過去は離れるほど美しく、近づくほど汚らわしい

 朝帰りの車の中、ぼんやりと渚との会話を思い出していた。渚との関係は、中学以降疎遠になっていった。ただ、それまでの記憶の中の彼女は子供ながらに憧れの存在だった気がするのだが……美化している、か。


 幼少期の思い出を振り返ると、どれもトンネル明けの空のように眩しかった。


 幼少期の思い出は、楽しい記憶しかなかったのだ。

 彼女の家で一緒に遊んだゲームのことも。

 もう埋め立てられてなくなった近所の池でやったザリガニ釣りも。

 神社でやった鬼ごっこも。


 とてもとても楽しい思い出だった。疎遠になり、今再構築を始めようとしている彼女との関係を思うと、どうして中学、高校時代にももっと交友を深めなかったのかと後悔を覚えるくらい、美しい思い出ばかりだった。


 それなのに……。

 その美しい記憶を、まるで偽りだったと言いたげな発言をされてしまった。


 当時の記憶は、今の俺から見れば思わず羨望の眼差しを寄せてしまうくらい眩いのに、それを一蹴されるのはやはり面白くなかった。


「どうしたの、なんだか物憂げな顔してさ」


「……ちっちゃい頃の俺ってさ、渚さんから見てどうだったですか?」


「ヘタレ」


「なんだよ今とちっとも変わってないじゃん」


 アハハと笑うと、冷たい視線が停車中の車内にて運転席に座る少女から送られた。


「そこで素直にヘタレであることを認められるのは、数少ない宗太の長所よね」


「数少ないは言い過ぎ。少しはあるから、俺の長所」


「例えば?」


「……優しい」


「自分から言っちゃう? それ」


 渚は呆れた声で続けた。


「そもそも、優しいって褒めるところがない人にとりあえず言っておくやつだよ」


「俺、どうやら自己評価がとことん低い人間らしいなあ」


 そういえば、昨日までは大人になんて俺はなれないと思っていたくらいだったからな。と言うか、今でも大人になれた、という実感はあまりない。折角、こんなにも可愛く、意中の相手と恋仲になれたというのに。時間が解決してくれる問題なのだろうか。


 ……というか、俺達って恋仲関係で良いのだろうか?

 将来は誓い合ったが、Aまでしかしていないし、口に出してそれを両者の共通認識にしたわけでもない。


「なあ、渚」


「ん、何?」


 問いかけて返事をもらって、今更ながらこっぱずかしいことを質問する寸前だったことに気が付いて、俺は閉口した。


「何よ、どうしたの?」


 車を運転しながら渚が怪訝そうに言ってきた。


「……えぇと。……ただ呼んだだけ」


 顔が熱かった。なんだこのバカップルのしそうな問答は。言い辛いあまり、思わず自分が毛嫌いする人種のような真似をしてしまった。


「ふうん。ただ呼びたくなったの? あたしのこと」


「……うむ」


「そっか。嬉しい」


 喜んでくれたのなら、恥も掻き得だったかな。俺は安堵のため息を吐いた。


「で、本題は?」


「え?」


「宗太、そんな熱々ホカホカなカップルみたいなことするタイプじゃないでしょ。本当は何を言いたかったの?」


 俺の心情、筒抜けじゃんか。


「で、本当は何を聞きたかったの?」


「……うぅむ」


 ……沈黙していても無駄なのは、たった一日ながら渚との会話を見れば一目瞭然だった。


「いや、俺達ってけけけ、結婚は誓い合ったわけじゃないですか?」


「うん。なんで敬語?」


「まあまあ。それで……そういう許嫁? になったのであれば、私達は今は一先ず恋仲、ということでよろしいのかな、と」


「……宗太が嫌じゃなければいいんじゃない?」


「嫌だなんてとんでもない」


「そう?」


「うん」


「じゃあ、決まりね」


 言ってみたら、意外とあっさり同意してくれて拍子抜けした気分だった。


 と、しどろもどろな一幕を送っていたら、車はまもなく俺の実家に差し掛かろうとしていた。


「……不束者だけど、よろしくな」


「宗太は不束者なんかじゃないと思うよ」


「おおう」


 思わず感嘆の声が漏れた。これが下げて上げる、というやつか。こうされるだけで心が満たされた気持ちになるのだから、人間って……というか、俺って簡単な男だなとつくづく思った。


 そんなことを考えていると、車が実家に辿り着き、実家の前の道に渚の運転する車が停車した。


「じゃあ、また後でね」


「うん。出る時になったら電話してくれ」


「わかった」


 そう微笑んで、渚が物憂げな顔をした。


「……どうかした?」


「このままおばさん達に挨拶に行こうかな」


「また今度でいいだろ、それじゃあなっ」


 渚の唐突な提案に、俺は思わず扉を思い切り閉めていた。助手席の窓から、運転席にてふくれっ面の渚が見えた。

 苦笑を一つして、彼女が発進し帰還するのを見送って、俺は一つため息を吐いて実家へと一日振りに帰還した。


「ただいま」


 家の中からの返事はなかった。玄関を上がり、台所を覗いた。


 母はのんびりと電話をしているようだった。

 一先ず、俺はスーツから着替えようと自室に戻った。高校を卒業し、上京して一年。たまに帰省しては掃除も碌にせず、寝るためだけに使う部屋になったが……すっかり埃臭さが充満してしまった。

 スーツを脱いで、お出かけ用にアパートから持ち込んだ服に着替えて台所に戻った。まだ残る酔いを醒ますため、水を飲もうと思っていた。


「朝帰りね」


 コップに注いだ水を喉を鳴らして飲んでいたら、母に言われた。痛いところを突かれた。


「大友とかとカラオケで遊んでた」


「なんだ、女の子じゃないんだ」


「悪かったな」


 良し。上手く平静とした態度で苦言を呈せた。これで渚との関係はバレまい。


「また遊んでくるから。大友とかと」


「気を付けてね」


「うい」


 一先ず、渚から電話が来るまで居間でのんびりしていよう。盆地の冬は寒く、ストーブが焚いてあるだけの台所は中々に寒い。居間のこたつで温まっていよう。

 そう思って、廊下を歩き、居間に行ってこたつに潜り込んだ。幸いにも電源が付いていたから、こたつの中は暖かかった。


 そのまま、重い胃を労るように仰向けに寝転んだ。

 そうしていると、いつからかわからないが急激な眠気に俺は襲われて……再び眠りにつくのだった。


「もしもし、甲斐性なし君」


 夢心地の中で忘れられない声が聞こえたのは、眠りに耽ってからどれ程後のことだったろうか。

 最初は夢だと思ったその声だったが、いつしか違和感に気付いて目を開けたのだった。


「……渚」


「おはよう。熟睡でしたね。約束も忘れて」


「……ごめん」


 こたつは熱いくらいなのに、どうしてか背中には冷や汗を掻いていた。

 とりあえず体を起こした。

 そうして、廊下にいる人を見て嫌な顔をした。


「マイマザー……」


「まったくぅ、渚ちゃんと付き合ったならちゃんと報告しなさいよ、この駄目息子」


 母はとても嬉しそうだった。血縁者の喜びは基本嬉しいものだが、どうしてか今回ばかりは素直に喜べなかった。

 恨めしげに渚を見たが、


「寝てるんだもの、お邪魔するしかないじゃない」


 ごもっとも過ぎて返す言葉はなかった。


「母さん、ちょっと渚と遊んでくるから」


「大友君とはいいの?」


「いいの」


 ニヤニヤする母が恨めしかった。


「ほら、行こう。渚」


「うん。わかった」


 同じく、渚も何故だがニヤニヤしていた。しかし、あまり恨めしくないのはやはり、この結果を招いたのが自業自得だから、なのだろう。


 ……今、思い出した。

 あれだけ昔は良かったと思っていたものの、思えば俺は当時から最終的には渚に頭が上がらなかった。


 渚に対する今の感情は、その時の尻に敷かれる感覚が、もしかしたら未だ自己の奥深くに残っている結果なのかもしれない。


 ただ、もしそうだとするならば。

 俺が思っていたよりも、当時の俺は当時の状況を心の底から楽しんでいなかったのかもわからんなあ。


 そうか。

 これが過去を美化する、という渚の説の証明、か。

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