恋のABC

 しばらく呆けていると、気が済んだのか渚がギアを入れサイドブレーキを戻した。車が発進し始めて、振動でぼんやりしていた意識が覚醒していった。


「お、お前……!」


 ようやく気を取り直して、俺は渚を咎めるように声を荒らげた。渚は平然としていた。

 なんだか俺がおかしな反応をしているような錯覚を覚え始めていた。


「いきなり……その、キスだなんておかしいだろ」


「でも、好き合ってるなら問題ないんじゃない?」


「……まあ」


 やっぱり、おかしいのは俺なのだろうか。

 釈然としない頭を悩ませるため、腕を組んだ。思考はやはりまとまらなかった。


 発進した車が進んでいく。


 混乱した頭ながら、もうまもなく実家が見えてくる頃だ。一先ず今日はこのまま渚と別れようと思った。そうして一晩頭を冷やして、明日シラフの状態で渚とこの話の続きをしようと思っていた。冷静になってから話したいと思っていた。


 実家の前に辿り着いた。車が……停止しなかった。


「え」


 少しずつ遠ざかる実家を眺めながら、間抜けな声を漏らしていた。


「ど、どこに行くのさ」


 渚に尋ねた。車が十字路を曲がったために、もう実家は見えなくなっていた。

 渚が俺の家の場所を知らない、なんてことはない。彼女だって小さい頃、時たま俺の家に遊びに来たことはあったのだから。


 だが、そうであれば頭が痛い。

 渚はどうして俺の家を素通りして行ったのだろう。


「宗太が言ったんでしょ?」


「何を?」


「結婚するには段階を踏む必要があるって。デートとか、恋のABCとか。今さっきAは終わったね」


「最早無理矢理だったからな」


「だから、これからBとCをしに行こう」


 渚の声は明るかった。まるで意中の相手と愛し合えることを喜んでいるようにも見えた。


「あたし、今日はこの後何も予定はないよ?」


「そ、そうなの?」


「うん。……宗太は?」


「え」


「今日、この後予定ある?」


 高校のクラス会は出席するつもりはなかった。最初からそうしようと思っていたわけじゃない。ただ、これだけ酒に酔わされた状態で電車に乗ってクラス会に合流して、粗相を起こさずに帰れる自信がなかった。

 だから、酔っ払った時点で残念とも思ったがクラス会への参加を断念していた。


 この三連休の帰省は、言うなれば成人式絡みでのもの。それ以外の予定。まして、こんな夜遅くからの予定なんて、もうありはしなかった。


 多分、渚もわかって言っている。俺に予定がないとわかって、言っているのだ。


「……あるの?」


「うぇあ!?」


 渚が露骨に落ち込んだ顔を見せたから、変な声が出てしまった。どうやらこの場は無言で切り抜けることは出来ないらしい。


「な、ないよ。ない。後は寝るだけ」


「本当?」


「うん」


「……本当に本当?」


「本当だ」


 渚の運転する車で、両思いであることを知った渚との腹の探り合い。

 成人式に参加していた頃からは想像も出来ない事態に見舞われた。


 最早、今目の前で起きている状況が全て夢なのではと思ってしまう始末だった。


 再び、意識がぼんやりとし始めた。睡魔が原因なのか、はたまた極度の緊張からなのか、酒のせいなのか。原因はわからなかったが、原因を思案することは酷く億劫だった。




 混濁した意識が蘇った。

 理由は、俺の手にひんやりとした温もりが広がったから。




 渚の手だった。

 小さい頃握った手と違い、細くて柔らかくて、おかしくなりそうな魅惑な手だった。


 手に広がる感覚に反するように、顔が熱くなった。今更ながら、好いた彼女にもう少し格好良い姿を見せたかったと思い始めていた。


「宗太、眠いの?」


「え?」


 突拍子もない渚の言葉に、首を傾げた。


「……眠そうだから」


「……そう見えるなら、そうなのかもしれない」


 事実、眠気はあった。

 だけど素直に眠れるような状況ではないと思っていた。他でもない渚のせいで、眠れるはずがないと思っていた。


 渚は曖昧な俺の言い振りにクスリと微笑んでいた。


「じゃあ休憩しよう」


 そう言うならば、実家に帰してくれ。


 そう思ったが、口に出すことは出来なかった。渚の悲しむ顔を見たくないと思っていたから。


 そして、そんなことを言うのが野暮であることはわかっていたから。


 車がまた少し走って、辿り着いた先は地元でも有名なホテルだった。カラオケ無料なんて垂れ幕が下がる、良心的そうなホテルだった。

 だけどこのホテルが地元で有名なのは、勿論悪い意味での話だった。

 このホテルはほぼ決まって男女一人ずつが一緒にチェックインし、愛を育み帰っていく、そんな愛の生まれるホテルだからだ。


 地元住民は老若男女が近隣で愛を生み、育むことを毛嫌いする。それは何も愛が妬ましいからとかそういう話ではなく、ただ単に愛イコールふしだら、淫らと考える風潮があるからだ。


 個人的には、清い愛に対しては、俺は寛容的だった。この世に生きる生物は、皆子孫を残すために生きているから。その子孫を残す行いはあくまで生存本能に則った行いだから。


 そう、これから俺と渚がする行いは、あくまで生物としての本能であり、清く愛ある美しい行動なのだ。

 この行いをこの場ですることを、一体誰が咎められようか。


 ……不自然に高鳴る心臓を鎮めようと、俺はチェックインし取った部屋に着くまでの間、闘病時にうわ言を発する時のように朦朧とした意識の中、そんなことを考えていた。

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