母の謝罪
賀藤琥珀とその母親である千鶴。彼らはお互いの気持ちを話し合って、和解した。母である千鶴は、琥珀の夢を反対することなく、応援すると表明してこの話は終わりに思えた。しかし、千鶴にはもう1つやるべきことが残っていた。それは……かつて次女の真珠に放った言葉の謝罪だ。
「お母さん。話って何?」
真珠は千鶴の私室へ訪れた。母親から大事な話があると呼び出されて、少し緊張した面持ちだ。だが、実のところは呼び出した当の千鶴の方が緊張しているのだ。なにせ、大人というものは歳を取れば取るほど自らの間違いを認めたくなくなる生き物である。過去の発言とは言え、子供に謝罪するのは勇気がいることである。
「真珠、悪いね。わざわざ来てもらって」
「ううん、いいの」
千鶴は短く呼吸をして心を落ち着かせた。そして、話を切り出す。
「これは私の独り善がりなことかもしれない。真珠にとって、嫌な記憶を思い出させてしまうかもしれない。けれど、しっかりと謝っておきたいことがある」
「謝ること……?」
なぜか謝られるはずの真珠が身構えてしまう。人間の脳は、なにか思い当たることを探す時は直近の記憶から探してしまう傾向にある。真珠の中の最近の記憶で母親に謝られなければならないことは見当たらない。だらこそ、真珠は軽い混乱状態に陥ってしまう。
「真珠、アンタが小さい頃……女優になりたいって言っていたよね。その時、私は酷いことを言ってしまった。それを謝りたいんだ」
真珠はその時、ハッとした。忘れもしない千鶴の一言。「アンタに女優は無理」。自分の母親が演出家をしていて、身近なところに芸能関係のものが転がっていた真珠。母親が手掛けた舞台や、制作に関わった作品。それらを見ることで、自分も舞台の中のキラキラとした女優になりたい。そうした想いを抱くのは自然なことである。
「そんな昔の話……お母さん、覚えていたんだね。こういうのって言った側はすぐに忘れるもんだろ思ってた」
いじめられた側はいつまでもそれを覚えていて、いじめた側は忘れている。そういう通説が存在している。千鶴も真珠もそのことにずっと触れてこなかった。真珠が千鶴の発言を受けて、2度と女優になりたいなどと口にしなくなった。それ以降、2人は衝突をせずに普通の母娘関係を築いていた。
「本当に申し訳ない。真珠。言い訳なんてしない。あの時の私の発言は過ちだった。私は……娘に対して言ってはいけないこと。取り返しのつかない発言をしたんだ」
当時の千鶴は、自分が可愛がっていた女優。コクマーこと久保坂 和己の恋人が自殺未遂をしたことで相当心が病んでいた。死ぬつもりだった彼女は遺書を書いていて、その中身が女優の道を目指してから今までに辛かったこと。それが書き連なれていた。彼女の姿が娘に、そして、かつての最悪の決断をしかけた自分と重なって、その道からどうしても遠ざけたくて、出てしまった言葉なのだ。
「お母さん。正直言うとね。私はあの時、本当に辛かった。だって、私、お母さんのことをプロとして尊敬していたんだもの。そのお母さんが無理って言うんだったら、絶対に無理なんだろうって思ったんだ」
幼少の頃の子供は親はなんでもできるスーパーマンだと思い込んでしまうことがある。真珠もその典型で、今でこそ、親だって人間で間違いや見当違いなことをすることもあるとわかる。しかし、当時の真珠にとっては、母親の言うことは絶対の真実。そう思い込んでいたために、反発することなく、その言葉を受け入れてしまった。
「本当にすまない。真珠、私はもっと早く謝るべきだった。真珠が長かった髪をバッサリ切った時、好きだった魔法少女のアニメも見なくなって、グッズも捨てた時、女の子が好むようなものを周りから遠ざけた時、……もしかして、私の発言が原因でそういう行動を取っているんじゃないかと思った。けれど、私はそれを認めたくなかったんだ」
女優への道を諦めた真珠は自身のその女性としての性質を否定するかのような行動を取ってしまった。一種の避難的な行動である。千鶴も自分のせいで、真珠の趣味嗜好が変わったことに薄々感づいてはいたのだ。謝るチャンスはいくらでもあった。けれど、千鶴は謝らなかった。もっと、早く謝っておけば真珠は違う道を歩んでいたかもしれない。
「まあ、確かにお母さんのせいだってことは否定はできないけど。私は私。今の人生に後悔はしてない。男子に混ざって活発に動き回ったお陰で、私はスポーツが好きだってことに気づけたし、陸上部でも活躍できている。この髪型もまあ、楽で良いかなって思ってる。なんか、1回ショートに慣れちゃうと、伸ばす気なくなっちゃうんだよね」
真珠はそこまで続けると顔がふにゃりとニヤけてしまう。それまでの真剣な表情が一気に崩れ去り、友人や恋人と楽しい会話をする年頃の少女の無邪気さが存分に出ている顔となる。
「それに、彼氏の翔ちゃんも私のそういう所が好きって言ってくれてるし、うへへ」
「そ、そうか。良い彼氏君だな」
シリアスなムードから一転、彼氏の話になって表情筋が緩んだ真珠。そのだらしのない顔に千鶴も毒気が抜かれてしまった。
「まあ、とにかく私はお母さんを恨んではいないよ。結局、私が夢を諦めたのは、私の弱さのせいでもあるし、本当に叶えたい夢だったら親の反対を押し切ってでも目指せたはずなんだよ……それに……」
「それに……?」
真珠はついつい自身がVtuberをしていることを言いかけてしまった。母親とは半ば和解しているとは言え、物事には順序というか、1度に処理しきれる量というものがある。母親にそれを伝えるのはまだ早い。そう思って言葉を引っ込める。
「あ、いやなんでもない」
「なんだい、気になるな」
真珠は現在、女優とは違うけれど、別の自分を演じるVtuberというものをやっている。アバターのキャラになり切って配信をして、ファンも収益も獲得したのだ。かつての夢だった女優とは少し形は違うけれども、真珠は今の自分。もう1人の自分であるビナーに満足しているのだった。
「真珠……ありがとう。こんな私を恨まずにいてくれて」
「いいよ。気にしないで。お母さんの真意はわからないけれど、お母さんが意地悪で私に言ったわけじゃないってわかるから」
◇
「ねーねー真珠ー真珠―」
「なにお姉ちゃん」
真鈴が真珠の肩を後ろから掴んで前後に揺らして絡みだした。
「私って、もしかしたら女優の才能があるのかもしれない」
「なんでまた急にそんなこと思ったの……」
「見てて、実演して見せるから!」
真鈴がキリッと気を付けの姿勢を取る。そして、そのまま歩く。手と足を両手に出すという、ベッタベタな歩き方をして。
「ムカシ ムカシ アルトコロニ オジイサン ト オジイサン ガ イマシタ あ、違った。 オジイサン ト オバアサン ガ イマシタ。オジイサン ハ ヤマヘ シバカリニ オバアサン ハ センタッキヲ マワシマシタ」
まさかの昔話。しかもナレーション役。しかも誰もが認める棒読み。最初の1行でセリフを間違えて、物語を勝手に改変するという数え役満。
「どう? 真珠? 私、女優になれそう」
「ん……うーん、がんばれば行けるんじゃないかな?」
「本当? やったー!」
真珠は言いたかった。お姉ちゃんには絶対無理だと。しかし、かつて自分がその言葉に傷つけられてた経験があるが故に言えなかった。なので、地の文が代わりに言っておこう。奴に女優は無理だ。大事なことなのでもう1度言う。アレに女優は無理だ。
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