帰宅道

 少しずつ陽が落ちるのが遅くなってきたことを実感しながら電車に揺られていた。


「あーあ」


 帰りの電車は、丁度サラリーマンの帰宅ラッシュとかち合って座れない程度に混んでいた。渚を扉と俺の間に立たせて、サラリーマン達の魔の手から守っている時、しばらく申し訳なさげにしていた渚がそう残念そうに声を上げた。


「五年落ちのあの車種にしては安すぎると思ったんだよ」


 恨み節。いいや、悲し節だった。

 それもそのはず。渚は今回、目を付けていたT車セダンを結局購入することはしなかった。色々と担当職員に話を聞く中で、それでは車に試乗しようととんとん拍子に話は進んだ。しかし、走行距離一万キロオーバーの車はエンジンのかかりが非常に悪かった。

 心配げな俺の言葉もあり、渚は件の車の購入を先送りにしたのだった。


「一万キロでああなるとは、元の持ち主は中々粗暴な奴だったのだろう」


「本当にね。残念」


 落ち込む渚に、俺は苦笑した。


「でも、実際に見ずに購入すればもっと後悔していたわけだし、やっぱり堅実な判断だったね」


「うん。はーあ、また一から探し直しか」


 落ち込んでいる渚は珍しかった。それなりに時間をかけて検討に検討を重ねた末の件の車だったのだろうと、その態度を見ているだけでわかった。報われない努力程辛いものはないよなあと思った。


「まあいいじゃん。今日は部屋でゆっくりして気晴らししよう」


「うん。……うん、そうだね。あんまり凹んでいても宗太に悪いし」


 一先ず立ち直ったようで、俺はホッと胸を撫でおろした。


「宗太、それで早速だけど、昼頃話した通り、今日の夕飯はあたしが作ろうと思ってるんだけど、いい?」


「勿論。何ならこれからも毎日作ってくれて構わない」


「じゃあ、ウーバーイーツにあたしの家から宗太の家まで送り届けてもらおうか」


 地元の渚家から俺のアパートまでの距離、おおよそ百キロ超。


「それは……配達員の人が可哀そうだ」


 汗だくになりながら山道を自転車走行する配達員を想像して、俺は苦笑した。


「宗太、夕飯何食べたい?」


「え? ……うーん。美味しい物」


「ハードル上げてきたね。末恐ろしいよ、宗太さん」


 生唾をごくりと飲む演技派な渚に、隠れた才を見た。それだけだ。


「とにかく、最寄り駅に着いたらスーパーに案内して。それとも冷蔵庫の中、何か入ってた?」


「いや、何も入ってない」


「少しは何か入れようね」


 怒られて、はいと小さい声で返すほかなかった。

 しばらく電車に揺られて、最寄り駅に俺達は辿り着いた。昼頃通った道を再び通り、一度アパートを通り過ぎて、そこから程よく近いスーパーに渚を案内した。


 スーパーで渚は、買い物カゴに色とりどりの食材を詰めていた。日頃カップラーメン、もしくは総菜、弁当しか買わない俺には新鮮な光景だった。勿論、カゴを持っているのは俺だった。こんな重い物、渚に持たせられるはずがなかった。


「それで渚さんや。今日の夕飯は何なのかい?」


「ロールキャベツにしようと思ってますよ、宗太さん」


 なるほど。ロールキャベツか。中々凝ったものを作ろうとするではないか。件の食べ物の作り方に精通していない俺は、名前を聞いただけで恐縮する限りだった。


 ある程度食材をカゴに詰めて、渚が立ち寄ったのは飲料コーナーだった。


「お酒、飲む? それともお酒は入ってた?」


「いいや、家では基本飲まないからない」


「そう。で、飲む?」


「渚は?」


「あたしはお酒駄目だから大丈夫」


 そう言えば彼女、成人式でもその後の会食でも、結局運転手であることを理由に一度もお酒を飲んでいなかった。なるほど。酒が駄目だったのか。


「すぐ酔っぱらうの?」


「うん。そうなの」


「……ちょっと見たい」


「ちょっと、嫌だからね。本当に」


 珍しく強い口調で叱られた。どうやら本当に駄目らしい。これ以上勧めることはアルハラに当たり、ハラスメントで訴えられてもおかしくないので、俺は渋々引き下がることにした。


「別に、あたしは飲まないけど宗太は飲んでもいいんだよ?」


「いいよ。お酒そんなに好きじゃないし」


「あら、そうなの? 中学の同窓会ではたらふく飲んでたけど」


「誰かさんが結婚するって言うから……」


 恨み節を言うと、渚は満足したのか微笑んでいた。

 それからスーパー内をもう一周して、レジへと向かった。会計は二宿の恩と渚に持たれてしまった。


 アパートへの帰り道のことだった。


「宗太、重くない?」


「いや、別に?」


 渚はしきりに俺が持つビニル袋を心配していた。たまには男らしいところを見せようと思っていた俺は、やせ我慢交じりにそれを否定していた。何度も何度も。

 最終的に、渚は何故かふくれっ面になっていた。理由は当人が口を割ることがなかったから不明だった。


 そうして家に着いて、食材を冷蔵庫に詰めると、先にリビングに戻っていた渚がベッドにうずくまっているのを見つけた。いつも通り、顔に枕を押し付けて丸まっていた。


「疲れた?」


「……んー?」


 要領を得ない返事だった。


「お気に召されました?」


「んー……」


 しばらく渚は、ベッドの上で枕を抱えたままうずくまっていた。気が済んだのか、渚は突然、地べたに座っていた俺に向けて枕を投げつけてきた。


「よし、夕飯の準備するね」


「手伝うよ」


「大丈夫。一日付き合わせちゃったんだから、休んでて」


 そう言われれば、これ以上譲らないことも悪いと思った。

 地べたに座り直した俺は、テレビを点けて時たまキッチンで調理に勤しむ渚を見て、余暇を楽しんだ。

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