二人だけの約束

 僕らは観覧車からかなり離れたところまで走り、近くにあったベンチに腰を下した。

 ドキドキとハラハラで、二人とも安堵の溜息を吐いていた。



 「あードキドキした! でも上手くいったね!」

 「はあ……はあ……疲れた。本当にどうなるかと思ったよ……」

 「ふふん、さすが私の作戦でしょ? これで吾妻に貸しイチね!」

 「物凄く思うところはあるけど、助かったからいいよそれで」



 あんなことがあった後だとは思えないくらい、僕らが見上げた空に浮かぶ雲は穏やかに流れていた。

 時間も午後四時を回り、徐々に日も傾いてきている。榛名さんの件もあるし、少し休んだら早めに帰るのが得策だな。



 「昔はさ、ここに来たあと、おばあちゃんがよく銭湯に連れてってくれたよね」

 「ああ……まだあるのかな、あの銭湯」

 「確か吾妻、学校上がる前でさ、女湯に入らされるの凄く嫌がってたよね? 面白かったな……」

 「へ、変な事思い出すな! お前も少しは恥じらえよ」

 「別にいーじゃん、小さい頃なんだしさ!」



 もう帰る間際になって、僕らは少し名残惜しかったのか、つまらない思い出話に花を咲かせてしまっていた。

 でも、もうこの時間も終わりなんだ。ずいぶんバタバタとしてしまったけど、なんだかんだで最後に毘奈とここに来れて良かった気がする。


 

 「休んだことだし、そろそろ帰ろうか……」

 「……ちょっ! 吾妻こっち来て!」

 「は……え?」



 不意に何かに気が付いた毘奈が、すっかりリラックスしきっていた僕の腕を取り、アトラクションの物陰へと引っ張った。



 「ど、どうしたんだよ? 急にこんなとこまで! そ……それに……」

 「しっ!! 静かにして、榛名さんたちだよ!」



 ああ、分かってる。今回も危ないとことだった。でも、問題はそこじゃない。毘奈は上手く身を隠す為に姿勢を下げ、あろうことか僕の顔を胸に抱きかかえるように押さえつけていた。

 如何に毘奈とはいえ……十四歳の中学生だとはいえ、小さな頃のものとは異なる柔らかな感触に、僕は胸が高鳴って興奮を隠せなかった。



 「吾妻、近くに来るよ、もう少し我慢してて!」



 おいおい、我慢って……一体僕は何に対してどう我慢しなきゃいけないんだ。毘奈の腕とおっぱいとの狭間で、僕は必死に何かと戦っていた。

 そうだ、僕らのすぐ近くを通り過ぎて行く、彼女たちのその言葉を聞く前までは……。



 「それにしてもさ、あの時の那木、マジ傑作だったよね!」

 「そうそう、雨嶺の告白、真に受けちゃってさ! まあ、雨嶺の演技力の賜物だよね、さすが女優志望!」

 「ちょっと、勘弁してよ。罰ゲームだからってさ、あんな男子に告白させられる身にもなってよね……」



 僕は一瞬、彼女たちが何を言っているのか理解できなかった。罰ゲーム? あの榛名さんの口からそんな酷いこと……。そうだ、これは夢だ、夢に決まってるさ。



 「大体さ、雨嶺が那木みたいなイケてない男子に告るわけないじゃん。上手くいきすぎちゃって、こっちが困っちゃうよね」

 「そうそう、告白の呼び出しを授業中にあんな手紙で回すわけないし、普通に考えればわかるっしょ? 普段賢ぶってるくせして、馬鹿だよね、あいつ」

 「ねえねえ雨嶺、明日デートの約束したんでしょ? どーすんの、行くの?」

 「行くわけないじゃん! 明日は仕方ないから、急用ができたってことにするよ。あーあ、本気にしちゃってるし、どうフッたらいーのかな……」



 動揺する僕の心へ、次々と心ない残酷な言葉が突き刺さってくる。夢なんかじゃない。僕の耳下では、毘奈の波打つ鼓動がこんなにもリアルに響いているのだから。もうどうにかなってしまいそうだったよ。 

 だけどそれ以上に、更に高鳴っていく毘奈の鼓動と、怒りに震える彼女の腕の感触が恐ろしくてならなかった。



 「でもさ、おじいちゃんにタダ券もらったから来てみたけど、この遊園地つまんなかったね」

 「ほんと、なんか汚くてボロいしさ、どのアトラクションも子供騙しだし、来るんじゃなかったね。混んでてもデェスニー行けばよかった……」

 「さっきも変なカップルいたけどさ、こんなしょっぱい遊園地連れて来る彼氏ってどうなの?」

 「ないない、絶対無理! 百年の恋も冷めるっつーの! だけどさ、案外那木とかだったらあり得るんじゃない?」

 「ちょっとやめてよー!! 冗談じゃなくて、本気で連れてこられそうだし……」



 もう本当にやめてくれ。僕のことはいい、悲しいけど耐えられるからさ。だけど、こいつは……毘奈は僕みたいに我慢強い奴じゃないんだ。



 「ちょっと待ちなよ!!」

 (ひ、毘奈! あー言わんこっちゃない!)



 僕の制止を振り切り、毘奈は公然と飛び出していった。そして、振返る彼女たちの前に、毘奈は静かな怒りをたぎらせて仁王立ちしていた。

 榛名さんはその威風堂々とした姿を見て、毘奈が何者であったのかやっと気付いたようだった。



 「あ、あなた、思い出した! 確か五組の天城さんだよね? どうしてこんな……」

 「馬鹿にしないで!!」

 「……え?」

 「ここはね、ここに来た人たちの……大事な人たちとの、大切な思い出が沢山詰まった場所なの! 馬鹿にしないで!!」



 突然現れた毘奈の鬼気迫る剣幕に、榛名さん含め軽口を叩いていた三人は完全に呆気に取られてしまった。

 物凄く気まずい空気に、榛名さんの横にいた二人が咄嗟にフォローに入る。



 「や……やだなー! 冗談だよ冗談! 真に受けないでよ」

 「ごめんごめん、気に障ったなら謝るよ! そんなに怒らないでよ!」



 ダメだダメだ。そんな取って付けたような謝罪で、本当に怒った毘奈が納得するわけがない。それに、問題の本質はそこじゃないんだ。



 「榛名 雨嶺さん……だよね? さっきの告白の話、本気で言ってるの?」

 「告白って、那木君とのこと? やだ、聞いてたんだ。ひょっとして知り合い?」

 「本気で言ってるのかって聞いてるの!!」



 怒りを露わにする毘奈に、他の二人はすっかり黙ってしまった。それに反して、榛名さんは不快感を出し始める。



 「本気もなにも、聞いてたんでしょ? ちょっとしたお遊びの罰ゲームだよ。あなたに何か関係あるの?」

 「よくもそんな酷いことぬけぬけと言えるね……許せない、吾妻に謝って!!!」

 「だから、何であなたにそんなこと指図されないといけないの? あなた何? 彼のお母さん?」

 「吾妻は私の幼馴染! 大いに関係あることだよ!!」



 それを聞いた榛名さんは嘲るように鼻で笑った。これは本当にまずいぞ。毘奈の怒りに触発されたのか、あの控えめだった榛名さんのボルテージも上がってきている。

 毘奈はマジギレしているように見えるけど、これでも最大限怒りを抑えている方なんだ。だから頼む、これ以上毘奈を煽らないでくれ。



 「私、今何かおかしいこと言った? 笑う意味が分からないんだけど」

 「だってさ……幼馴染って……。分かった! 天城さん、あなた那木君のこと好きだったんでしょ? そうかー、だからそんなに怒ってるんだ!」 

 「何を言ってるの?」

 「そんなに那木君のこと好きならさ、天城さんが付き合ってあげればいいんじゃない? そうだよ、名案! 彼モテないだろうしさ、天城さんが付き合ってあげたら、きっと凄く喜ぶよ! 私もすっきり縁切れるしさ、そうしない?」

 「もういい、黙って……」



 人は見かけによらないってのは本当だったんだね。実際今この耳で直接聞いてて尚、僕はあの控えめな美少女がこんな悪態を吐いてるなんて信じられなかった。

 そして、ダメ押しとも言えるようなその一言で、事態はもう取り返しのつかない方へと一気に傾いたんだ。



 「それでさ、傷ついた幼馴染同士、仲良く傷でも舐め合えばいいじゃん」



 言ってしまった。きっと売り言葉に買い言葉ってこともあったのだろう。だが、この恐れ知らずで本当に悪辣な美少女は、見事に越えてはならぬ一線を越えてしまったんだ。

 数秒間下を向いて沈黙した毘奈は、いよいよ右足を大きく前に踏み出し、怒鳴り散らすかのように叫んだ。



 「あんたなんか……あんたなんか!! 泣いて謝ったって、絶対に吾妻と付き合わせてなんかやるもんか!!!!!」



 ついにブチキレた毘奈が、榛名さんに向かって飛びかかろうとした刹那、僕はずっと隠れていた物陰から飛び出し、振り上げられた毘奈の右手を掴んでいた。



 毘奈がここまで怒った理由……。



 それは幼馴染である僕ですら、本当の意味で知るところではなかった。


 

 心当たりがあるとすれば、あれは遠い昔……。



 もうどれくらい前になるだろう?



 遊び疲れた僕が居間でうたた寝をしていると、騒がしい蝉の鳴き声と涼し気な風鈴の音が響く縁側で、毘奈とばあちゃんが何やら楽し気に話をしていたことだけは覚えている。



 ――……



 ――だってヒナ、年上でヒナより足の速い人がいいんだもん!



 ――そりゃ困ったね、おばあちゃん今から吾妻が心配だよ。



 ――うーん……じゃあね、おばあちゃん、ヒナが見つけてあげる! 吾妻にとびっきりのお嫁さん、ヒナが見つけてあげるよ! それなら安心でしょ?



 ――おやまあ、ヒナちゃんには敵わないね。でも……ヒナちゃんが見たててくれるんなら、おばあちゃん安心だよ。



 ――……



 それは、かつて空がどこまでも広く、世界が偉大であったあの夏の日の……二人だけの約束だった。


 

 「吾妻、止めないでよ!! この女だけは許せない!!!」

 「な……那木君!? ど、どうしてここに?」



 さすがに僕がここにいるとは思っていなかったらしく、榛名さんはさっきまでの太々しい態度が嘘だったみたいに動揺していた。



 「そ……そうなんだ、二人ともグルだったんだ。あ……明日デートに誘っときながら、今日もずいぶんと楽しそうじゃない?」

 「僕と毘奈はただの幼馴染だよ。まあ、だからと言って褒められた行為じゃないけどね。……でも、最低なのはお互い様だろ?」



 榛名さんも他の二人も、口をつぐんでしまった。そうだよな、ここまで悪事がバレてしまえば何も言えないよな。

 後は僕の横で、今にも殴りかかろうとしているこの猛獣を何とかしないといけない。



 「離してよ吾妻!! こういう女はね、一度引っ叩いて痛い目見せないと!!」

 「榛名さん、別に謝ってくれなくたっていい。お願いだから、早くここから消えてくれないか? いつまでもブチキレたこいつを抑えておける自信はないからさ……」



 彼女たちは怯えながら顔を見合わせると、逃げるようにそそくさとその場を去って行った。

 そして、彼女たちの姿がもう見えなくなった頃、毘奈は拳を振り下ろす場所を失くし、彼女の腕を掴んでいた僕の右手を力任せに振り払ったんだ。



 「毘奈、怒ってくれてありがとな……俺なら大丈夫だからさ、もう帰ろ……」

 「……酷いよ、今日は大事な日だったのに……おばあちゃんとの大切な思い出、いっぱい思い出してたのに……なんでここで、あんな酷いこと言うの……」



 いつの間にか、怒りに満ちていた毘奈の瞳からは大粒の涙が溢れ出し、乾いたコンクリートの上へ止めどなく滴っていた。

 そして感極まってか、毘奈はこの遊園地のど真ん中で、膝を落としてわんわんと泣き崩れてしまったのだ。

 それを見た人たちが、周囲に集まって来る。



 「ママ、あのお兄ちゃん、お姉ちゃんを泣かしてるよ!」

 「まあ、ほんと、最低な彼氏ね」

 「あんなに可愛い女の子を泣かすなんて……」

 「なんて野郎だ、殴ってやりたい気分だな!」



 おいおい、勘弁してくれよ。正直言って、今泣きたいのはこっちの方なんだ。それなのに、これじゃまるで僕が悪い奴みたいじゃないか。

 僕は周囲の冷ややかな視線に耐えながら、泣きじゃくる毘奈を必死に宥めるようにして遊園地を出た。

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