第4位 椿 勇海/緋色

『再び立ち上がる気力を』

「勇海。お前はいつからそんな腑抜けになった」


 高校を卒業後、進学も就職もせずに家に引き籠ってばかりの勇海を父親が𠮟りつける。しかし、この時の勇海はライバルや目標を失ってしまったことにより、心が喪失していた。父親がどれだけ発破をかけてもなんにも響かない。母親がどれだけ泣き崩れても心が痛まない。そこまで彼の心は精神的に追い詰められていた。


 本来なら心療内科に通うほどの重症である。しかし、田舎故に心療内科は近場にはない。あったとしても、村社会であるが故にそこに通っていることがバレたら近所から白い目で見られる危険がある。なにより、両親が古い価値観の人間であるが故に、心の病気について理解をしていないのだ。気の持ちようで直るとしか思っていない。


「勇海。お前にはがっかりだ。お前が多少、勉強ができなくても、要領が悪くても、絵の才能があるからそこを伸ばしてやりたかった。でも、その肝心の絵も中途半端で終わらせるとはな。俺は、お前が美大に行きたいと言えば高い学費をいくらでも出すつもりでいた。仕送りだって惜しまないつもりだった。そのために俺たちがどれだけ生活を切り詰めていたのかわからないのか? 父さんや母さんは子供のためだからまだ我慢できた。でも、莉愛は……お前の妹にまで不自由な想いをさせていたんだぞ!」


「お父さんやめて下さい!」


 父親の一言に莉愛が止めに入った。兄を責める口実に自分を使われたくない。そう言った想いで止めたのだ。


 莉愛だって、我慢していたことはある。ピアノをやりたかったし、バレエに憧れていた時期もあった。けれど、家にはお金がないことを理解していた。両親が自分たちを大学に行かせるためにやりくりしているのを知っていた。だから、やりたい習い事も我慢できた。自分が習い事を我慢さえすれば、兄は志望している美大にいける。そう思うから、莉愛は耐えられたのだ。


 兄が自ら、美大に行くことを放棄したとしても莉愛は勇海を一切恨まなかった。小学生の頃はあれだけ興味があったピアノとバレエも、中学生になる頃にはすっかり興味が薄れていた。人間の気持ちなんていつ変わってもおかしくないことを莉愛は実体験として知っていた。だから、勇海が美大に行かないと決断したことも仕方のないことだと理解しているのだ。


「なぜ、こんなやつを庇うんだ莉愛! こいつのせいでお前は……!」


「私は……! 私の意思で我慢していただけだった! それをお兄さんのせいだと思ったことはありません! 習い事をどうしてもやりたかったら、自分の将来の分の学費を使えば良かったんです」


「でも、こいつが美大に行くのが夢だと語らなければ、お前の習い事くらいは……」


「私のことはいいんです! 私は今の人生で十分納得していますから」


 怒れる父を前にして涙ぐむ莉愛。その様子を見て、勇海は固く閉ざされた口をようやく動かした。


「莉愛……ごめん。俺なんかを庇って」


「ふん。なにがごめんだ。謝る意思があるなら行動で示せ! 行動で! 口だけならなんとでも言えるんだ! ったく、本当なら叩き出してやりたいところだが、その辺で野垂れ死にされても後味が悪い。それに、こんなバカ息子どこに出したって恥ずかしいわ! お前は2階の部屋に隔離する! 毎日3食食わすくらいのことはしてやる。穀潰しを飼っているのは世間体が悪いが仕方ない」


 元々、二世帯住宅用に作られたこの家は、1階が祖父母の居住区。2階が息子夫婦と子供のスペースとなっていた。祖父母が亡くなったことにより、1階のスペースは現在誰も使っていない。そのため、両親と莉愛はそこに移り、勇海だけ2階に隔離しようという腹の父親だった。


「莉愛。今日からお前は、1階に住むんだ。時々、2階から変な音が聞こえてくるかもしれないけど気にするな。人並に食うネズミが1匹紛れ込んでるとでも思っておけばいい」


 道を踏み外した息子に散々なことを言う父親。流石の莉愛もこれには我慢の限界だった。


「お父さん! 私は、お父さんとは一緒に住めません!」


「なんだと。まだ、高校生の分際で何を言っている!」


「来年になれば私も卒業です……そうしたら、就職します。就職組なら受験勉強がないので、3年次でもバイトできますから……それで自分たちの分の生活費は稼ぎます」


「就職!? バイトだぁ! 本気で言ってるのか? 大学はどうするんだよ!」


 先日提出した、進路希望調査。それに莉愛は『進学』を希望していた。それを知っていた父親は面を食らった。


「別に私のやりたいことに大卒の資格は必要ありません。医師になりたいわけでも、教師になりたいわけでもありませんから」


「でも、就職するにしても高卒と大卒では生涯賃金に大きな差が……」


「大切な家族を切り離して得られるお金なんていりません……私にはお兄さんを切れないんです」


 その言葉を聞いて、父親は憤怒の感情と悲哀の感情が同時に襲って来た。大切な家族を切り離せない。その大切な家族に父母の存在はなかった。莉愛にとって、自分たちは兄に害のある存在。そう判断されたと感じたのだ。


「なぜだ。なぜ、そこまで勇海を庇う。そいつは出来損ないだ。絵以外なんの取り柄もなく、絵を描いている時間以外はゲームばかりしている。その唯一の取り柄だった絵の道も諦めた男だぞ」


「お兄さんは優しかった。私がピアノの習い事を断られて落ち込んでいた時、ピアノを弾いている私の絵を描いてくれた。バレエの時は、バレエを踊っている私。私が叶えられなかったものを絵の世界で実現してくれた。絵の私はとてもキラキラと輝いていて、お兄さんの優しさが絵から感じ取れて、私は凄く嬉しかった」


「そうか……俺たち親子の絆はそいつの絵以下なんだな」


「お兄さんを切り捨てようとした人が親子の絆を語らないで下さい」


 その一言が決定的となり、両親と莉愛は決別することになった。決して埋まらない溝は出来てしまったけれど、両親は莉愛の高校の学費を最後まで面倒を見たし、莉愛が就職して生活がある程度安定するまでは、生活の援助を多少していた。父親に楯突いた莉愛を援助する義理は一切ないのにも関わらずしてくれた。それに関しては、莉愛は感謝しているのだ。


 ただ、これには裏があったのだ。莉愛と父親が衝突した翌日、父親は莉愛の学費を滞納すると脅しをかけることで、莉愛を説得しようとしていた。


 そのことを知った勇海が父親に土下座をしてまで、莉愛の学費を出してくれるように懇願したのだ、


「父さん! 俺は追い出してくれても構わない。でも、莉愛の学費だけは最後まで出して欲しい。俺の私物を全部売ってくれてもいい。画材やパソコンやその周辺機器。全部売れば……いや、莉愛のプレゼントのマイクは売れない……それ以外でも多少の足しになると思う。全額出せだなんて言わないから……だから」


「顔を上げろ勇海。そんなはした金いるか。それにお前を追い出すつもりはないとこの前言ったばかりだ。莉愛の学費は心配するな。俺の娘だ。学費のことなら最後まで面倒を見てやる」


 親に逆らう気力すら見せなかった勇海。生きているのか死んでいるのかわからない。意思表示すらしなかった勇海が、莉愛のために動いた。それで父親は勇海を認めたわけではないが、再起の可能性を感じ取ったのだ。


 勇海は父親に土下座をした日から徐々に心が回復していった。自分を庇ってくれた莉愛のために何かしたいという想いが彼の死んでいた心を再び蘇らせたのだ。


 莉愛が高校卒業後、運命が大きく変わり出した。


「お兄さん。その……お願いがあるんです。もう1度、仮想の世界で活躍する私を描いて欲しいんです」


「絵か……莉愛のためなら何枚でも描ける。それでどんな絵だ?」


「Vtuberの立ち絵です。私、Vtuberになってみたいんです。バーチャルの世界なら、現実では実現ができないことも実現させられるんです! お兄さんの絵にはそれだけの力がありますから、お兄さんに絵を描いて欲しいんです」


「わかった。莉愛の仮想の姿か……やってみる」


「もちろん報酬はお支払いします。家族とはいえ、ここはきっちりしておかないと」


「あ、いや。妹からお金は取れないというか……」


「ダメです。貰ってください。お兄さん、お金ないんでしょ。それだと、いざという時困ります。私のVtuber活動を支える対価ですので、遠慮せず受け取って下さい」


 妹の押しに弱い勇海は結局報酬を受け取ることになった。勇海は莉愛のために働くことで、徐々に立ち直っていき……やがて、偶然出会った琥珀と向き合えるまでになれたのだった。

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