二人旅行前夜

 暗闇の中、好いた女性と交わる。映像で見ると昂る気持ちを覚える行為に、当初は浮足立つ気持ちもあったが、こなれていく内に生まれた気持ちは、心が満たされていくような幸福な気持ちだった。

 そうして、満たされた気持ちのまま渚と一通りの情事を終えると、昼以降の疲れが蓄積されていたせいなのか、はたまた気持ちよくなれたせいなのかいつもより些か幸せな気持ちで眠りに付けた。

 

 翌日、俺が目を覚ましたのは前夜のせいなのか、日頃の生活サイクルの乱れなのか、正午になろうという時間帯だった。


「あ、おはよう」


 ドライアイのせいでぼやけた目を細めつつ、聞き馴染みのある好いた声が耳から鼓膜を通じて脳を覚醒させた。

 目を細めたままキッチンのほうを見ると、まず覚醒した俺の脳を迎えたのは香ばしい香りとフライパンの上に敷かれたミンチが油によって熱せられる音だった。


「ハンバーグ」


「正解」


 渚の声は明るかった。俺が振舞おうとした料理を当てられたからなら嬉しかった。


「よく寝てたね」


「朝は弱いんだ」


「もう昼だよ」


 渚が言うならその辺の時間帯なのだろう。机に乱雑に置いていた市販の目薬を目に差して何度かまたたきをした。ようやく視界が定まってきたところで、足元に注意しながらキッチンへと歩を進めた。


「ほら、なんて恰好してるのさ」


「うおっ」


 頬を染めた渚に言われて、前夜の盛り上がりその時のあられもない恰好で寝ていたことに気が付いた。頬を染めながら、誰かがフローリングの上に畳んでいてくれた下着とパジャマを急いで着た。


 気が動転していたが、別にパジャマは着なくて良かったのだろう。

 渚は既に外行の格好をしていた。昨日着ていた服同様、とても似合っていると思った。それにしても、エプロンなんてどこから調達していたのだろう。


「そろそろ出来るから寝癖直してきなよ」


「酷い?」


「酷い。顔も洗ってシャキッとしてきて」


「はあい」


 間抜けな返事をして、洗面所の方へ向かった。酷い有様の寝癖を見て、苦笑しながらワックスで髪型を整えた。


「出来たよー」


「はあい」


 再び間抜けな返事をして、リビングに戻った。一人用の机いっぱいに乗せられた食事を見て、一人暮らししている時には見る機会に恵まれなかった光景に感慨深い気持ちになっていた。


「美味しそうだ」


「そうでしょう?」


 嬉しそうな渚と昼ご飯を頂いた。

 そして、買って出た食器洗いを終えたら、いっぱいになった腹を労わるように少し横になろうと思った。


「あ」


 渚がまた、俺のベッドで枕を抱えて丸まっていた。最早見慣れた光景だった。

 いつもなら地べたに座り、彼女の気が済むまで手持ち無沙汰になっているのだが、前夜のこともあり俺は少し浮足立っていた。


「渚」


「……んー?」


「昨日は……その、痛くなかった?」


 聞きながら、顔が赤く染まっていくことに気が付いた。痛い思いをした彼女を労わりたいと思っただけなのだが、行為が自らをさらけ出す行為だったため、恥ずかしくなってしまったのだ。


「んー……」


 要領を得ない返事だった。この状態の渚に何を言っても無駄なのだろう。そんなことを思い、しばらくベッドに腰かけたまま俺は天井のシミを数えていた。


 ……しばらくして、


「宗太、優しかったから大丈夫だったよ」


 優しげな渚の声が返ってきた。あまりの時差に、一瞬何の話をしているのかわからなかった。


「その、待たせてごめん」


「いいよ。宗太が優しくて良かった」


 いつか渚に求められた時、突飛なことを言う彼女に拒絶……と言うか、保留を俺はした。あの時のことを、渚はいつか俺の優しさと評した。先走りしすぎた渚を抑止することをしてくれて助かったと言っていた。

 しかし据え飯を食わせたことは代えがたい事実だった。だから、申し訳なさは胸に残っていた。


 謝罪と満を持しての行為を終えて、満たされると同時に罪悪感も拭われた気がした。簡単に拭える罪悪感には、正直ほくそ笑みそうになることを堪えられなかった。


「どうしたのさ」


「やった行為は大人なことなのに、自分の内心の幼稚さが可笑しくてさ」


 昨晩彼女に全てをさらけ出したせいか、一切の躊躇なくそんなことを言えた。


「今時の早い子なら、高校生からセックスくらいしているよ」


 渚が平然と言った。


「つまり、そこまで大人な行為ではないってことか」


 であれば、変に身構えたりしたことは余計に滑稽だっただろう。


「大人な行為ではないんじゃないかな。でも、大切な行為ではあるんじゃない?」


「というと?」


「これはね、契りなの」


 渚の言葉が胸にずしりと乗りかかった。


「あたし達、一度は繋がった仲じゃない? 最早、一心同体、一蓮托生。勿論、宗太がBLマニアで風除けのためのあたしなら話は別だけどね」


 場を和ますようなくだらないジョークには突っ込む気にはならなかった。

 契り、か。

 性行為。

 生物としての本能的な行為であるが、この窒息しそうなほど生きづらい世界においては子孫を残すことは望まれる場合と望まれない場合が存在するのだろう。

 もし子を成せば、俺達は子に対して責任を負わねばならなくなる。それはきっと気楽なことではない。

 だけど、それでも……行為をするならば、それは確かに、渚の言う通り一時でも将来を誓い合わねば出来ないことだったのだろう。


 契り。

 酷くピンとくる喩えだった。

 そして同時に、自分が渚と契ったことを理解させられた。


「渚」


「ん?」


「もし……辛い事、嫌な事があったら言ってよ。なんでもするよ、俺」


 それが契りを結んだ彼女にすべき、俺の責任だと思った。一時の過ちなんかでは決してなかった。一月も悩み、苦悩した末の行為だった。だから、契った行為に対しての責任は取らなければならないのだろう。


「……いいの?」


 渚の声がいつになく弱弱しかった。


「うん」


「本当に?」


「うん」


「本当に本当?」


「ああ、任せてくれ」


 未だ、どうすれば大人になれるのかはわからない。でもこうして、契りを結んだ彼女へ責任を取り続ければ大人になれるのだろうと思った。


 大人は辛い生き物だと思っていた。


 保護される立場から保護する立場へ。それは相応の覚悟を伴うはずだと思っていた。一月前の俺は、内心でまだ子供の俺は……誰かを保護する、守るという決心するだけの覚悟がなかった。


 でも今。

 彼女に対しての責任を果たす覚悟が決まった今。


 俺はようやく、大人になる道を歩み始めたことを実感した。


「……ねえ、宗太?」


 渚が俺を呼んだ。


「何?」


 返事をして、渚の言葉を待った。





 渚の返事はなかった。


「渚?」


 様子がおかしい彼女の方を振り返った。




「好きだよ、宗太」




 唐突の告白に抗う術はなかった。

 染まる頬が、優しく微笑む渚に見惚れたせいで一層染まった。


 照れ隠しでそっぽを向いた。


「出雲旅行、楽しもうね」


「……うん」


 敵わない。

 そう思った。


 再会してから……いいや、再会する前から、俺は一度だってこの渚という少女に敵うことはなかった。

 運動してはコテンパンにされて半べそ掻いて。

 喧嘩になれば女の子に手を出せずコテンパンにされて半べそ掻いて。

 

 ……彼女が誰かと結婚すると思った時、また俺は半べそを掻かされた。


 ……彼女に責任を取るということは。

 こんな生活が続いていくことを意味しているのだろう。


 彼女にからかわれて照れて。

 彼女に好意を示されて照れて。

 彼女と愛を紡いで……照れて。


 不思議と嫌ではなかった。

 彼女と過ごすそんな生涯を想像すると、むしろ嬉しかった。彼女とそんな人生を歩めるのなら生きることも辛くなくなる気がした。


 ずっとそんな時間が続けば良いと思った。


 だけど、そんな自分の気持ちとは裏腹に時間というものが勝手に過ぎていくことを……どっかの誰かのせいで、俺はもう知っていた。




 そして、時はやはり俺に抗う術さえ与えず突き進んでいった。

 渚が俺の住むアパートに泊まりに来て、もうまもなく一月が経とうとしていた。あれからの生活は楽しい毎日だった。嫌いな勉強をしなくて済み、旅行のためのバイトに精を出せ、時たま帰省をしては家族に会って、渚とも再会しデートを重ねた。


 そうして、満を持して出雲旅行の前夜がやってきた。

 今日、渚はアパートに顔を見せて、一泊してから東京駅に行き、寝台列車で出雲に向かう運びになっていた。


 渚が地元を出たと連絡を受けたのは、二十時過ぎのことだった。当日、どうしても断れないバイトのシフトが入ってしまったとのことだった。


 さすがに深夜に一人街中を歩かせるのが不安だった俺は、新宿駅まで渚を迎えに向かった。

 駅に着くと、丁度渚の乗る特急電車がホームに滑り込んできた。終点の新宿には長い間電車は鎮座する。長旅に揺られ、乗り込む時よりも歩調が緩い乗客が次々と降りていく中、俺は渚が出てくるのを壁にもたれて待っていた。


 そうして待つことしばし……。


「渚」


 ようやく渚が電車から出てきた。


 ……が、どこか様子がおかしい事に、俺はすぐに気が付いた。

 虚ろな目。

 気だるそうな猫背。

 重そうな足取り。

 

「大丈夫?」


 近寄って声をかけて、仄かに青い顔をした渚がようやく俺に気が付いた。


「……あ」


「渚、大丈夫かよ」


「……うん」


 弱弱しく、渚は頷いた。


「ちょっと疲れちゃった。エヘヘ」


 疲労からか儚げにそう微笑む渚は、まるでこれから死に行く人のように哀愁を漂わせていた。

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