婚約者
大通りから田舎の小道へ車が進んでいった。道路の舗装もままなっていないから、車が上下に激しく揺れた。
そんな酒の酔いも相まって嘔吐してもおかしくない状況なのに、どうしてか俺の酔いが悪化することはなかった。むしろ、車の上下運動に合わせて、時間が移ろいでいくにかけて、渚の言葉を反芻していくにかけて、意識は鮮明になっていった。
混濁した意識が覚めていき、思考を巡らせて、
「相手に失礼だろ、こんなことしたら」
次に思ったことは、からかいにしては度が過ぎたことをしている渚への怒りだった。
「お前のことを好いてくれて、一生を添い遂げてくれるって相手がいるのに、いくらジョークでもそんな裏切り行為みたいなことするなよ」
「そ、宗太、何言ってるの?」
捲し立てて怒った結果、渚が困惑してしまった。
おかしい。
ようやく俺は渚と何かが噛み合っていないことを理解させられた。
「お前、結婚するんだろ?」
とにかく状況を整理したくて、俺は俺の知っている渚の情報を開示し確認作業をしようと思った。冷静にそう思うくらいに、酔いは既に冷めていた。
「うん。そうだね」
「誰とするんだよ、それ」
「宗太」
嘘偽りなく言っているように見えた。
だからこそ、俺は渚の言葉に鼻で笑った。渚が少しムッとしたことが、気配から察せられた。
「俺達……別に付き合っているわけじゃないだろ」
言葉尻が弱まった。自分から事実を突きつけることで、胸が痛くなった。どうして俺は、自分で自分が苦しくなることを言っているのだろう。
「そういうのは、これから築いていけばいいじゃない」
なんというポジティブ思考。そもそも回答になっていないような。
「何、もしかして……迷惑だった?」
「うぇあ!?」
渚が露骨に落ち込んだ顔を見せたから、変な声が出てしまった。迷惑でないか迷惑か。そんなことの答えは、成人式が終わった頃から明白だった。
「う、嬉しいよ、嬉しい。……嬉しいけどさあ」
思わず口ごもった。
嬉しいが、とにかく話が突然過ぎて理解が追いつかない。
「……結婚相手、本当に俺なの?」
「そうだよ?」
「そうなんだ。……でも、俺達別に結婚の約束なんてしてないだろ。それでいきなり結婚だなんて、そりゃあ驚くだろう」
「何言ってるの。したじゃない、結婚の約束」
「え?」
素っ頓狂な声が出た。
「いやいや、記憶にないから」
何せ、渚とは中学卒業以来、会う回数も極稀になった。その度に会っても、大した会話もせずに別れていたし、そんな自身の将来を決めるような話をした覚えはまるでない。
「したよ、約束」
「いつだよ」
「ちっちゃい頃」
車のエンジン音だけが車内に響いた。渚は俺が思い出すのを待っているようだ。俺はと言えば、
『大人になったら結婚しようね!』
心当たりがあったが、如何せん昔の話過ぎて突っ込むべきか悩んでいた。
俺と渚が結婚の約束をしたことは、それこそ今思い出している俺達がまだ小学校にも入っていないような幼少期の頃の話。
それを持ち出して突然婚姻届を持って現れるとは、対話する機会が激減していたとはいえ、この数年で渚がかなり変わったことに、俺はまるで気付かなかったわけだ。
内容自体は喜ばしいことのはずなのに、どうしてか素直に喜べないのは何故なのだろうか。
「……ねえ、宗太?」
「ん?」
「もしかして、覚えてない?」
「……え」
「……そうだよね。昔の話だもんね」
渚の声が暗くなった。慌てて隣を見ると、渚は今にも泣きそうな顔で俯いていた。
命の危険を感じていた。
わき見運転をするなとは、教官に教わる重要事項だったからだ。
「あれだろ、あれ。裏山の小高い丘で遊んだ時に、おままごとの中で突然お前が言いだしたやつ」
「……覚えてるんじゃん」
どうやらヘソを曲げさせてしまったらしい。
「何よ、さっさと言いなさいよ。本当に昔からはっきりしない人だ」
「突然そんな昔の話を引っ張り出してくる方がどうかしてるだろ」
「ふんっ。さっきは凄くキレイだ、だなんて言ってきたくせに。不服なの?」
「そ、それは今はいいだろ。……そ、その。不服ではないよ、そんなことはまったくない。でも、突然の話だから思考がまとまらないんだよ」
「まとめる必要なんてないじゃない」
「は?」
「これに必要事項を書いてくればいいの」
渚が婚姻届を指さした。
「いきなり結婚だなんてどうかしているだろ」
「でも、大人になったら結婚する約束じゃない」
「それもう揚げ足取りに近いだろ。そもそも俺達大学生の身なんだから、まだ子供みたいなもんだ。確かに成人はしているけどな」
「何よ、折角今日まで待ってたのに、これ以上待たせるつもりなの?」
「いやだって、そもそももっと段階を踏むもんだろう、こういうの」
「例えば?」
「え?」
「例えば、どんな段階を踏むのよ。どんな段階を踏んだら結婚してくれるの?」
こみあげてくる何かを隠す術はなかった。顔が熱かった。
「……で、デートとか」
「とか?」
「後は、その……色々」
「はっきりしてよ。これじゃあ結婚出来ないじゃない」
そもそもなんでそんなに結婚に拘るんだよ。
「こ、恋にはABCというものがあるだろう。あれだよ、あれ」
やけくそで言い放つと、渚があーと同意げに唸った。
恥ずかしいことを言わせやがって。渚を精一杯睨むが、彼女にはまるで効果はなかった。
「じゃあ、しよっか」
「……ん?」
唐突な渚の提案に、思考は再び停止した。
「だって、あたしとの結婚自体は嫌ではないんでしょう? ここまでの反応を見る限り」
「……まあ」
車がまもなく実家に辿り着くところで停止した。畑に囲まれているせいで、人気はまったくなかった。
「何故停める」
俺の問いかけに答えず、渚はシートベルトを外していた。
そして……、唇が塞がった。
まもなく、後頭部に温もりを感じた。それが渚が這わせた彼女の両腕だと気付くと、まもなく今俺が何を彼女にされているのかを理解した。
息苦しくなった頃、ぷはっという声と共に息が出来るようになった。
俺の息は、運動した後のように荒れていた。
「……お、お前」
「酒臭い」
どうやら不快な思いをさせたらしく、浮かれた気持ちが落ち込んだ。
気を取り直した渚の右手人差し指が、俺の唇に触れた。
「まずは段階一つ目、ね」
あわあわしている俺に、飲酒者のように頬を染めた渚が微笑んでいた。
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