対等な存在

 境内の石造りの階段を昇ると、まもなく前方に拝殿が見えた。左手には広場。その広場の奥には通路があり、その先にはなんでも由緒ある井戸があるそうだ。そして拝殿の右手に、本日の目的地である神符授与所があった。授与所の手前には絵馬がたくさん飾ってあるのが、遠目からも確認できた。


「宗太、これからどうするの?」


「とりあえずお参りしようか」


 渚の手を引き、拝殿の前のお賽銭箱の前に立った。休みというのに、本日のこの神社はあまり人入りが多くなかった。


「五円玉ある?」


 渚に尋ねた。自分の小銭入れを先に確認したが、生憎それを切らしていた。


「宗太、まだご縁が欲しいの?」


「……そう言えばそうだ」


 真横にこんなにも可愛い彼女がいるのに、どんなご縁を願おうとしていたのだろう。


「じゃあ、十一円……おっ、ある」


「十一円……いい縁。結局縁じゃん」


「こうなれば円がつくからなんでも縁だね」


 不毛な会話もそこそこに、とにかく俺はお賽銭箱にお金を投げて、手を合わせた。目を瞑っていると、隣から手を叩く音がした。渚だろう。

 しばらくして目を開けると、こちらに微笑みを寄越している渚の視線とかち合った。


「ごめん。終わってたんだ」


「ううん。随分と長いお祈りだったね、何を祈ってたの?」


「無病息災、商売繁盛、大安吉日」


「小ボケを挟まなくていいから。ふうん。恋愛関連のことは祈ってくれなかったんだ」


 何も言えなかった。色々な意味で。

 無言の俺を見て、渚は何かを悟ったのかふふんと鼻を鳴らした。


「宗太って、結構素直じゃないよね。そんな子に育てた覚えないよ」


「お前に監督されたことはあっても、育ててもらった覚えはない」


 アハハと渚が笑った。


「あたしは願ったのになあ。あたし達の恋の成就と子宝に恵まれますようにってのと宗太の無病息災」


「……それは、ありがとう」


 俺は染めたくもないのに染まってしまった頬を見せたくなくて、そっぽを向きながら言った。


 渚は歯を見せて悪戯っ子ぽく微笑んでいた。

 素敵な笑顔だと思った。これまでの二十年の人生を節目の年に振り返ってみて、たくさんの人の笑顔を見てきた。しかし、これほどまでに素敵で美しいと思った笑顔は生まれて始めてだった。多分、多少主観的見解が交じっているのは明白だった。贔屓目に見ているのは間違いなかった。でも、この笑顔を失いたくないと思った。


 思ったから、ふと疑問に抱いた。


 どうして渚は、俺にこんなにも素敵な笑顔を見せてくれるのだろう、と。

 渚は言った。俺のことが好きだと。嬉しかった。両想いだったから、嬉しかった。


 だけど、だからこそ自己のこれまでを振り返ってみると……正直俺は、とてもじゃないが渚に惚れられる要素がなかったのではないかと思ってしまったのだった。


 渚が俺を好いてくれていることはわかった。

 だけど、彼女がどうして俺を好いているのかはわからなかった。


 聞いても良いものだろうか。

 不機嫌にさせないだろうか。


 そんな問答を脳内で繰り広げた。自分のこういう臆病なところは、個人的に女々しく見えて嫌いだった。

 

「宗太ってさぁ……」


「ん?」


 そんなことで悩んでいると、渚が話し始めた。


「すぐ、顔に出る」


「……顔に?」


「悩んでるでしょ」


 ギクリ。

 多分、図星なことも顔に出た。渚がわかりやすいため息を吐いた。


「話してみて」


「……気分を害すかもよ?」


「それでも。有耶無耶にしたって解決されることはないよ」


「……確かに」


 仰る通り。

 渚と交際を始めて半日と少し。彼女はやはり、いつだって正しい。


「……渚、聞かせて欲しいことがある」


 観念して、俺は続けた。


「渚は……その、俺のどこを好きになったんだ?」


「どうして?」


「……ついさっき話したけど、俺はどうやらとことん自己評価が低いらしい。だから、今の俺がお前に釣り合っているとも思っていないし、お前がどうして選んでくれたかもわからないんだ」


 ここまでの数時間の交際で、嘘も忖度も彼女には無意味だと思わされたから、全てを素直に吐露した。


 渚は、


「……ふうん」


 少し怒っていた。


「宗太、先に言っとくね」


「何さ」


「自己評価が低くても、良いことないよ」


「……うん」


「あたしも別に自分に自信があるわけじゃない。疑心暗鬼になることだってある。だけど、多分それ良くないんだ」


「うん」


「適度に謙遜するのは良いけど、宗太のそれはもう自虐。あんまり続けると、皆に見下されるよ」


「はい」


「……で、宗太の好きなところだっけ?」


「まあ、それでも……」


 不承不承と頷くと、渚は呆れたため息を吐いた。


「そんなの、優しいところに決まってるでしょ」


「……さっきの話を掘り返すんだけどさ、それって褒めることがない人に使う常套句なんだけど」


「それは具体例が伴わない場合ね」


「まるで俺には具体例が伴っているみたいに言うな」


「あるじゃない。いっぱい」


 そうかなあ。

 俺は首を傾げた。


「……さっき、堀に落ちそうなあたしの手を引いてくれた」


 渚は不満げな俺に向けて、語りだした。


「車の運転、買って出てくれた。風邪引かないようにジャケット貸してくれた。本当は嫌なのに、自室にあたしを入れてくれた。

 勢いに任さず、あの場の空気に流されずにあたしとの初めてを大事にしてくれた。


 突然結婚しようと言って、別の誰かの心配をしてあげてた」


 語り終えて、渚は少し感情的になっているように見えた。目尻に微かに光る何かが見えた。一度それを拭った彼女が俺に見せた気高く強張った顔は、俺の身を震わせた。


「ほら、こんなにいっぱいあるじゃない」


 彼女が語った俺の優しいところは、実に彼女と付き合った後の僅か数時間の話だった。

 自分の中で当然だと思った行為を、彼女は優しいと褒めてくれたのだ。

 雪解けの水が流れ出すような、爽快な気持ちを胸に抱いていた。


 渚の語ったことは、俺が当たり前に思うことだったから。


 どうして、渚に対して自信が持てなかったのか。

 彼女が婚姻届を渡してくれた時、冗談だと思ったこと。

 彼女が俺に身を委ねてくれた時、一歩が踏み出せなかったこと。

 彼女が俺のいない時に実家に行くと言った時、それを拒んだこと。

 彼女に俺の趣味を教える時、恥ずかしいと思ったこと。


 どうしてそんなことをしたのか、そう思ったのか。ようやく、その理由がわかった気がした。


 俺は多分、彼女に認められていないと思っていたんだ。


 今日まで彼女とは疎遠だった。

 再会しても、美しい彼女に対して、まともに我を出すことは出来なかった。

 俺は彼女の隣に相応しくないと思ったんだ。

 過去を美化した結果、今の彼女は俺なんかでは手が届かない人になっていると思っていたんだ。


 でも彼女は……等身大だった。そして俺を認めてくれた。認めてくれていた。


 俺と彼女は、対等な存在だったのだ。


「ありがとう」


 俺はお礼を言った。多分、対等な存在でいてくれて、好いてくれて、ありがとうと言いたかった。


「……うん」


 言葉にしないと伝わらないこともある、といつか彼女は言った。でも今、彼女は俺の言葉の真意を理解してくれた。そんな気がした。

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