『コンピュータババア』

「部長。長い間お疲れさまでした」


 とあるソフトウェア開発会社にて、老齢の女性が定年退職する日。平社員時代から彼女にお世話になっていた主任の1人が別れ際に挨拶をした。


「賀藤君。後のことは頼んだよ。定年退職を迎える前にキミに出会えて良かったよ。本当はキミを私の後釜にしたかったんだけどねえ」


「あはは。流石に主任からいきなり部長は昇格しすぎですよ。私はまだまだ実力不足ですし、私の上の人間も納得しないでしょう」


「全く……年功序列かなんだか知らないけど、嫌になるねえ。若手よりも実力がない癖にプライドだけは一人前。後進を育てる気がないのなら会社は先細りする一方なのに」


 今日で退職するからと好き放題に言う女性。それに対して、賀藤 大亜は「あはは」と愛想笑いをするくらいしかできなかった。


「まあ、私の後ろ盾がなくても、キミならばなんとかなるでしょう。上の一部の人間には睨まれながらも、キミを支持している層は上にも下にもいる。困った時は彼らの力を頼りなさい」


「はい。私をここまで育ててくれてありがとうございました」


「うん。では、私はそろそろ失礼するよ。老兵は去るのみってね」


 女性が会社を退職してから2週間が経った。女性は、朝起きて会社に行かなければと思うも、既に退職したことを思い出して寂しい気持ちになった。


 女性は結婚していたが、子供はできなかった。子供代わりにと犬を飼い、夫と犬と家族“3人”幸せな暮らしをしていた。夫に先立たれて辛く苦しい日々を送っていたが、その傷を飼い犬が癒してくれた。でも、犬の寿命は所詮20年に満たない程度。老衰で実の子のように可愛がっていた犬も逝去せいきょした。


 老齢の女性ながらも、コンピュータの知識に長けて、技術力も高い彼女。男性比率が高い職場ながらも女性の身で部長の地位にまで上り詰めた実力者である。会社では『コンピュータババア』という異名を裏で付けられていた。


 コンピュータはセーフ。お婆ちゃんもセーフ。だけど、この2つの言葉を繋げるとなぜかアウトになってしまう世の中。コンピュータの代わりの言葉を見つけるよりも、お婆ちゃんの方の代わりを見つける方が早いので、ババア呼ばわりされるという悲劇を背負ってしまったのだ。


 そのコンピュータババアも、退職したらただの人。大規模なソフトウェア開発も体力的に1人では行えないし、ただ単にちょっとパソコンに詳しい程度のお婆ちゃんでしかないのだ。


 要は暇を持て余しているし、家族もいない。生きる気力がないのだ。


 新しいペットを飼おうにも、彼女はもう高齢。ペットを飼う時の心構えとして最期まで面倒を見るというものがある。今更新しいペットを飼ったところで面倒を見きれる年齢かと言われると怪しいところだ。それに、仮に80、90まで健康に生きられたとしても、その途中でほとんどのペットは寿命を迎えてしまう。それはそれで辛いことなのだ。


 彼女の繋がりは、あんまり密な関係ではない親戚と近所付き合い程度。ほぼ孤独と言ってもいい。そんな彼女にもネット上での付き合いがあった。SNS。仕事上で親交があった相手を何人か友達登録をしていたのだ。彼女が目をかけていた大亜もその1人である。


 SNSを起動させると大亜がなにか変な記事をシェアしているのを発見した。これは、とある団体が仮想空間で飼えるペットと触れ合えるサービスの展開をしようとしているという内容のものだ。そのページの下部にモニター募集というバナーが貼りつけてあった。それをクリックすると応募ページに飛んだ。女性は興味本位から、このモニターに応募することにしたのだ。


 数日後、女性の元に郵便物が届いた。モニターの抽選に当選したという連絡と仮想空間に入り込むのに必要な道具一式だ。代表の八城 辰樹という人物が書面で指示した通りに、VRゴーグルやらモーションキャプチャをセットして、プログラムを起動する。女性の目の前に現れたのは、三つ首の黒い犬だった。


 黒い犬の名前はセサミ。代表の八城が熱を上げている犬だ。この犬を制作したのは、女性の元部下であった大亜の弟、賀藤 琥珀である。だが、彼女はそのことを知らない。


「おやあ、可愛い犬だねえ」


 女性はしゃがみこんでセサミの目線に合わせた。セサミに警戒されないようにゆっくりと視線を合わせる。セサミは首を傾げながらも視線をそらさずに、女性に興味津々といった仕草を見せる。


「いい目だねえ。きっと純粋で良い子なんだろうねえ」


 デザイン的には、可愛さに振り切っているセサミ。しかし、どこぞの別世界でのセサミ……特に真ん中の首はとてもゲスいことを彼女は知らない。知ってはいけないのだ。知らない方がいいことが世の中にはある。


 女性はセサミに手を差し出した。セサミは恐る恐る鼻を手に近づける。ツンと1回突き、引っ込める。また、ツンと鼻を差し出して様子を見ている。やがて、安全だと判断したのか、手にもたれ掛かるような動作を見せた。


 VRの世界故に触覚は感じられない。だが、女性の脳が勝手に触覚を補完して、どことなく犬の温もりを感じられるような感覚に陥る。


 女性が指でセサミの顎の下あたりを、こちょこちょとくすぐる。セサミもそれに反応して、気持ち良さそうに女性にもたれ掛かる。真ん中の首が気持ち良さそうにしているのを見て、左右の首が自分もやってくれと言わんばかりに首を差し出してくる。女性は順番にセサミの首にスキンシップを取り、癒しの時間を堪能したのだ。


 まるで本当の犬と触れ合っているかのような感覚になった女性。しかも、世にも珍しいケルベロスとの触れあい。このVRのプログラムを作り出した制作陣には感謝の気持ちしかなかった。


 ほぼほぼ天涯孤独な身の女性。浪費癖がないし、高い給料も貰っていたので貯金も大量にあるし、今までの功績から退職金もそれなりに貰えていた。しかし、それの使い道も思い浮かばなければ遺したい相手もいなかったのだ。だが、女性は今日のこの日のセサミとの触れあいで、ある1つの人生の目標を手に入れたのだ。


「決めたよセサミちゃん。私は、八城さんとやらに資金提供をしてやろうじゃないか」


 こうして、本来はケモノがエロエロなことをするような作品を作っている変態集団がたわむれで作ったプログラムのお陰でパトロンを得たのだった。神が変態に技術と才能を与えた結果がこれである。このコンピュータババアが、この集団の本当の姿に気づかないことを祈るばかりである。



「もしもし、賀藤君。ちょっといいかしら」


「ええ。いいですよ」


「賀藤君は副業でアプリを作っていたよね? 私もアプリを作ってみたんだけど、賀藤君の目からみて評価をお願いしたいの」


「私が部長の評価をですか……? わかりました。評価の基準はどうしますか?」


「もちろん、厳しめで見てくれると助かる。元上司だからと言って遠慮はいらないから」


「はい。いいですよ。私の厳しめは本当に容赦がないですからね」


「ええ。それくらいでないと意味がないもの」


 本来ならば、貯金と退職金のお陰でこれ以上働く必要がない女性。しかし、セサミの影響で気力が沸いてきて、なにかしないと落ち着かなくなってきた。つまり、ちょっとした労働のお陰で生活にハリが出てきたのだ。


 気力もなく、家族もなく、孤独に死んでいくだけだった女性を知らず知らずの内に救っていた少年と変態がいた。名を【賀藤 琥珀】と【八城 辰樹】。2人はまだネット上ですれ違っただけで直接対面はしていない。だが、呼吸を合わせる意図がなくともこの相性の良さである。2人の化学反応はまだ無限の可能性が秘めているのかもしれない……けど、その可能性が正しい方に行くとも限らない。正にパンドラの箱とも言える存在なのだ。

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