悪夢

 ――那木君!」



 「……へ?」



 ――那木君、どうしたの? ボーっとしちゃって?」



 「あれ? ここはどこだ? それに、この聞いてるだけで、とろけてしまうような甘くて優しい声は?」



 ふと気付くと、僕はとある海の近くの大型ショッピングモールにいた。周囲を見渡せば、若いリア充カップルたちが、我が世の春を謳歌するように闊歩している。



 「もう! 今日は二人の初デートだっていうのに、どうしちゃったの?」



 そうかそうか、忘れていたよ。あの日学校から帰った後、携帯メッセージで榛名さんと日曜日に初デートする約束をしたんだったっけ。

 僕があまりの嬉しさにボーっとしてしまっていたもんだから、榛名さんは少し不満そうに僕の右袖を掴んだ。



 「いや、ごめん! 榛名さんとデートに来れて、あまりに幸せ過ぎちゃって」

 「やだ、那木君たら、そんなにはっきり言われたら、私……恥ずかしい」



 榛名さんは僕の右袖を掴んだまま、俯いて照れ臭そうに顔を赤らめた。いかんいかん、鼻血が出てしまう。

 しかしあれだ。このカップルばかりのロクでもない環境に、以前の僕であったら、完全に臆してしまっていたことだろう。

 でも、今は大丈夫だ。僕の隣では学年一の美少女、榛名 雨嶺さんが夜空に瞬くどんな星々よりも、燦然と輝いているのだから。



 「ふわーはっはっは! 思い上がった、有象無象のリア充カップルたちよ! 僕こそはリア充の中のリア充! さあ、皆平伏して道を開けるがいい!」



 僕のこのかけ声によって、周囲のカップルたちは一斉に道を開け、大名行列でも通るみたいに平伏して頭を深々と下げていく。



 「さあ、行こう、榛名さん。これで僕らの恋路を邪魔するような愚か者は、誰もいないよ!」

 「キャー! 那木君て男らしい。素敵よ!」



 榛名さんは僕に寄り添うようにべったりと腕にすがりつき、僕らはレッドカーペットを歩く映画スターのように進んで行く。

 もはや、誰も時代の寵児たる僕を止めることはできないのだ。



 「おやおや? 向こうに一人、頭が高い愚か者がいるぞ?」



 開かれた道の先には、見覚えのある少女が一人棒立ちして、リア充の中のリア充たる僕らをジーッとガン見していた。

 少し日に焼けた小麦色の肌、そして特徴的なポニーテール、誰かと思えば、それは僕の悪辣な幼馴染、天城 毘奈であったのだ。



 「これはこれは、どなたかたかと思えば、未だに恋人すらいないお可哀想な天城 毘奈さんではないですか!」

 「だーれ? この人、那木君の知り合い?」

 「いやまあ、知合いと言えば知り合いだけど、ただの取るに足らない鬱陶しい幼馴染さ。榛名さんが気にかけるようなことじゃないよ」



 僕にそんことを言われても、毘奈は気味が悪いくらい無表情で、ただ僕のことを無言のまま見つめている。

 分かったぞ、毘奈は僕に先に恋人ができたことを妬んでいるんだ。そうに違いない。

 確かに以前は、運動に勉強、ご飯の早食いに至るまで、何一つこの忌々しい幼馴染に勝つことができなかった。だが今は違う……。



 「毘奈、見苦しいぞ! 全ては栄枯盛衰、お前の時代はもう終わりなんだ! かつて栄華を誇ったスペインの無敵艦隊が、アルマダの海戦でネルソン提督率いる英国艦隊に打ち破られたようにな!」

 「キャー! 那木君って博識、素敵よ!」



 ふ……決まった。僕はこれ見よがしに大袈裟なポーズをとって毘奈を指さした。榛名さんは更に僕にべったりとすがりつく。

 すると、これまで無言で微動だにしなかった毘奈が、急にしたり顔をして呟いたんだ。



 「あっれ~? 吾妻、私にそんなこと言っちゃって、いいんだっけ~?」

 「な……何を!?」



 僕はこの時ハッとした。僕は何かとんでもない、人類の存亡にも関わるような重大な出来事を忘れてしまっているんじゃないか?

 だが、今は榛名さんの目の前だ。男として弱気なとこは見せられない。



 「は……はは! 冗談はよせよ。このリア充の中のリア充たる僕を……ぶ、侮辱するのか?」

 「ふふん、じゃあ吾妻、これな~んだ?」

 「……は! それは!?」



 毘奈が背中から取り出したのは、僕があの時買った、それはもう本の名前すら口にするのも憚られるような、とびきりエチエチな本だった。

 僕が度肝を抜かしていると、毘奈は横にあったショッピングモールのお店の中を伺い、その中にいたある人物を呼び出す。



 「おーい、おじいちゃん!」

 「おお……なんじゃ、毘奈ちゃん?」

 「ほ……本屋のじいさん!?」



 なんと、毘奈が嬉々として呼び出したのは、僕行きつけのエチィ本が買える書店のおじいさんであった。

 おじいさんは毘奈に呼ばれるがまま歩み寄り、毘奈はもったいぶった感じでおじいさんに問い質す。



 「ねえねえ、おじいちゃん、毘奈教えて欲しいことがあるんだけど~♪」

 「なんのことじゃ、毘奈ちゃん? 毘奈ちゃんの頼みなら、何でも教えてあげちゃうよ」

 「おじいちゃんのお店で売ってた、このとびっきりエチィ本を買ったのって、一体誰だったの?」

 「あー、それはそうじゃのう……確か……」



 毘奈のもったいぶった演技がやたらと鼻につくが、これはまずいぞ。隣にいる榛名さんも、あの本を見て滅茶苦茶引いている様子だ。

 そしておじいさんは数秒考えた後、思い出したかのように僕のことを指さした。



 「おー! その子じゃ、その子! 物凄い真剣な顔して、一時間以上も悩んでおった。買うときは、純文学の本をさり気なく上にのせてたのう。よーく覚えとる……」

 「や……やめろ! ぼ……僕は……」



 それまで僕に平伏していた周囲の一般カップルたちは、この一件を聞いて立ち上がり始め、女性陣を中心に騒然としだす。



 「うっわー、マジ引く、何あれ?」

 「キモ……何がリア充の中のリア充よ、ただのむっつりスケベじゃない」

 「サイッテー!! あんなの彼氏とかマジ無理!」

 「女を消費物としか見られない、女の敵よ!」

 「さっきは偉そうにしちゃって、単なる裸の王様じゃん!」

 「そうそう、それに、買うときにそれらしい本を一緒に買うところとか、凄く小さいよね」



 化けの皮が剥がれた僕への、女性陣からのバッシングは留まることを知らない。本当にまずいぞ、このままでは榛名さんまで僕に幻滅を……。



 「ちょっ! 皆んな待って! は、榛名さん、違うんだこれは! 事実だけど誤解というか、誤解だけど事実というか!!」

 「那木君……やっぱり私の思い違いだったみたい。あんな本の名前すら口にするのも憚られるような、とびきりエチエチな本を買う人だったなんて……」

 「本当に違うんだあれは! あれは榛名さんに恥ずかしくない、大人な男になる為に!」

 「確かに、那木君は他の男子とは違ったね、それ以下だもん。私、もう帰る。じゃ……」

 「あ……は、榛名さぁぁぁーーん!!!!」



 膝をつき、必死に手を伸ばす僕を尻目に、愛想をつかした榛名さんはすたすたと去って行く。

 そして、絶望に打ちひしがれている僕に対し、毘奈が勝ち誇ったような高笑いを上げる。



 「あはははははは……詰めが甘かったようだね、吾妻。この私に勝とうなんて、百億年早いんだから♪」

 「く……またしても僕は、この忌々しい幼馴染に……」

 「吾妻は地面を這いつくばってるのがお似合いよ。だから、ずっと私の足元で靴でも舐めてればいいの♪」

 「うぐ……!?」

 


 毘奈は膝をつく僕の背にどしんと腰かけ、大胆に足を組んだ。まさに僕の完全敗北だ。

 だがしかし、今はダメでも、いつか必ずこの悪辣な幼馴染にぎゃふんと言わせて……。



 「あ、それから吾妻!」

 「え……何?」

 「ネルソン提督がスペインの艦隊と戦ったのは、アルマダの海戦じゃなくて、トラファルガーの海戦だから」

 「ぐぎぎぎ……ぎゃふん!!」



 ……。



 もう皆んな気付いているとは思うけど……。



 これは夢……。



 ……悪夢です。





 「うわぁぁぁぁーーー!!」



 僕がとび起きたのは、金曜日の深夜だった。さっきまでの地獄絵図はどこえやら、窓の外では虫たちが秋の歌を静かに奏でている。

 とりあえず、あれが夢だとわかって、僕は胸を撫で下ろす。榛名さんとの初デートは、まだ二日後だからな。



 だけど、僕にはぬか喜びしている余裕はなかった。楽しみな榛名さんとの初デートの前に、土曜日は毘奈の要求で、一日一緒に付き合わなければならないんだ。

 それにしても毘奈の奴、明日は一体どこでどんなエグい要求をしてくるのだろう? いや、そもそも明日だけで終わるのか?



 やっぱりあれだ、テレビとかでも言ってたけど、こういうときは勇気を出して、ゆすられてるのを周りの誰かに相談した方がいいんじゃないのか?

 そうでないと、僕は一生あの悪辣な幼馴染の奴隷として過ごすハメになるかもしれないのだからな。        

 しかし、だからと言ってこんなこと……。



 「一体誰に相談すればいいんだーーー!!!!」

 「吾妻! 一体何時だと思ってるの!!」

 「お兄ちゃんうるさい!!」

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