責任という重荷

 疲労が溜まったという彼女は、明らかに具合が悪そうだった。先日のショッキングな一件が脳裏に過るくらい、それくらい気だるそうに渚はしていた。


 俺のアパートまでなんとか連れてきて、手を引いてすぐに渚をベッドに寝かせた。


「熱、測って」


 体温計を見つけて、俺は渚にそれを手渡した。


「嫌」


 渚はそれを拒んだ。


「駄目だ。具合悪そうじゃないか」


「……いやぁ」


 まるで子供のようだと思った。愚図る渚というのは、再会した前から思い出しても一度だって見たことがない姿だった。


「大丈夫。こんなの大したことない」


「何を言う。とてもそうは見えない」


「大丈夫ったら大丈夫なの」


 渚が珍しく反抗的だと思った。こうまで妥協策を探さず、一貫した姿勢を見せる彼女も見たことがなかった。やはり、調子が悪いからそうなっているのだろうと俺は当たりを付けていた。


「渚、このままだったら明日の旅行、中止にするしかなくなるぞ」


 それは脅しでもなんでもなく、彼女の体調を鑑みたら当然の判断だと思った。


「大丈夫。ちょっとバイトで疲れただけ」


「でも……」


「大丈夫。子供じゃないんだもん」


 子供じゃない。

 未だ自分が大人になったと思えない俺は、常々傍にいる渚と大友のことを自分よりも大人な人間だと思い生きていた。

 だから、自分よりも大人な彼女にそう言われると……反論の言葉は鳴りを潜めるのだった。


「とりあえず、一晩ぐっすり寝て。幸い、電車も発車は夜だ。休んで快復するか見よう」


「……うん」


 弱弱しく渚は頷いた。


「宗太」


「何?」


「……ごめん」


「……謝るくらいなら」


 明日の旅行、中止しよう。

 言いかけて止めた。どうせ言っても聞かないし、やはり俺も彼女と二人で旅行に行くのを楽しみにしていたからだった。


 一夜が明けても、渚の体調が回復することはなかった。

 むしろ昨日よりも悪化している気がするのは、ただ単に俺が心配症なだけなのだろうか。そうであってくれと祈る気持ちに俺は気付いていた。

 長い春休みのせいですっかりと夜型となっていたのに、渚が心配で早朝から目が覚めた。渚が寝息をしていただけで安心してしまうくらい、どうやら俺は彼女の身を案じていた。

 朝、気だるそうに起きた渚に御粥を食べさせた。半分くらいしか食べることが出来ない彼女を見て、やはり今日の旅行は中止にすべきだと俺は思い始めていた。


「嫌」


 言うまでもなく、渚には俺が何を言おうとしていたかはわかっていたらしかった。


「なんでさ。不調のまま行っても、楽しい旅行になんてならないよ」


「……だって、一月以上も楽しみにしてたんだよ?」


 泣きそうな渚は続けた。


「一緒に電車の予約を確認して、旅館を確認して、どこに行こうか頭を抱えて、バイト代を溜めて……ようやく旅行に行けるのに、嫌だ。嫌だ」


 ……いきなり婚姻届を突きつけてきたり。

 大人と思っていた彼女は……どうやら相当な頑固者だったらしい。いや、譲れないところは絶対に譲らない、というのが正しいか。


 俺は悩んだ。

 このまま彼女を連れ出して良いものかと。いや良いわけない。良いわけがあるか。


「宗太」


 渚は懇願するように俺を見ていた。

 その視線に、どうしても異を唱えることは出来なかった。


「と、とにかく様子を見よう」


 俺は逃げた。その場しのぎで事態が好転してくれることをただ祈った。


 事態が俺の願う方向に進むことが滅多にないことをわかっている癖に、俺は祈り続けることしか出来なかった。決断さえ、出来なかった。


 気付けば、看病疲れからか俺は転寝をしてしまっていた。

 カラスの鳴く声が部屋の向こうから響いていた。沈もうとする夕日を見て、もう夕暮れ時かと焦りを覚えた。


「な、渚は?」


 ふと、さっきまでベッドで寝ていた渚がリビングにいないことに気が付いた。どこに行ったのか。

 まさか……。

 最悪な事態が脳裏を過って、慌てて玄関に走った。渚が履いてきた靴は、そこにキチンとあった。


 ……と、言うことは。


「どうしたの?」


 風呂場から出てきた渚をしばらく見つめて、強張った全身の筋肉が一気に緩んでいくのがわかった。思わずその場で尻もちをついていた。


「どうかした?」


 安堵の深いため息を吐く俺に、渚が尋ねてきた。


「……渚が夢遊病でも発症して、意識混濁のまま外に出たのかもと心配になったんだ」


「何それ、意味わかんない」


「……俺も落ち着いてきて、おかしなこと言っていると思ったよ」


 髪を掻き上げると、額についていた汗がべっとりと右手に付いた。不快感に襲われたが、渚がこちらに近寄ってきて漂ってきた良い匂いでそんな気も薄れた。


「ご心配をおかけしました」


「もう大丈夫?」


「うん。ばっちり」


 ……少しだけ不安は残った。さっきまであんなに頑固な姿勢を見せた彼女だったから、旅行直前になってやせ我慢を始めたと思えて仕方なかった。


 本当に大丈夫なのかと聞こうと顔を上げた時、額に何かが触れた。

 すぐにそれが渚の額であることに気が付いた。何度も口づけは交わした間柄なのに、未だ彼女の顔が近くなるだけで俺は照れてしまうのだった。


「宗太の方が熱いじゃない」


 からかうように渚に言われた。


「……悪かったな」


 とにかく不安も拭えて、悪態をついたものの安堵する気持ちが胸に広がったのは事実だった。


「行きの電車までは、まだ結構あるね」


 何せ、サンライズ出雲の発車時刻は深夜も深夜だった。


「夕飯作るよ」


 渚が言った。


「御粥にしよう。病み上がりだし、重いのも良くない」


「えー。お肉食べたい」


「我慢しよう。俺も一緒に御粥にするから」


「……むー」


 幼稚っぽく膨れる渚が愛おしかった。そして同時に、心の底から安堵していた。なんとか旅行は行けそうだと思うと、とても嬉しかった。


 それから俺達は質素ながら夕飯に御粥を食べて、渚に出発の間休息してもらって、荷物を持って家を出た。


「持つよ」


 渚が持ってきていたリュックを背負った。病み上がりの彼女に負担を強いたくなかった。

 渚は申し訳無さそうにお礼を言ってくれた。


 とにかく、そんな一幕を経て俺達は東京駅に辿り着いて、それからしばらくしてサンライズ出雲はホームに滑り込んできた。


「意外と広いね」


「本当だね」


 予約した部屋に入るや否や渚が言った。同意する程度に、この部屋に居心地の良さを既に感じ始めていた。

 サンライズには客室以外にも食堂車等が併結されていた。中でもシャワー室はすぐに券を買わないと売り切れてしまうそうで、一度渚を部屋に置いてシャワー券を買いに向かった。もしかしたら翌朝風呂を浴びるかもと思っていたし、使わなかったら使わなかったでいいかもと思っていた。


「おかえり」


「うん。具合大丈夫?」


「こんな数分で変わったりしないよー」


 昨晩再会してからというもの、どうしても渚の具合の心配ばかり俺はしてしまっていた。いい加減鬱陶しいと思われそうだが、ついつい聞いてしまうのだった。


「電車の揺れで悪くなるかもしれない」


「意外と揺れも酷くないし、大丈夫だと思うよ?」


「……そう? とにかく、今日は早めに寝よう。俺もすぐに寝るから」


「えー、勿体なーい」


「駄目。明日楽しむためだよ」


 膨れた渚が、しばらくして不承不承気味ながら理解してくれたように頷いた。

 丁度その頃、電車は品川を過ぎて行った。


「宗太」


「何?」

 

「……すぐ寝るのはわかった。わかりました」


 少し怒ったように、渚は言った。


「……ただ、あたしそっちのベッドで寝たい」


 突然の提案に、俺はあー、と声を出して立ち上がった。


「わかった。替わろう」


「え?」


「え?」


「……やっぱりあたし、こっちのベッドが良い」


「……そう?」


 俺が元のベッドに腰を下ろすと、渚は再び膨れた。


「もうっ。このわからず屋!」


「うおっ」


 渚が俺のベッドに寝転がってきて、ようやく彼女の意図を理解した。


「あー、その。ごめん」


「……もう寝る」


 どうやら本当に拗ねてしまったらしい。このまま反対のベッドに寝転んだらどんな反応をするだろうか。

 気になるが本当に怒られそうだし、俺は渚の隣に寝転がった。


 シングルサイズのベッドは、二人並んで寝転ぶには少し狭かった。だから自ずと俺は、渚とくっついてスペースを確保しようとした。

 渚の体に両腕を這わせた。それが嬉しかったのか、渚がこちらに体を預けてきた。


 さっき風呂に入った渚の髪から、ウチにあるシャンプーの香りがした。

 俺と同じシャンプーの香りを彼女が漂わせていることで、胸が熱くなっていくのがわかった。


 気付けば、渚を抱き寄せる腕にも力が入っていた。


 一人盛り上がっていると、渚の寝息が聞こえてきた。どうやらもう寝てしまったらしい。

 

 悶々とした気持ちを抱えていた。しかし、発散する術はなかった。一先ず電気を消して、揺れる車体と電車の奏でる運転音に耳を傾けた。

 電車が小田原、早川を過ぎ、根府川に差し掛かろうというところで、ようやく俺は眠りにつけた。


 それから俺が目を覚ましたのは、朝方五時頃のことだった。丁度電車が姫路ら辺まで着いたようだということを、スマホのマップアプリから確認していた。

 ふと、手前で眠る少女の寝息が、昨晩よりも荒れていることに気が付いた。


 渚の額を撫でるように触れると、仄かに熱っぽいことを察した。

 一日経ってぶり返してきたらしい。残念さもあったが、一番は彼女の容態が心配だった。


 俺は向かいのベッドに腰掛けて、渚の様子を心配げに見ながら、鞄から冷えピタを出していた。昨晩電車に乗る前に、最寄りのドラッグストアで購入していた。


「ごめん、起きた?」


 ひんやりとした感触に渚が眉をひそめていた。しばらくして目を開けたため、俺は尋ねた。


「……宗ちゃん」


 懐かしい呼び方をされ、思わずドキリとした。幼少期の渚は、俺をそう呼んでいたのだ。


「どうした?」


「……ごめんね」


「謝罪する必要なんてない。とにかくゆっくり休んでよ」


「うん。……宗ちゃん」


「何?」


「抱き締めて。一緒に寝て?」


「……わかった」


 彼女の微笑ましい願いを叶えるのは、やぶさかではなかった。昨日の夜みたいに渚の背後に回って寝転んで、腕を彼女に這わせた。

 渚の手が俺の両腕を優しく掴んで離さなかった。それが酷く愛おしかった。


 シャワーを浴びる機会はなさそうだとふと思った。だけどそんなことすぐ忘れるくらい渚のことが心配だった。


 十時手前に、サンライズは出雲に辿り着いた。気だるそうな渚の手を引いて、予約していたレンタカーを借りに行った。二人分の免許証を見せて軽自動車を借りて、俺は久しぶりに運転席へと座っていた。

 こんな状態の渚を運転させるわけには当然行かなかった。そして、こんな状態の渚を連れ回すわけにもいかなかった。


 旅館へ連絡し、もうチェックインしていいかを尋ねた。快い返事が返ってきたので、俺は真っ直ぐに旅館に向かった。春休みの帰省の時に、運転の練習をしておいて良かったと思った。あまり混み入ってない市街を抜けて、件の旅館へ辿り着くと、車を駐車場へ停めて渚を連れてチェックインをした。


 見晴らしの良い部屋の大きな机を退けて、布団を一つ敷いた。

 気だるそうにしていた渚に寝るように促して、ようやく俺はひと心地付いた。


 どっと疲れが出たのか、俺はそのまま畳の上で胡座をかいたまま転寝をしてしまった。


「……宗ちゃん。宗ちゃん」


 俺を起こしたのは渚だった。寝ていた時間は大体三十分くらいだった。


「渚、寝てなきゃ駄目だろ」


 頭が覚醒していくと共に、俺は渚の心配をした。


「……宗ちゃん、遊覧船。そろそろ行かないと乗れなくなる」


 渚が言っていたのは、事前に予約していた海を一望出来る遊覧船のことだった。


「いいよ。そんなことよりゆっくり休まないと」


「……駄目」


「駄目って……お前なあ」


 そんな状態で行けないだろ。言いかけたが、渚を悲しませたいわけではないので言葉を引っ込めた。


「駄目」


「……どうして?」


「だって宗ちゃん、海好きなんでしょ?」


 どう説得させようかと聞いたのだが、墓穴を掘った。

 確かにいつか、俺は渚に海無し県出身だからと海に対する好意的姿勢を見せた。いつか船で伊豆諸島に行きたいとも言った。


 しかし。

 しかし、だ。


 彼女がそれを覚えていてくれたのは嬉しかったが、だからってこの状態の渚を連れ回すことを良しとするわけがなかった。


「……大丈夫だから」


「でも……」


「……宗ちゃん」


 懇願し目尻を濡らす渚の好意を、結局俺は無下にすることが出来なかった。

 仕方なく車を走らせ、遊覧船が経つ港へ向かった。港に辿り着くと、丁度遊覧船が出航するところだった。

 デッキに上がりたい気持ちはあったが、まだまだ寒いこの時期に浜風吹き荒れる場所に渚を連れて行くわけには行かなかった。


「上、行こう?」


「ちょっ、駄目だよ」


 朦朧としているような渚の力は強く、怪我をさせそうで拒みきれなかった。


 デッキに上がると、美しい水平線に目を奪われた。


 俺は首を振った。とにかく今は渚の心配をしないと。


「宗ちゃん?」


「……え?」


「海、綺麗だね」


「……うん」


「もっと近くで見てきなよ」


「こっからで大丈夫だ」


「でもほら、もう陸があんなに小さい」


「……うん」


「ちょっとくらい大丈夫だよ、今はちょっと歩きたくない気分だけど、すぐあたしも行くから」


 揺れ動く気持ちは……。

 僅かな時間なら問題ないと言う渚の言葉と。

 美しい景色に心奪われた浅はかな胸中と。

 そして、油断が後押しした。


「……わかった」


 渚を心配しながら、一歩二歩とデッキを歩いた。靴とデッキが独特な足音を鳴らし、水を切り裂き進む音に意識を奪われ、水面に陽の光を反射させた美しい情景に心……いいや、魂さえも奪われそうになっていた。


「……すっげぇ」


 ほんの数秒、一昨日からの気遣い疲れか虚無で情景に心打たれていた。




 そして、丁度その時。




 船が横波に煽られて……大きく傾いた。

 思わず手摺を掴んでしまうくらいだった。そして、手摺を掴んで振り返った時に俺が見たのは……。




 バランスを崩して海へと転落していく渚の姿だった。



 まるでスローモーションのように見えた。

 死の間際、人は走馬灯を見るという。今俺は自らの死を察したわけではないのに、そんな光景さえも見えていた。

 渚の死が俺の死であることを意味していたのだろう。


 微動だに出来なかった。

 もう姿が見えなくなった渚に対して……何も出来なかった。




 ……責任を感じていた。

 彼女の初めてを奪ったことに。

 彼女に痛い思いをさせたことに。


 ずっと責任を感じていた。




 だから、責任を取らないといけないと思っていた。




 でも、違う。

 そうじゃなかったんだろう。




 いつだって俺をからかう彼女と。

 どうやって俺から揚げ足を取ろうか画策する彼女と。

 俺が女の影を見せると嫉妬を見せる彼女と。

 小馬鹿なことをする俺に苦笑を見せる彼女と。


 久々に再会した日の夜、突然婚姻届を突きつけた彼女と……。




 俺は責任を取るために、一緒にいたわけじゃなかっただろう。




 俺はただ、好いた彼女と一緒にいたいから……だから彼女と隣合って歩いてきていただけだったのだろう。




 だって俺は……。




 彼女に責任だなんてそんな重荷、感じたことは一度だってなかったのだから。




 いつか誰かが言った。


『あたしが危ない目に遭った時と大友が危ない目に遭った時で、多分扱いに変化が生じます。大切な人とそうでない人で扱いが変わるのは当然です』


 そう言い男に嫉妬する誰かに向けて……そいつは確かに言ったんだ。




『……その、渚がもし危ない目に遭ったら、大友と同じように助けるさ。当然だ。好きなんだから。彼女なんだから』




 好きだから助ける。

 大切だから助ける。


 そう言ったんだ。

 ……そう、言ったんだ。




 俺は確かに、渚にそう言ったんだ……!




「なぎさぁああっ!!!」




 喉の奥の奥、最早自分でもどこから声が出ているかはわからなかった。


 気付けば俺は走り出し、海へと飛び込んでいた。


 恐怖はなかった。

 大人だとか子供だとか、そんなくだらない悩みなんてことももうどうでも良かった。

 ただ、好いた……愛した彼女を助けたい。そう思った。それ以上の理由は必要ないと思った。




 冬の海は冷たかった。

 海水は今まで口にしたどんなものよりもしょっぱかった。


 海に放り出された渚を見つけた時、心の奥底から何かが沸き上がってくるのがわかった。

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