二日酔い。化粧。香水。

 鼻腔をくすぐる匂いは、食物とはまた違った香りだった。だけど悪い匂いではなかった。これまでの二十年、成熟した人よりもまだ浅い人生でどうこの匂いは形容したらいいのかと頭を捻っていた。


 香水。


 暗闇の視界で、匂いの根源に行き着いた。行き着いたものの、わからなかった。

 俺には香水を付ける趣味もないし、昨日それを付けようと思い至った記憶もなかったからだ。


 目を開けると、陽の光が眩しかった。


 酷い頭痛を覚えた。喉の奥の奥、内臓からもムカムカした吐き気にも似た倦怠感が広がっていた。体を起こすのも億劫と感じるくらいの倦怠感だった。


「……ここは?」


 そんな体調不良の中、部屋の様子を俺は見回した。見覚えのない部屋のベッドに、どういうわけか俺は一人寝ていた。


「あ、起きた」


 冴えない顔で室内を見回していると、渚が姿を現した。どういうわけか黒のパーティードレス姿だった。髪の毛は束ねていなかった。最後に見た時には肩くらいまでの長さだったと思ったが、今の渚は艶のある長髪だった。


「……んあっ!」


 大人の女性になりつつある渚を見て、ようやく昨日のことを思い出して、一人叫んだ。

 そういえば昨日、幼馴染である彼女への好意を理解して色々としたんだった。そう、色々と。


 いつの間にか頭痛と倦怠感は吹き飛んでいた。


 渚の顔は直視出来なかった。俯いていると、


「はい」


 近寄ってきた渚が、俺にコップに注いだ水を差し出していた。


「具合はどう?」


「……ぼちぼち」


「宗太のぼちぼちは、ぼちぼちじゃないからなあ」


 そこで呆れたように微笑む渚は、中学時代に友人と笑い合っていた時の彼女の姿と重なった。


 一人で寝ているには広すぎるベッドに、ドレス姿の渚が足を組みながら腰を下ろした。同い年のはずなのだが、その姿勢で外の景色をぼんやり見る渚はどうしてかかなり様になっていた。


「大丈夫?」


 ほんやりと外を見ていた渚が、俺の視線に気付いて目線を寄越した。

 献身的な彼女から、俺は慌てて視線を外した。


「うん。大丈夫大丈夫。ちょっと倦怠感と頭痛がして立つ気力もないだけだからさ」


「それ、全然大丈夫じゃないやつね」


「そうとも言う」


「そうとしか言わない」


 パチンと指で額を弾かれた。


「あいたっ」


 弾かれた部分を指でなぞりながら、渚を恨めしそうな視線で睨んだ。

 渚は微笑んでいた。


 恨めしげに睨んで、間近にいたから気付いた。ナチュラルメイクだが、渚は化粧をしていた。多分、昨晩の成人式、同窓会でもしていたのだろうが……全然気付かなかった。


「人の顔まじまじ見て、どうかした?」


「いや、大人になったんだなあ、と」


「誰が?」


「お前だよ」


「えー、そうかなあ。自覚ないよ」


「……化粧に香水に、前はそんなのしてなかった」


 俺が知る中学時代までの渚は、そんなこと……。


「今じゃ高校生でもしてる子いるよ」


 渚は呆れたように笑って答えた。

 確かに、大学進学して上京して、通学時間に学生制服を着た所謂女子高生とやらとすれ違うこともままあるが、時々そういう人はいる。


 だから、多分そういうことが大人であることの証明というわけではないのだろう。


 でも、幼少期をほぼ一緒に過ごし疎遠になっていった渚がそうして化粧や香水の仕方を覚えていっていたことは、やっぱり彼女の成長を感じてしまうのだった。


「そう言うなら、宗太も大人になったよ」


「……そうかな」


「ラッパ飲みなんて、あたし宗太にそんなこと教えた覚えないよ」


 嘲笑するように渚は言った。小さい頃は、確かに渚は自由奔放な俺の監督役みたいなところがあったし、上から目線での言い振りなのは……やっぱり少し、面白くなかった。

 まったく、誰のせいでやけ酒なんてしたと思っているのだ。


 昨日は本当に、一日彼女に振り回された。肉体的にではなく、精神的に。少しだけ腹いせしたい気分だった。それがエゴだと言うのはわかっているが、そうしたかったのだ。


「誰かさんが結婚すると知って、正気じゃなかったんだよ」


「……へぇ」


「ちっちゃい頃は一緒にいたのに、疎遠になって近況だって母伝いにしか聞いてなくて……いきなり結婚する、だもんなあ。おかげで成人式も同窓会も上の空。やけ酒もしたくなるよ」


 渚は無言で俯いていた。


「……俺なんかで本当に良いのかい」


「ん?」


「俺、別に大層な男じゃないぞ」


 しばらくの沈黙の後、渚は大きなため息を吐いた。


 多分、俺を小馬鹿にしているのだろう。


「あたしも別に、大した女じゃないよ」


「そんなこと……」


「あるよ。昔のことを美化する人よくいるけど、宗太はそれの典型だね。だからちっちゃい頃よく一緒にいたあたしのこと、相当美化して見てるんだよ」


「……そんな頭ごなしに否定しなくとも」


「これから一緒に生きることになるんだから、後々ギャップが起きても大変じゃない。だからはっきりさせるのよ」


 その辺のバッサリ具合は、小さい頃の渚もそうだった。幼少期から俺は、自称俺の監督役である渚のことを同い年ながら大人な少女と一目置いていたと記憶していた。


「昔より今を見て生きないとね」


「哲学チックなこと言うじゃんか」


 そう突っ込んで、俺は苦笑した。


「そろそろ起きれる?」


「うん。頑張るわ」


「この後、デートでエスコートしてくれるんだもんね」


「そうそう。タイタニックに乗ったつもりでいてくれよ」


「豪華絢爛だけど沈むじゃない」


 アハハと笑って、ベッドから起きた。恐らく渚が椅子にかけてくれていたジャケットを羽織り、机に置かれた折り畳まれた紙を見つけた。


「……これ、どうしようか」


「ん?」


 こちらを見た渚に、俺は折り畳まれた婚姻届を掲げた。


「ああ、宗太が持っててよ」


「……いいのか?」


「うん」


 コートを羽織った渚が続けた。


「すぐに、とは言わない。段階を踏んでいって、そうしたら一緒に役所に行きましょう?」


「……悪いな」


「ううん。宗太にこれから、今のあたしを拝ませてやる。ちゃんと認識させた上で逃げ場を塞いで結婚してやるわ」


 少し恨み節めいた言い方に、俺は曖昧に微笑んだ。


 手短にチェックアウトの支度を終えて、忘れ物がないか再確認して、俺達はホテルを後にしようと出口に向かった。


「あ、そうだ。これも言っておかなきゃ」


 出口にて、渚はクルリとこちらに向き直り、続けた。


「宗太と違って、あたしは宗太のこと大体何でも知ってるんだからね」

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