第1位 里瀬 操
里瀬 操の恋煩い
里瀬 操。賀藤 琥珀の師匠にして、彼の恋人でもある。と言っても恋人関係になってからはまだ日が浅い。これは、琥珀と付き合い始めてから1週間も経ってない頃の物語である。
「どうしよう……」
クリエイターが最も忌み嫌うべき天敵とも呼べる相手。それは締め切り、納期、期日。言い方は色々とあるけれど、とにかく迫りくる時間。誰にでも平等に流れるもので、生まれてから与えられる
操は優秀なクリエイターである。高校卒業後、すぐにプロとして活躍して、まだ20代と若い年齢ながらも、その実力は業界内でも中堅クラス以上はある程の逸材だ。能力的にも高いし、計画性もある。決して、締め切りチキンレースをするようなタイプのクリエイターではない。
そう、優秀すぎるが故に今までの経験の中で締め切り直前で追い上げることはなかった。それは弟子に対しての教育方針にも表れていて、琥珀が規則正しい生活を送ったり、締め切りに余裕を持てるようになったのも操のお陰なのである。
それは逆に操の弱点でもあった。いざという時の火事場の馬鹿力。それを発揮する機会に恵まれていないのだ。たまに他責が追い込まれることはあっても、自責では全く問題を起こさなかった分、若くて経験が浅いことも相まって弱点部分が克服できていないのだ。
「それもこれもキミのせいだからな……」
操はスマホを開き、琥珀が映っている写真を眺めた。恋人になった記念に撮影したもの。それを無限に眺めていられる……無限に。気持ちは無限に耐えられても、時間は有限なのである。作業をしようと思っても、写真の琥珀が誘惑してきて、操の視線を釘付けにしているのだ。
「この! キミが悪いんだぞ! このっ!」
操はスマホの画面を指で何度もつついた。写真の琥珀はほっぺをつつかれても一切の反応を示さない。操の指先に伝わる硬い感触。スマホの画面が硬いのは当たり前であるが、操はついつい琥珀のほっぺの柔らかさや温もりを想像して実際につついてみたいと思ってしまう。
その雑念、煩悩がまたもや操の作業効率を鈍らせる。しかし、ここで立ち止まるわけにはいかない。もし、操が以前のように会社勤めで正社員であったのならば、簡単にクビを切られることもない。しかし、操は現在フリーランス。個人で活動しているからこそ、余計に信用を損なうわけにはいかない。信用の貯金は貯めるのが難しい分、貯めるほど絶大な効力を発揮する。しかし、失うのは本当に一瞬である。たった1度のミスで生涯の仕事を失うなんてことは珍しいケースではない。
操は琥珀の写真を一旦閉じて、スケジュールのアプリを開く。締め切りまで残り僅か。残り時間が短くなればなる程、取れる手がなくなっていく。操は以前、京都の寺で修行をして煩悩を振り払うことに成功した。しかし、残りの締め切り的に考えて、京都までの往復の移動時間と修行の日数を加算した結果、明らかに間に合わない。もう1度あの住職の世話になるルートは潰されたのだ。
琥珀に会いたい気持ちが募る一方で、作業時間もそれに比例して削られていく。近場でなんとか煩悩を発散できないか……操は一か八かの賭けに出た。電話帳を開き琥珀に電話をかける。
「もしもし。電話なんて珍しいですね」
愛しの琥珀が電話に出て、操の心拍数が上がる。女子中学生並のピュアな反応を示す23歳女性。
「えっと……Amber君。本当に大事な話があるんだ」
本当なら浮かれて声が上ずってしまうくらい声が聞きたかった相手だけれど、状況が状況でそんなことは発生しなかった。むしろ、締め切りと言う名の死神が背後で鎌を構えているので、声色が深刻な感じになった。
琥珀も操のただ事じゃない様子を察し、慎重に発言しようとする。
「師匠。なにかあったんですか?」
「その……直接会って話がしたいんだ」
「電話では言えない話ですね。わかりました。急を要するなら今すぐにでも会いに行きますよ」
普段なら、悪いからと断るところだけれど、操も時間がない。ここは素直に琥珀の好意に甘えるべきだと判断する。
「ああ、すまない。本当に時間がないんだ。今すぐ会えるなら嬉しい」
「はい。わかりました。とりあえず師匠は今家にいるんですよね? だったら、最寄り駅まで行って、そこに着いたらまた連絡します」
「ごめん。本当に助かる」
琥珀も常日頃に師匠として操に恩を感じていた。なので、本当に少しでも操の手助けができるのならば、琥珀にとってそれ以上に嬉しいことはないのだ。
◇
「お邪魔します師匠」
操の部屋へとやってきた琥珀。急いできたのか高校の制服を着たままである。
「やあ。Amber君いらっしゃい……お茶を出すからゆっくりしていってくれ」
「ゆっくりしている場合じゃないですよ! 一体何があったんですか?」
凄い剣幕で操に詰め寄る琥珀。意外なところで押しの強さを見せる琥珀に操はドギマギとしてしまう。
「あ、その……キミにお願いがあってだな……その」
「あ、すみません。言いにくいことでしたか。そうですよね。誰にも聞かれないようにわざわざ家まで来たんですからね」
「聞かれないというか見られたら嫌と言うかその……」
普段はキリッとしっかり者の操だが、今日に限ってはもじもじとしている。琥珀は師匠の様子のおかしさに気づき、首を傾げる。
「どうしたんですか? ハッキリ言ってくれないとわかりませんよ」
琥珀の鈍感さは操も知っての通りだ。ハッキリ言わなければ伝わらない家系なのだ。操は心を落ち着かせて、意を決して琥珀に想いを伝えることにした。
「Amber君! その……キミのほっぺをつつかせてくれないか?」
「え? 今なんていいました?」
琥珀は自分の聞き間違えかと思ってもう1度訊き返す。しかし、恥ずかしいのでもう1度言いたくない操。けれども、琥珀の性格上もう1度言わないと納得しないことは操はわかっていた。
「だから……私の指でAmber君のほっぺたをつつきたいんだ」
「師匠? 頭打ったんですか?」
「私は真面目だ! そうしないと締め切りに間に合わないんだ」
「どういうことですか?」
恋愛方面では察しが悪すぎる琥珀。常人ならば、恋人同士のスキンシップがしたくなったと解釈できるのに、それを言わせなければ理解できないのだ。
「だから……その。キミのほっぺをつんつんしないと気持ちが晴れないというかもやもやするというか……」
「なんかよくわかりませんが、“仕事”に必要なら仕方ないですね」
「そ、そうだ! 仕事で必要なんだ! ほら、クライアントから男性キャラの頬の質感とかをリアルに近づけてくれって言われてな。だから、Amber君に協力をお願いしたいんだ」
「ああ。そういうことですか。それならそうと早く言ってくださいよ。一瞬、師匠が働きすぎて頭がおかしくなったのかと思いましたよ」
いつもの鋭いナイフが操に突き刺さるも、それよりも琥珀が了承したことによる嬉しさが勝っていたので実質的なノーダメージ。操は息を飲んでから琥珀に近づく。
「で、ではいくぞ……」
操の人差し指が琥珀の頬に触れる。10代らしい張りのある肌ツヤからのぷにぷにとした触感がなんとも言えない。操の心は十分に満足した。
「ふう……Amber君助かった。これで仕事ができる」
「あ、そうだ。ついでだから、俺も師匠をツンツンしてもいいですか?」
「うぇ!?」
「俺も女性のほっぺたの感触を知っていた方が後々の作品に活かせると思いましてね」
「あ、それは……その」
作品のためと言ってしまった手前、琥珀に同じように要求されたら断れない。操は勝手に墓穴を掘ってしまったのだ。
「うう……少しだけだぞ」
「ありがとうございます。では、失礼して」
琥珀につつかれる操。思わぬ反撃を食らったけれど、それはそれで嬉しい反撃だと内心思うのであった。
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