三連休の終わり

 絵里家の経営するレストランを出て、これまた小学校傍の居酒屋に入った俺達は、最後に深夜帯まで営業しているアミューズメント施設に行った。そこでカラオケをひとしきり楽しんで、元児童会長小田君が絵里に勧められるがまま飲んだ結果、店先で吐瀉物をまき散らしてしまったので解散する運びとなった。


 一日の疲れがピークに達していたせいで、俺はいつの間にか渚の肩を借りて寝ていたそうだ。それを帰り際に当の本人から茶化された。


「宗太、明日朝ちゃんと起きろよ」


 そういう流れのせいで、恐らく一番酒を飲んだであろう大友はケロッとしていた。電話で度々自慢されていたが、彼は酒が強かった。


「うん」


「安心して。ちゃんとあたしがラブコールして起こすから」


 渚が大友に向けて言っていた。いちいち茶化すあたり、彼女はまだまだ元気らしい。


 運転手を買って出ていた渚以外の女子は、呼んだタクシーで帰って行った。男子陣は、大友含む数人を除いて居酒屋の時点で逃げ帰っていた。大友達は夜食を食らってから帰るそうだ。

 俺もぼんやりとそちらに混ざろうとしていたが、


「あたしを一人車で帰らせるだなんて、悪漢に襲われたらどうするのさ」


 渚に叱られたので、彼女に俺のお守を頼んだ。

 大友達に茶化される中、彼らを見送って俺と渚は軽自動車を停めた立体駐車場に足を運んだ。深夜帯まで駐車されているような車は、荒い駐車をしていることが多いんだなと眠い目を擦りながらぼんやりと思っていた。

 

 渚の車を見つけて、助手席に乗り込んだ。


「悪いけど、よろしくお願いします」


 丁寧に一礼すると、はいはいと渚が笑った。

 エンジンをかけると、立体駐車場内に音が反響した。その音が聞こえなくなったのは、それより大きな音が車から断続的に続いたからか、はたまた聞き慣れたからなのか、眠気に襲われている俺は既に正常な判断が出来なかった。


「明日、寝坊したら駄目だよ?」


 車が発進したのは感覚でわかった。渚の言葉も、暗闇の中から聞こえてきた。


「うん。気を付ける」


「……これで当分宗太とも会えなくなるのか」


 そう言えば、俺が大学のために東京に帰れば、俺達は遠距離恋愛となるのか。今更気付いた。


「いつでも来いよ。なるだけ部屋は掃除しておく」


「着いてみたら掃除から始めるだなんて嫌だからね」


「わかった。後、何かあったら呼んでくれたら、講義サボってでも帰る」


「じゃあ、毎日呼んじゃう」


「それが良い」


「良いわけないじゃん」


「……渚が東京の大学に進学してたら、いつでも会えたのにな」


「……そうだね」


 街灯の真下なのか、瞼に塞がった視界が赤く染まった。


「……渚?」


「ん?」


「お前言ったよな。……俺のこと、なんでも知っているって」


 それはホテルから出る時のこと。無邪気な笑顔で、渚にそう言われた。


「……うん。言ったね」


「嬉しかった」


「……うん」


 嬉しかった。ずっと会っていないのに、俺のことを好いていてくれて、俺のことを気にかけてくれていて、俺をリードしてくれて、嬉しかった。

 彼女に好いてもらえて、本当に嬉しかった。満たされた気持ちになっていた。


 ……だけど。


 たった一日なのに、俺は後悔をしていた。

 それは……渚の気持ちを無下にしたことだった。

 彼女の気持ちを無下にしたことは、一つや二つではなかった。


 婚姻から始まり、様々なことを今日一日でたくさん無下にしてきた。

 対等でないと思った彼女の誘いだから、戸惑ってしまった。戸惑って先延ばしにして、結果悲しませてしまった。


「……ねえ、渚?」


「うん?」


 だから俺は、贖罪をしたかったのかもしれない。彼女が望んだことをたった一つでも。今俺が出来るたった一つのことでも、叶えてあげたいと思ったのかもしれない。


「……俺、疲れてしまったんだ」


「うん。見ていればわかる」


 少しずつ眠気が覚めていった。

 街灯の真下に行く度に。

 車に揺られる度に。

 ……愛しい渚の声を聞く度に、覚めていった。


「……休憩、しないか?」


「え?」


「休憩。休まないか?」


 渚は何も言わなかった。


「……ホテルに、行かないか」


 ……言ってしまった。だけど、不思議と後悔はなかった。

 もし。

 もし、渚が了承してくれるなら嬉しかった。


 意中の彼女と。

 一時は一生結ばれることがないと思った彼女と。


 結ばれることが出来るなら……嬉しかった。もう、躊躇いも戸惑いもなかった。


 渚は、


「駄目」


 優しく微笑んで、そう言った。


「……どうして?」


「明日、早いんでしょう?」


 車が停止した。前を見ると、信号は赤だった。真横には昨日一夜を共にしたホテルがあった。何もせずに眠ったホテルがあった。

 だけど今日は、あそこに寄る予定はなくなった。


「……わかった」


 取り留めて平静を保って言おうと思ったが、言葉尻が弱まった。無下にしておいて、そんな資格ないと知っていて、それでもそうなってしまった。


 それくらい、たった一日で好きになったんだ。

 幼少期を過ぎ、小学校高学年では会話もままならなくなった。中学も疎遠。高校では遂に別の学校に進学して、大学も……。

 再会は昨日の話。

 今更ながら、そんなのはほぼ初対面と変わらない。幼少期を経て、人は変わらず成長している。渚の変化も何度も体感し、印象と違う彼女に戸惑ったりもした。


 そんな変わった彼女のことだったのに。

 たった一日で。


 たった……たった一日で。


 一生離れたくないくらい、好きになってしまったんだ。


 別れたくなかった。大学なんて行きたくなかった。彼女の傍にずっといたかった。彼女は俺のそんな幼稚な考えも見抜いていた。溺れないように拒否してくれた。

 わかっているのに……。本当に俺は、駄目な奴だ。


 ぼんやりと、謝罪の言葉を述べようとしていた。

 どうしてかと問われれば、ロジカルな思考で説明出来る気はしなかった。ただ、謝りたかった。




 だけど、それは出来なかった。

 シートベルトの外れる音。

 シートと衣服の擦れる音。

 唇に何かが触れる音。


 渚だった。

 渚の唇が触れていた。

 腰に回された渚の手が痛かった。それが、彼女が俺と同じ気持ちの証明だった。


 どれだけ触れ合っていたのだろう。

 信号が青になって、赤になっていた。名残惜しい悠久の時を経て、唇を離して見つめ合った。


「また今度ね」


「……うん」


 そうして車が発進して、俺達は家に帰った。

 翌日渚の電話で叩き起こされた俺は、大友と一緒に東京へと帰っていった。あの後大友達がどんな帰路で帰って行ったのかを聞きながら、談笑しながら電車に揺られた。


「で、そっちはどうだったの」


 一通り話を聞いて笑って、今度は大友に聞かれる番だった。


「……ただ帰っただけだよ」


「お前、俺0歳からの仲ってわかって言ってるのか?」


「と言うと?」


「顔に書いてある。それは嘘だ」


「……き、キスしただけだっちゅうの」


 大友がニヤニヤしだした。


「純情」


「やかましい」


 文句を言って、それからしばらくは互いに会話もなく車内での時間を過ごした。大友は八王子で特急を降りて行った。それを見送って、俺は新宿まで向かっていった。


「キスしただけ、か」


 車内で一人になって、さっき大友に話した言葉を思い出していた。

 キスしただけ、だけどそれは、成人式だからと帰ってくる前からは考えられないような出来事だった。二十歳になって、大人になれないと思っていた俺の隣に好きな人が出来た。満たされた気持ちになった。

 こういう経験を経て、人は成長していくんだろうとぼんやりと思った。


 ……ただ、今は何よりも。


「早く会いたい」


 まさか自分がこんな恋愛脳染みた思考をするようになるとは思わなかった。だけど確かに、俺は今それを望んでいた。

 早く会いたい。渚に会いたい。


 会って話して、それから……。

 想像力が欠落していることが憎らしかった。


 ジャケットの内ポケットから、婚姻届を取り出した。

 これに判を押すということ。それは直結して、大人であることの証明のような気がしていた。大人になった時、多分俺はこれに判子を押して、渚と役所に行くのだろう。


 早く大人になりたい。

 成人式を終えて、人からすれば馬鹿らしいことを言っているように聞こえるかもしれない。

 だけど今、俺は確かにそれを望んでいた。

 ずっとそれになれないと思っていただけだったのに、どうすればそれになれるのかを考えるようになった。

 

 渚のおかげで、俺は一つ成長出来たのだろう。

 それが嬉しかった。だから早く会いたい。だけどそれと同じくらい、次に会う時には彼女を支えられるようになりたいと、そう思った。


 次、俺はいつ渚に会えるのだろう。

 多分、浮かれたこの気持ちも時間と共に少しずつ薄れていくかもしれない。根底の気持ちは変わらないが、行動力へと直結していくことは少なくなるだろう。

 だから……早く答えを見つけないとな。そう思った。




 ……ただ、俺は一つ失念していた。

 人生というものは、何があるかわからない。人生が自分の都合の良い通りに進むことは、極めて稀である。

 そのことを、失念していた。


 成人式が執り行われてから翌週の水曜日のことだった。

 大友からの一本の電話は、深夜帯のことだった。大友とは一時期ほぼ毎日電話をしていた仲だったから、珍しい時間帯でもなかった。

 だから特に気にせず、俺はその電話を取ったのだった。


『こんばんは』


 大友の声はいつもと変わらなかった。いいや、違った。微かに。ほんの微かに、大友の声はいつもよりトーンが低かった。


「うす。どうかした?」


 妙な胸騒ぎを覚えた。

 大友が電話口から無言になることは珍しくなかった。だけど、今回は何かが違った気がしていた。それが胸騒ぎを覚えたせいであるのは明白だった。


『今、いいか?』


「うん」


 ただの杞憂で終わって欲しいと思った。

 ただ……。


『夜分に悪いな』


「今更そこを気にするか?」


『それもそうだ』


「どうかした?」


『親父が死んだ』


「……え」


 大友が何を言ったのか、最初わからなかった。


『本当、迷惑な人だよなあ。タイミング考えろって話だ。だって、成人式が終わって十日くらいだぜ?』


 大友の声は、空元気だった。


『とりあえずさっと話せるような奴、宗太しかいないからさ。愚痴聞いてもらおうと思って』


 大友は続けた。


『今、いいか?』

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