が零れた。
後悔したこと。失敗したこと。それに対する反省、今後どうすればいいか。さっきまでそんなことばかり考えていた。
ただ、無事であった渚の姿を一目見て。
そんなことどうでも良くなるくらい、心の底から安堵していた。
……でも、それではいけないのだろう。
無事でよかったから全てが終わり。そんな甘い話はこの世にない。
保護される子供の内はそれでも良いかもしれない。
でも俺は……辛いだけの大人になりたいと、そう願ったのだから。
「ごめんな」
まず俺は、危険な目に遭わせてしまった渚に謝罪を口にした。
「一昨日の夜から……俺は君の願いを叶えることが君のためになると思っていた。だから辛そうなことがわかっているのに旅行に連れ出した。どれだけ君に憎まれても、俺は君の状態を見て拒否しないといけなかったんだろう」
整然と語ると、罪悪感が胸を締め付けた。
「……今度、おじさんおばさんに謝りに帰るよ」
それが、彼女を危険な目に遭わせた俺が取るべき贖罪だと、そう思った。
ただ、彼女以外、今回の件で迷惑をかけた人に俺はどう贖罪していけばいいのだろう。漠然とした不安だけが駆り立てたれた。
「宗太」
渚の声に反応は出来なかった。
「……ごめん」
渚は謝罪した。
ようやく俺は、俯くのを止めて渚を見た。
「迷惑をかけて、本当にごめん」
「……渚は悪くない。君を守るのが俺の役目であり義務だったんだから」
「宗太は大人だね。あたしと違って」
そんなことないと、俺は黙って首を横に振った。
「当事者のあたしが一番悪いのは否定しようがないよ。あたし今回、碌な言い分一つもしてない」
「でもそれは……俺のためだ」
「無理やり納得させただけじゃん。優しい宗太に付け込んだだけじゃん」
渚は自嘲気味に微笑んで、続けた。
「ありがとう」
「……え?」
俺は目を丸めた。
「宗太、ありがとう」
渚は、優しく微笑んでいた。
「だってさ、宗太。宗太はあたしを守ってくれたんだよ? お礼を言われて然るべきだよ」
助けた。
渚を、助けた。
あのままもし、彼女が海に転落したままただ救急隊の助けを待っていたら、彼女は死んでいたかもしれない。
だから、助けた。
いいや、助けた当時、俺はそんな理論ぶった思考で彼女を助けたわけではなかった。
ただ……。
ただ、彼女のことが大切だから。
失いたくないと思ったから。
だから……。
そうか。
……憧れた親友のような大人にはなれないのだろう。
俺は身内の不幸が起きた時、彼のように毅然に振舞えないだろう。彼のように参列者に丁寧に頭を下げられないだろう。
そんな理想な大人にはきっとなれないのだろう。
でもそれだけが大人の姿でないことを、俺は今知った。
いつか渚が言って、釈然としない言葉があった。
俺がもう大人だと言う渚の言葉が、俺はずっと釈然としてこなかった。
でも今回の一件を通して、大切な人を守ることが出来た今。
今、初めて俺は一つの答えのようなものを見つけた気がしていた。
大切な人に信頼されること。
大切な人のために周囲に行動を促せること。
大切な人とその親族の痛みをわかり、泣けること。
渚はそれが出来る俺は大人であると言った。
大人であるから、責任を取った対価として渚から今、俺はお礼という報酬をもらえた。
責任を取る代わりに、大切な人の愛おしい笑みと言葉をもらった。
もし……。
もし、これも一つの大人の姿だとするならば……。
親友とは違う、大人の姿だとするならば。
大人というものは俺が思っていたよりも、辛くないものなのかもしれない。
そう思った。
だからいつまでも、彼女のことを守っていこうと、決意を固めた。
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