大人ってなんだろう
渚を席に座らせて埼京線車内でつり革に掴まりながら電車に揺られることしばし、電車は川口駅へと辿り着いた。
駅前にあるデパート二つを眺めながら、反対側の出口へ出てスマホのナビに従って道を歩いた。
「それにしても、中々思い切った決断したね。川口の中古車店に訪問しようだなんて」
「いやだって、さすがに高価な買い物するんだから、一度車の状態は見ておきたいじゃない。それに、誰かさんが東京にいて家に泊めてもらえる環境もあったからね」
中々堅実的な考え方だと思った。成人式の晩、久々に再会した幼馴染に突拍子もなく婚姻届を突きつけた人とはまるで思えない発言だった。
「母さんが東京に遊びに行く時泊めてよねと言って、布団をもう一セット用意してあるし、泊まるには申し分ない環境では確かにあるな」
「え?」
そこで首を傾げるのは、どういう了見なのだろう。触れるのも少しおっかなかったので、聞こえなかった振りをして道を歩いた。
ふと、並走して歩いている渚が道路側を歩いていることに気が付いた。
「きゃっ」
渚を掴み、優しく左右を入れ替えると、ハッとした渚に悲鳴を上げられた。ちょっとショックだったが、とりあえず事案にならなかったのでセーフだと思った。
「危ないからさ」
「……あ、ありがとう」
舌足らずな渚は珍しかった。胸に温かみが広がったが、最近の俺は渚の一挙手一投足に一々ときめきすぎではないかと少し心配になった。
「車の話に戻ろうか」
バラ色の雰囲気もむず痒くて、俺はそう提案した。
「そ、そうだね。……何の話をしてたっけ?」
「車、何を買う気?」
「そんな話だっけ?」
「多分」
気を取り直した渚が微笑んだ。
「五年落ちくらいのセダンだよ」
「セダン、か」
正直、田舎に住む女性が持つには大層な車だと思った。いつか渚は、あまり県外にも出ないと言っていたし尚更だった。
「軽自動車じゃダメなの?」
「この前、絵里達と海に行ったんだよ。その時ウチの軽自動車で行ったんだけど、風が強い日でハンドルが何度も取られてね。遊泳は禁止だし散々だったけど、何よりあたしは命がけの運転が一番辛かったんだ」
「……海に行って、水着は着たの?」
今の話で俺が一番気になったのはそこだった。女々しい邪念が胸を包んでいっているのがわかった。
「すぐ市街地に観光に行ったから、そんな恰好しないよー」
渚は可笑しそうに笑った。こっちはそれどころではないと言うのに。
「……もしかして嫉妬した?」
ふと気付いた渚に、図星を突かれた。
「別に」
「……宗太」
「何さ」
「わかりやすすぎるよ」
「そう思うなら、人前で君の白い肌を見せてくれるな」
「束縛強い男は嫌われるよー」
茶化すように笑われた。
そう言われれば、反論したくてもしづらく、俺は歯ぎしりをしてしまっていた。
「と、そういうことがあったから。馬力も空力も段違いなセダンを欲しいなと思ったの」
「……県外にあまり出ないと言ってなかったかい?」
「今度から出るようになるじゃない」
一体どんな理由があって?
聞こうと思って、手を握られてようやく察した。頬が真っ赤に染まっていった。
「う、ウチのアパートには駐車場はないよ」
「じゃあ、タイムスでいいから探しておいて」
叶わないなと思った。いつだって俺は彼女に一泡吹かせられ続けていた。それが嫌なことは決してないが、ネット界隈ではレスを途絶えさせた人が敗北するという幼稚なルールを俺は知っていた。そのルールに則るとしたら、俺はいつだって彼女にレスバトルで負けていることになるのだ。敗北することは構わなかった。ただ、口論で負けることが子供である証拠のような気がして嫌だった。
渚が嫉妬する大友という男の勇ましい姿を見て、我ながら自分という男のしょうもなさを目の当たりにさせられた。
あの経験から、いつまでも大人になれないと言っている場合ではないと思わされた。しかし、大人になる一歩というのは、まるで暗闇で靄でも掴むような難解さを俺に見せていた。
一体、どうすれば望む大人になれるのか。
答えは今日も見つかりそうもない。焦りはあるが、内心まったく取っ掛かりもつかめないそれに諦観を漂わせていた。
「……渚、嫉妬深くて申し訳ないな」
情けなくなった俺は、さっきまでの会話の自己の幼稚さを認めて、謝罪の言葉を口にした。
「我ながら女々しいことを言った自覚はあった。だけど、内心の気持ちというのを遂表に出してしまった。嫌な気持ちにさせたのならごめん」
渚の顔は見れなかった。
「嫌な気持ちになったと、本当にお思いで?」
畏まった言い方に、彼女なりの優しさを感じた気がした。
「好いた人に嫉妬してもらえて、あたしは嬉しいよ。何せ、あたしも随分と嫉妬深いから。だから、愛想尽かされてなかったとわかって良かった」
「愛想尽くはずないじゃないか。大人な君のこと、俺はこれでもかなり好いている。恥ずかしいから中々口には出さないけど」
「口に出してよ。嫉妬するよ?」
何にだ。
文句を言う間もなく、遠い目をした渚に俺は見惚れていた。
「……大人、ね」
渚が呟いた。
「宗太は本当に自己評価が低いね」
「何を言う。事実だ」
「違うよ。宗太はもう、十分に大人じゃない」
自覚がないから、うんとは当然言えなかった。
「仮に宗太に大切な友人がいたとします。以下、大友とします」
「また大友の話か」
「大友のお父さんが亡くなられて、大友は信頼する人に電話をしようと思いました。その人は話の良し悪しを理解していて、適切な人にまたその話を相談しれくれると信頼する人でした。
その人は自分の将来のためになる大学の講義をサボってでも通夜前日に自分の父に線香を上げに来てくれる人でした。
その人はお悔やみが新聞に出る前に大友の父とも交友があった大友の友達に電話して、明日の通夜に出て、線香を上げてやってくれと電話してくれるような人でした。
その人は通夜の場で、他人のはずの父のために涙を流してくれるような人でした。
大切な人に信頼される宗太が子供なわけない。
大切な人のために周囲に行動を促せる宗太が子供なわけない。
大切な人とその親族の痛みをわかり、泣ける宗太が子供なわけない」
何も言えなかった。
水を差すのは悪い、と。
ただそれだけ思っていた。
ただしばらく無言で歩き合って、彼女の言ってくれた言葉を咀嚼する内に。
間違ったことはしていなかったんだな。
たまには大友の助けになれたんだな。
そう思うと、目頭が熱くなったような気がした。
感傷的な想いになる場面ではなかったはずだ。
渚と東京で会って、彼女の欲しい車を見て、あわよくば試乗して、決断を見送って夕飯を食べて。春休みの間、どこに旅行に行くか計画する。
明るい話しかないはずだった。
なのに、明るい気持ちに今はなっていなかった。俺のせいなのだろう。そう思うとやはり……やはり、俺は……。
「あーあ、本当嫉妬しちゃう」
渚が沈黙を破って言った。
「あたしも大友と同じくらい、宗太に大切に思われていたらなあ」
「……何を言う」
「あたしが危ない目に遭った時と大友が危ない目に遭った時で、多分扱いに変化が生じます。大切な人とそうでない人で扱いが変わるのは当然です」
「……そんなはずあるか」
「あるよ」
「そうじゃない」
語気が強まった。
「……その、渚がもし危ない目に遭ったら、大友と同じように助けるさ。当然だ。好きなんだから。彼女なんだから」
気付けば俺は、渚の顔を直視出来ないでいた。
気恥ずかしさなのか、後ろめたさでもあったのか。
深海のように深い深層心理は、自分のことである俺にさえ、その素顔を見せることはなかった。
しばらくして、俺はゆっくりと渚を見た。
「じゃあ……」
渚は……。
「宗太は、大人だね」
優しく、微笑んでいた。
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