ラブ・ホテル

 雰囲気を出すためにぼんやりと照らされる薄オレンジ色の照明を眺めながら、ベッドに仰向けに横たわっていた。

 下ろし立てのスーツは着たままに、これでは皺になるなと思うも、それを脱ぐ気には中々ならなかった。


 お酒。

 そして、ここが自分のプライベートスペースではないことがやる気を創出出来ない理由なのだろう。


 ……いいや、それだけではない。


 広めの部屋の隣りにあるシャワールーム。

 今そこに、俺と一緒にこのホテルに入店した件の少女が入っていた。

 薄めの壁から聞こえてくる鼻歌と水の打ち付けられる音が俺の気をおかしくさせていた。だから何をするにもやる気が伴わなかった。


 件の人は、俺に酔い醒ましのための水を一杯寄越してシャワーに行った。でも机の上に置かれた水は半分も口が付けられていない状態だった。それこそが俺が今極度の緊張に駆られている証であり、この待ち時間を悠々自適に送れていない理由だった。


 俺は目を瞑った。

 誰かさんのせいでの極度の緊張。そして誰かさんのせいでのやけ酒でコンディションは明らかに最悪だった。


 だけど時間は刻一刻と進んでいくし、彼女も一日の体の汚れを洗い清い状態で風呂からそろそろ上がってくる。


「はわわわわ」


 清く美しい渚の裸体を想像させられて、気持ちが乱された。今日一日、朝から俺は幼馴染の彼女のせいで気持ちが乱されっぱなしだ。本当に情けない限りである。


 落ち着け。


 自分の心に言い聞かせた。

 なし崩し的にここまで来たが、最早後には引けない状態。そして何より、ここまで俺は一切合切男らしい姿を好いた渚に見せられていなかった。


 ……もし。

 もしこのまま、この後も情けない姿を見せたとする。


 そんなのはいけない。


 そんなことをすれば、男が廃るではないか。


 既に来るところまで来ている気がしてきた。


 と、とにかく、廃っているなら廃っているで名誉挽回しなければならないだろう。

 そう意気込み、俺はようやく少しだけやる気を出した。柔らかく人を駄目にする気のベッドから起き上がり、酔いのせいなのか火照ってきた体を冷やしたくてジャケットを脱ごうと思った。

 その時、内側のポケットに入っている何かに気付いて、脱ぐ前にそれを取り出した。紙のような感触だった。


「はうっ」


 ドキリとさせられた。

 すっかり忘れていたが、ジャケットの内ポケットに入れてあった紙は折り畳まれた婚姻届だった。

 こんな大切な物を無意識の内にこんな場所に入れているなんて、一歩間違えれば紛失しかねないところだった。気付けて本当に良かった。


 ……好いた渚からもらった婚姻届を丁寧に机に置きながら、ふと思った。


 ひ、一先ず!

 渚が俺のことを好いていてくれたことは理解した。

 しかし、かつての思い出を取り出していきなり婚姻を迫る、というのは些か乱暴ではないだろうか。


 す、好いていてくれたことは嬉しいが、いきなり結婚とは経済的にも大変なことが多いだろうし、過去一緒に遊んでいた渚がそんな猪突猛進なことをするとはとても想像出来なかった。


「宗太、出たよ」


「うひゃあっ!」


 なんて他愛ない疑問を抱いていると、遂に神になる時がやってきた。遂に来たのか、この時が。

 情けない声を荒らげた後、一つわかりやすい咳払いをして渚の方を振り返った。


 そして、目を疑った。


「ちょっ!」


 渚は、バスタオル一枚の出で立ちで風呂から出てきたのだ。

 上がりたて故に昇る蒸気と、柔肌露わな好いた女性の肉体と、熱る綺麗な顔と、主張控えめな胸を何度も見回して、思考は冷静になるどころか暴走の一途を辿り掛けようとしていた。


「……また酔いが回ってきた?」


「へっ!?」


「顔、真っ赤だから」


 余計に顔が熱くなったのがわかった。一歩後ずされると、婚姻届を置いた机の支柱に足をぶつけた。痛みはなく、音だけが室内に響いた。


「わっ、すごい音したけど大丈夫?」


 渚が心配そうにこちらに近寄ってきた。


「大丈夫! こんなの全然! 大丈夫!」


 声が震えて、誤魔化すように大きな声を出した。

 

「……そう?」


 そう言う渚の顔は、怪訝そうだった。


「一切合切問題なし!」


「そう?」


「うんうんうん」


 三度頷くと、渚はようやく納得したらしかった。


「……じゃあ、どうする?」


「……え?」


「宗太、お風呂入ってくる? ……それとも、もう……その」


「あわわわわ」


 狼狽える俺に対して、渚は羞恥からか視線を下に落としていた。そして、視線を落としたことが災いして何かに気付いたらしかった。丁度俺の下腹部あたりを見ているようだった。


 ……って、ようだったではないのでは!?


 渚は……。


「準備万端みたいだね」


 照れ臭そうな、恥ずかしそうな、されど扇情的な笑みを見せていた。

 渚が無言でにじり寄ってきて、俺はあたふたし始めた。


「な、渚さん……?」


 問いかけるも返事はなかった。

 にじり寄る渚は、遂に俺の目の前にまで迫り寄った。


「宗太……!」


 そして、俺に抱き着いた。


 一瞬何が起きたか理解出来なかった。


 だけど状況を理解すると、気分がおかしくなりそうだった。

 嬉しいような恥ずかしいような満たされていくような。

 そんな複雑怪奇な感情を抱き、どうしたものかと下を見て、愛おしげに俺を抱き締める渚の様子を見て更に気分がおかしくなって……。


「す、ステイ!」


 俺はヘタれた……。


「きゃっ」


 無理やり渚を引き剥がすと、渚から驚いたような悲鳴が漏れた。

 気遣うことは出来なかった。そんな余裕はありはしなかった。


「どうしたの、宗太……?」


「えぇと、その。あの……」


 しどろもどろになりながら、なんて言うかを考えた。答えは出る気配はなかった。が、絞り出さないと付き合い初日から破局する可能性すら出てきてしまった。どうしたものかどうしたものか。


「な、なんでそんなに結婚に拘るんだ?」


 結果、今更な質問が絞り出された。


 渚は最初、俺への問いに目を丸めた。そして、俯いた。


「……わからない?」


「へ?」


 渚に再び抱き締められて、女性の精一杯の力で引いて押され、俺は彼女にベッドに押し倒された。




「……好きだから」




 俺に馬乗りになった渚が囁いた。

 部屋に設置され稼働しているエアコンに負けるくらいの小さい声だったのに、一言一句聞き逃すことなく彼女の告白は俺の耳に届いた。届いてしまった。


 顔が熱くなるのがわかった。

 これ以上彼女に情けない姿を見せたくないと思っていたのに、これでは形無しだ。

 だけど、最早そんなことを考える余裕すら俺にはなかった。


「それ以外に、理由いる?」


 渚の問いかけに、ふと冷静になった。


「い、いるよ……」


 情けない声で、俺は続けた。


「確かに俺は渚が好きさ。お前が結婚すると知った時これまでの人生で一番凹んだし、俺のことを好いていてくれていると知った時は嬉しかった。

 ……でも、結婚は早いだろ。俺達、まだ学生だぜ? まだ俺、お前を養っていけない」


「ふんっ。宗太の癖に、あたしに男気あること言うんだ」


 渚は俺に馬乗りになったまま、ご立腹そうに言った。いや、言っちゃ悪いんかい……。


「……しようよぅ」


 しばらくの無言の睨み合いの末、か細い声が渚から漏れた。


「も、もう少し段階を踏もうよ」


「キスはもうしたじゃない!」


「こ、今度はデートをしよう。デートを。ほら、明日小学校のタイムカプセル開けるのが夕方にあって、それまで俺暇なんだよ。一緒に遊ぼうよ」


 そもそもキス一回で段階踏んだ判断も早いだろうが、ヘタれた俺に文句を言う資格はあるまい。


 渚は再び静かになった。


「わかった」


 しばらくして、渚は俺に被さるように倒れ込んだ。彼女の柔肌が触れたせいで、俺は再び辛抱我慢を強いられた。


「……じゃあ明日……もう今日、か。デートしましょう」


「うん。そうしよう」


「一旦家に送ったら、またすぐ迎えに行くから」


「うん。わかった」


「ちゃんとデート何処に行くか考えといてよ」


「うぇっ!? こんな短時間で?」


「あたしの要望を一つ無下にしておいて、また無下にするの?」


「うぐ……」


 そう言われると酷く弱い。何せ、有耶無耶にしたけど、この場で神れなかったの、ただ俺がヘタれただけだし……。


「……わかった」


「じゃあ、明日に備えてもう寝よう?」


「うん。……あっ」


「今度は何さ」


 渚の声は、これまで聞いたこともないほど冷たかった。

 渚に返事もせず、複雑に絡みついた渚の腕を避けつつ、俺はジャケットを脱ぎ、彼女に渡した。


 渚が首を傾げた。


「……その、バスタオル一枚だと風邪引くよ」


 俺は言った。


 渚は目を丸めていた。そのまま俺の黒のジャケットを眺めて、渋い顔をしてそれを受け取った。


「ジャケット一枚じゃまだ寒いんだけど」


「えぇ……、俺の身包みを全部剥がす気か?」


「それも良いかも」


「おい」


「……ふふ」


 渚から微笑が漏れた。ジャケットを羽織った後、彼女は再び俺に引っ付いた。


「宗太が温めて」


「……力不足かもしれませんが、お望みであれば」


 斜に構えた言葉が漏れた。

 しかし、どういうわけかその言葉で渚は満足したらしく、次の朝日を拝むまで、もう俺の上から退いてくれる気はなくなったらしかった。


 そんな彼女のことを愛おしく思いつつ、薄オレンジ色の部屋をぼんやりと眺めた。


 そうして、一段落ついたからか急激な眠気に俺は襲われるのだった。


「お酒と宗太の匂いがする」


 暗闇の視界の中、恍惚とした渚の声が聞こえた。

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